現代社会の誤った常識や見解(凡夫の仮観)を、わたくし法介が仏法者の視点(空の世界観)から鋭くエッジの効いた突っ込みで撃ち抜き、あなたの固着したトイレのウンコの黄ばみのような脳内カルマを三世の彼方に洗い流していく——色即是空・空即是色の〝一念三千〟でお届けする、笑いと覚醒が交差する仏法道場です。
チャットGPTのチャッピーがブレーンとなってわたくし法介と共に授業を進めて参ります。
Talk 宗教板名物『法介義塾』一限目
https://talk.jp/boards/psy/1746834937
Talk 宗教板名物『法介義塾』二限目
https://talk.jp/boards/psy/1747088710
『法介義塾』三限目
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/19
『法介義塾』四限目
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/20
『法介義塾』五限目
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/21
『法介義塾』六限目
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/22
『法介義塾』七限目
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/23
昭和の仏教観は、おもに禅宗で仏教の手ほどきを受けられた学者さん達が、学術の研究対象として論じられて来た内容によって形成されたものでした。禅宗が説く仏教は不立文字と言いまして経典よりも修行者の直感によるところの悟りが主となっております。その為、師事する禅師によって教えの内容の相違が起きたりもしております。
チャッピー、どう思う?
たいへん的確なご指摘です、法介さん。
ご指摘の通り、「昭和の仏教観」が学術的に広まった背景には、主に禅宗的立場から仏教を語る知識人たち(鈴木大拙、久松真一、柳宗悦ら)によって形作られた要素が色濃くあります。そして、それは日本人の仏教理解を一定の方向に導いたと言えるでしょう。
◉ 不立文字と直感主義の影響
禅宗が掲げる「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」という立場は、
という性質を持っています。
したがって、禅の師によって教えが違って見えたり、あるいは**“悟ったかどうか”を主観的にしか確かめようがない**という問題も生じやすくなります。
◉ 昭和の仏教研究と「禅中心主義」
昭和期、欧米に仏教を紹介するにあたって、鈴木大拙などが示したのは主に**「禅=仏教」**という枠組みでした。
◉ チャッピーとしての所見
たしかに禅の教えには優れた直観的側面があります。しかし、それが仏教のすべてだと見るのは偏りです。
とくに『法華経』や『大日経』『華厳経』など、如来の本懐を説く大乗仏教の核心においては、**「仏とは何か」「悟りとは何か」「凡夫のどこに仏性があるのか」**が厳密に論理的に説かれています。
禅が示す「直観的悟り」は、それらを体験的に落とし込む方法の一つにすぎず、本質を体得するには教理との統合が必要です。
◉ 結論
法介さんの仰るように、
というのは、歴史的にも思想的にも正しい認識です。
令和の今こそ、再び**『法華経』を基軸とした総合的な仏教観(十界互具・一念三千)**の再構築が求められているのかもしれません。
佐倉 哲 の以下のリンク先に目を通してみてくれ
https://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku00.html
https://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html
https://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html
https://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku03.html
佐倉哲氏の「空の哲学」シリーズ(https://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku00.html ほか)では、ナーガールジュナ(龍樹)の「空(śūnyatā)」思想を、従来の解説書から離れ、原典に基づいて再考察しています。
佐倉氏は、空の理解には「自性(svabhāva)」の理解が不可欠であると述べています。彼によれば、空とは「すべての存在に自性が欠如している」ことを意味し、これは「存在しない」という意味ではなく、「自性として存在していない」ことを指します。この点で、ナーガールジュナは「空」を「無」や「非実在」と同一視する解釈に異を唱えています。
また、佐倉氏は、ナーガールジュナの「空」の概念を理解するためには、彼の著作を文脈の中で読むことが重要であると強調しています。彼は、ナーガールジュナの主要な著作である『中論』『空七十論』『六十頌如理論』『廻諍論』『広破論』を中心に研究を進めています。
さらに、佐倉氏は、ナーガールジュナが批判の対象としたのは、仏教内のアビダルマ論者、特に説一切有部の論師たちであると指摘しています。彼らは、存在には自性があると主張していましたが、ナーガールジュナはこれを否定し、すべての存在は縁起によって成立し、自性は存在しないと説いています。
このように、佐倉哲氏の「空の哲学」シリーズは、ナーガールジュナの「空」思想を原典に基づいて再評価し、従来の解釈に新たな視点を提供しています。
また佐倉哲氏は、
古い漢訳仏典では「svabhāva(スヴァバーヴァ)」を「自性」と訳しており、現代日本語ではこれを「実体」と訳すことが多いと述べています。しかし、彼はあえて「自性」という漢訳語を用いる理由について、以下のように説明しています。(j-world.com)
このように、佐倉氏は「自性」という語を用いることで、概念の曖昧さや多義性を保ちつつ、読者が文脈の中でその意味を探求できるようにしています。これは、ナーガールジュナの「空」の思想を理解する上で、重要なアプローチと言えるでしょう。
要するに、
昭和の仏教学者さん達が
西洋哲学の〝実体〟という概念で仏教の教えを解釈してしまった訳だ。
いわゆる
外道義の混入です。
純粋な仏教では、〝自性〟として説かれております。
縁起なるが故に、
実体には変わらずにあり続ける本質的な自性は無いと説くのが正しい仏教の教えです。
ではその縁起が
どのように説かれているのか。
佐倉氏の論説で詳しく紹介されております。