食事を終えたあの後、ギドィルティはなんとなくだがその場を離れ、適当な場所をふらついて時間を潰していた。 本当になんとなくだが、やはり何時ものマスターの様子は妙に気持ちが悪かったのだ。 「遅くなる前に帰ってくるのですよ」とまるで自分を小さい子供のように扱っているかのように感じる。 さてどうしたものか…その時、ふと以前読んだ雑誌のことを思い出した。 『だいたいのことは叩けば直る』、確かそんなことが書いてあった。 マスターの頭も叩けばまた元に戻るのではないか、そうと決まれば試してみる価値はある。 そうと決まれば、さっそく頭を叩きに戻ろう。 そんなことを考えながら拠点へ戻り、入り口の扉に手をかけた所で―――怒声が聞こえてきた。 聞きなれた声に聞きなれた言葉、ギドィルティは勢いよく扉を開く。
「おいギドィルティ!この〇〇〇〇(クソッたれ)!テメェ何処ほっつき歩いてたんだ!」 「オ、ドうしたマスター。ハハハ、元ニ戻っタノか?」 そこにいたのは強面な表情をさらに険しくさせた男。 優しく笑みを浮かべた様子など想像もできないような人物がそこにいた。 「何笑ってんだテメェ!食料がほとんどなくなっちまってるじゃねぇかどうなってんだよ!〇〇〇〇(クソッ)!まだあと3日は持つはずだったのに…!」 「ハハハハ、うまかったゾ」 「チクショウやっぱりかよ!さっき転んで頭打つし最悪だぜ○○○○(クソッ)!」 「ハハハハハ、頭打ったのかハハハハハハ!」 笑うギドィルティの様子に声を荒げるイーサン、他から見れば妙な光景かもしれないが、二人にとって何時もの様子がそこにはあったのだった。
ギドィルティ・コムはサーヴァントである。 彼女は普段はフラフラと気の向くまま歩き、 飽きたり腹が減ると自身のマスターであるイーサンのいる拠点へと戻ってはまた外へ出るといった日々を過ごしていた。 そして今日も何時ものように飽きて戻ってきた所であり、拠点の入り口の扉に手をかけた所で、嗅ぎなれない匂いがギドィルティの鼻をかすめる。 匂いに不快感はなく、むしろ食欲を刺激するような―――ああそうだ、この匂いは食べ物の匂いだ、とギドィルティが気付くと勢いよく扉を開く。
「オい、マスター。オレにもそれヲ食わセ…」 自分だけ食事しようなんてズルい、とさっきまで考えていたが、その考えが頭から飛んでしまった。 信じられぬものを見た。自身のマスターが料理をしているのである。 いや料理だけならまだないわけでもないが、食材を切って焼いただけのものばかりである。 そんな男が、エプロンを着けて鍋の中を混ぜている。 とても普段しかめっ面で銃を整備しているか、ハンバーガーをもそもそと食ってるような男の姿には見えなかった。 「おイ、食事を作ってるのか。マスターにシては珍シイな」 しかし物事を深く考えないギドィルティ、違和感は感じながらも普段とは違う食事ができるであろう様子に、すぐにイーサンに食事の催促をする。 だが、ここで再びギドィルティに衝撃が走る。
「ああ、ギドィルティ帰ってきたのですか、もう少しで出来上がりますから待っててください」 マスターが自分に優しい声色で喋りかけてきたのだ、それも敬語で笑みを浮かべながら。 あまりの衝撃に、この目の前の男は偽物なのではないかと判断し、即座に右腕を食い千切る。 「グゥッ…!?な、何をするんですか…!」 突然自分の腕を千切られたイーサンは激痛に顔を歪ませながらも、食い千切られた右腕はまるでビデオの巻き戻し映像のように即座に再生される。 明らかに異常な様子だが、これが正常であると知っているギドィルティはイーサンを本物だと信じざるを得なかった。 「…なァマスター、ソの喋り方ハ一体ナンなんダ?」 「何か変でしたか?」 「変ダ」 ギドィルティはイーサンの様子を変だと指摘するも、当の本人は何が変なのか認識していない様子である。 なぜ急にここまで様子が変わってしまったのか、普段は深く考えない性格のギドィルティも流石に少し考える。 「まぁひとまずそれは後にして、食事にしましょう。今日はカレーを作ってみましたよ」 「オおカレーか、前にオレが食いタいと言ったらダメだって言ッてたアれだナ」 物事を深く考えないギドィルティ、先ほどまでの考えを頭の片隅に寄せ、食欲を優先させることに決めたのであった。
「うんうん、なカなかうまかった。りょうガあと1000倍あればいイんだがな」 「そうですか、それは良かった。食後にデザートのアイスもありますが食べますか?」 「む、いいノカ?ハハハ今日はイい日だナ」 ギドィルティとイーサンの二人が食べ終え、イーサンは食べ終えた食器を片づけ始める。 そんなイーサンの様子を出されたアイスを食べながら、突然性格が変化した自分のマスターのことについて考える。 なぜ急に言動が変わったのか、何か頭でも打ったのか、それとも別の要因なのか。 じっとマスターへと視線を向けていたキドィルティに気付いたイーサンは「どうしましたか?」と微笑みながら言う。 「ナんでもナい」 普段よりも食事の量も美味い物も食べさせてくれて満足は何時もより高いが、何処か物足りないようなことをギドィルティは感じていた。
「…以上が列車で起きた出来事です」 俺の前でそう報告した部下の男は緊張した面持ちで列車での顛末を報告する。 どうやら最後のマスターはサーヴァントの召喚に土壇場で成功したようだ。 「…派遣した2人は戻ってきたのか?」 「それが…列車で死亡した親衛隊の中に二人がいたと報告が…」 「クソッ!」 自分の怒りを抑えられず、思わず机を叩く。強くし過ぎたのか叩いた部分に亀裂が入ってしまった。 だがその報告はそれほどまでに俺をイラつかせた。 サーヴァント召喚する前のマスターを殺すことすらできず、サーヴァントの召喚すら許してしまった親衛隊の連中。 そして俺が派遣したにも関わらず何もできずに無駄に死んだ二人、そこそこ役に立つと思って目をかけてやったのに恩知らずが! どうせ死ぬのなら俺が殺してやりたかったが、そんなことを言っても何も変わらない。 なんとか落ち着こうと息を整え、少し冷静になると部下達は狼狽えた表情で俺を見ていることに気付く。
「…すまない、私としたことが。まさかあの二人が帰ってこないと思わず、少し冷静さを欠いてしまったようだ」 少し苦しい言い訳だっただろうか、そう感じながらも取り繕う。 …どうやら効果はあったみたいだ、「隊長の責任ではありません」「次は自分に行かせてください!」との声が次々とあがってくる。 「いざとなればこの命と引き換えに自爆も…!」 「やめておけ、サーヴァントを召喚したマスターにしても効果が薄い。今は君がそんなことに命を使う必要はないさ」 「コンスタンティン隊長…!」 何人かは自爆するつもりの人間もおり、(ぜひそうして他の連中を消耗させてくれ)と考えつつもそんな無駄死にするような真似はするなと一応声をかける。 何時ものように耳障りの良い言葉を並べながら、俺は次はコイツ等をどう動かすべきか考え始めるのであった。
20XX/○○/○○ 風邪 多分、1日寝てた。身体も重くて、熱もある。完全に風邪だった。 今は少し楽だから、こうやって日記も書けてるけど、この前の目覚めは最悪だった。全身汗まみれで、頭はクラクラして、気持ち悪くて仕方がなかった。 ……こんな時に、助けてくれる人もいない。散々からかってきそうなアマナには頼りたくないし、ココノなら頼めば来てくれるかもしれないけど、こんな人気のないところに呼ぶわけにはいかない。どんな危険があるかもわからない。 じゃあ、他にいるかって言ったら、多分、いない。学校の先生達に、迷惑はかけられない。狛原先生とかなら、手助けはしてくれるかもしれないけど、聖杯のない人に病気をうつすかもしれないのはまずい。 センセイ……センセイならどうだろう。来てくれるだろうか。でも、やっぱり病気をうつすかもしれないのは一緒。今は顔を合わせるのも、ちょっと嫌だ。 ……結局、ひとりぼっちかな。誰にも助けてもらえないで、自分だけで治さないとなのかな。そもそも、治るのかな。
20XX/○○/○○ 怒られる日 授業中、集中できていないと狛原先生にとがめられてしまった。気持ちが落ちついていなくて、そのまま早引きしてしまった。 体調不良でお休みだなんて、今時絶めつ危惧種だ。じじつ上ずる休みだ。そんなことをする自分が嫌になる。 ……寝床に帰って、布団にくるまって。芋虫みたいに何もできないまま、ろくでもない自分にいや気が差して、身を縮こめようとして、いらいらして。 そのうち、眠っていたみたいだった。夢の中のことは覚えてなかったけど、多分、悪むだったと思う。目が覚めたら、汗でびっしょりだった。 今も、しょうじき書くのが辛い。もう、寝る。
20XX/○○/○○ お客さん 珍しく。本当に珍しく、我が家に直接お客さんが来た。 来たのは詩遠さんと、そのサーヴァントである小川さんで、前から聞かせてもらっていた古い民話の別バージョンが見つかったということで、それをわざわざ知らせに来て、それから朗読もしようかと言ってきてくれたのだった。 勿論、私はとても嬉しかったし、何もない家なりに、お茶くらいは頑張って出して、お茶請けはなかったけど、それを補えるくらいのおもてなしもしたつもりだ。 何より、詩遠さんとも小川さんとも、物語の話をするのは楽しい。そうしてくれるのが、私にとってもとでも喜ばしいことなのはそうだった。けど、どうしても、少しだけ気分は晴れなかった。 ……なんとなく、センセイの心配している顔が透けて見える気がする。あまり顔を合わせないようにしていたからか。たまに、センセイの方から、こうして知り合いの人伝に様子を探りに来ることがある。 こんなふうにするくらいなら、直接見にきてくれてもいいのに。センセイも、私のことなんか、人に見てきて貰えばいい、とでも思っているのだろうか。 そりゃあ、私からそうし始めたんだから、センセイにそうされても仕方がない。……でも、そうされてみると、ちょっぴり辛い。 なんて。そんなことを考えていたのが見抜かれてしまったのか、詩遠さんに気を遣われてしまった。「あなたが会いに来ないのを心配するのと同じくらい、センセイもあなたを気にしてますよ」。そんな感じのことだっただろうか。 小川さんも、あまり器用な言い方ではなかったけど、似たようなことを言ってくださった。その心遣いは、ありがたかった。 あぁ、でもダメだ。何か言いたいことはまだあるけど、まとまらない。嬉しいけど、寂しいような。なんだろう。すぐには言葉に起こせない。 ……眠ろう。明日、この心を、少し整理してみたい。今のままだと、私自身もよくわからないまま。そんなのは、嫌だ。
20XX/○○/○○ 変な人 今日はうねりさんからの仕事。とはいっても、人を逃がすことじゃなくて、何かの荷物の受け渡しだった。 「危ないブツじゃないから大丈夫、子供にそんなひどいことはさせない」、なんて言ってたけど、あの人は必要なら私になんでもさせるだろう。もしそれをしないとしたら、そうしないことで私から搾れるものがあるからだ。 ……ともかく、今回は本当に変な仕事ではなくて、梅田の地下廃棄街……厳密にはその奥の迷宮に行くのであろう、探索者向けの店の人への届け物だった。 表のルートでは運べない貴重な品を運んでほしい、ということらしくて、受取人の人——宍戸さん、だったかな。私よりも幼く見える人だったけど、あれは多分見た目だけだ——あの人は喜んで受け取っていた。 それと、そこからの帰りしなに、水木さんに会った。サーヴァントのアサシンさんと一緒。珍しいところで会うな、なんて、笑いながら手を振ってきたりして。 アサシンさんも、こんなところにまでわざわざご苦労様ね、と、呆れながらではあるけど声をかけてくれた。 ……実を言うと、この人たちとは、今はあまり会いたくない。私を見たままの子供扱いしてくるのが、センセイみたいで。挨拶くらいならともかく、ずっと話をするのは、少し気が滅入る。 だから、この時もすぐに離れようとはしたんだけど、たまたま行き道が一緒で、暫く話をするようなことになった。 当たり障りのないことしか、話していないと思う。今季の都市戦争がどうだとか、あの選手はこうだとか、あるいは、このダンジョンでこんなことがあったとか。水木さんの話に、相槌を打つような感じで。 結局、都市表層に出てくるまで、そんなような話をずっとしていた。でも、それでも私は、あまり喋りかけることはなかった。 多分、気を遣ってくれてる……のかな。私みたいな子供が、一人で妙なことをやっている。それを気にかけているのかもしれない。 でも、そんなことを言われても、私はどう反応を返していいのか分からない。これは私が選んだ道で、私のための道で、それから、少なくとも今は、私が役に立てる道だから。やめるつもりはない。 どうやって、私は向き合えばいいんだろう。水木さんも含めた、いろんな「大人」の人たちと。
20XX/○○/○○ 発見 見つかった、“星見”のウォッチャー。意外な人から情報を得られた。ずばり、センセイ。 何とはなしに、学校の授業終わりに話してみたら、それっぽい人を知っていると。昨日私たちが一生懸命走り回ったのはなんだったのか。 そのサーヴァントがいるのは、やはり阿倍野塔であっていたようだ。ただし、単に高層エリアにいる、ってものじゃなくて、文字通りてっぺんもてっぺん、構造体のほぼ最上層の屋根にいるらしい。それはラヴェンナさんも見つけられないだろう。だったてあそこ立ち入り禁止だし。 幸い、私は仕事終わりにたまにあそこに寄ることがあって、登り方を知っている。というわけで、私と一緒にラヴェンナさんを連れて、屋根まで登ってみた。 すると、センセイが言っていた通り、それらしいサーヴァントがいた。センセイの知り合いだというと、急な来訪にも特に動じずに答えてくれた。 このウォッチャーのサーヴァントは、真名を「エドウィン・ハッブル」というらしい。確か、天文学関係の偉人だったっけ。幼い姿をしてはいるけど、その目は、空への道が閉ざされた現代でも星々を見つめているようだった。 ひとまず、ラヴェンナさんからの依頼のお手伝いはこれでおしまい。元通りラヴェンナさんを引率して、探偵事務所まで戻ってきて解散した。 疲れた。先に聞けそうな人には聞いておけばよかったな。
そういえば、私がハッブルさんに会った時、彼から変なことを言われた。「君は星を探しているのかい」、だって。 なんのことかと思ってたけど、今こうして書いていてふと思った。もしかして、これは自分のサーヴァントのことだったのかもしれない。 多分、私がラヴェンナさんと松林さんのことを、じーっと見ていたからだろうか。見つめる視線の裏側までお見通しだ、ということなら、……ちょっと、恥ずかしかったかもしれない。
20XX/○○/○○ ご近所さんのお手伝い 最近気落ちすることが多い気がするけど、同じくらい気落ちしてられないことに巻き込まれる回数も多い気がする。 学校はなかったから、買い出しのついでに旧新世界の商店街で買い物をしていたら、ラヴェンナさんに会った。蒸気ブーツで飛び跳ね損ねて目の前に落ちてきたみたい。 ものすごい勢いで頭から落ちてきて、その後ろからサーヴァントの松林さんが追いついてきてた。起き上がってすぐにバリツ式受け身があるから平気!って言ってたけど、バリツってすごいな。本当に大怪我はしてなかったみたいで良かった。 で、その時に話を聞いた流れで、私もお仕事を手伝うことになった。今回は猫探し……じゃなくて、人探し。 とはいっても、そんな胡乱な話ではなくて、「こういうサーヴァントがいてその人に話を聞きたいけど、天王寺のどこにいるかわからない」、だから探してくれ、という内容らしい。 あんまり表沙汰にしたくない理由で探してるならアマナに話がいくだろうし、そうじゃなくてラヴェンナさんに依頼したということは、そこまでの危険もないはず。そういうわけで、私も手伝うことにした。 依頼人さんによると、“星見”のウォッチャーという通称で呼ばれているらしいとのこと。星を見るというのだから、多分阿倍野塔のてっぺんとかにいるんじゃ?と思ったけど、そこはラヴェンナさんが確認したらしい。 とにかく名前以外に宛てがないから、探しまくるしかない。私は念のために海底新地の方を探して、ラヴェンナさんは旧新世界を探すことになった。 こういう時に有効なのは、多分うねりさんとかに話を聞くこと。ではあるんだけど、こういう時に頼ると後で何をさせられるかわからない。他に頼れる知り合いらしい知り合いもいないから、私も足で探し回った。 ……結果としては、目当てらしいサーヴァントの姿はおろか、その情報も特に集まらなかった。だって、名前だけでこれといって詳しい情報なかったし。噂だけでは流石に難しかった。 今日はある程度のところで一旦切り上げたけど、明日以降もラヴェンナさんは続けて仕事をするみたい。一回乗りかかった船だし、明日もできる範囲で手伝おうと思う。
追記。そういえば、ラヴェンナさんからお夕飯のお裾分けをもらった。お夕飯とは名ばかりのアンパンと牛乳のセットだったけど。 なんでも、探偵といえばこれだよね、らしい。どういう意味だろう?
20XX/○○/○○ 探しもの 今日は本当に何も書くことがない、とだけ書いて終わろうと思っていたけど、書くことができてしまった。から、書く。 世にも珍しいことに、放課後にアマナからSOSが来た。私に見せびらかしていたアクセサリが見当たらないのだとか。 自分で探しに探しても見つからなくて、仕方がなく私に連絡してきた、って感じの話し方だった。 別に誰かにケチをつけられるようなことでもないから、断りを入れてココノも呼んで、ついでに遊ぼう、ということになった。 それで、とりあえず探しものといえば、ということで、天王寺の警察署に行ってみた。落とし物として届けられているかもしれなかったから。 当然私とアマナはあまり関わらない方がいい立場だから、ココノに頼んで行ってもらったんだけど……ハズレ。そういうものは届けられていないと、担当してくれた刑事さんは言っていたらしい。 で、次に行ってみたのは難波。私が袴田さんを逃した後、案の定というか、何か仕事をしていたらしい。その関係でしょっぴかれて、その時に落としたかも……とか。 流石にココノのいる前ではそんな物騒な話はできないから、私が仕事をした時に起きた騒動に巻き込まれて落としたかも、ということで、警邏隊の支部に行ってみることにした。 「繋ぎ屋」としては警戒されても、「中学生女子の集団」としてなら、そこまで手荒には扱わないだろう。……なんて、ココノを連れてきたことに打算を働かせている自分が、嫌になるけど。 結果としては、アタリ。どうも捕縛直後に落とし物として届け出られていたそうで、事情を知っていそうな隊員の胡乱な眼を前に、アマナは流石にバツが悪そうに必要事項を記入していた。 逆に、何も知らないココノはニコニコ笑っていて、見つかってよかったなあ、なんてアマナにも言っていたりして。その笑顔のおかげで、ちょっと場も和んだ気がする。 その後は、ココノの方から、例のスイーツビュッフェに行こうという話があった。アマナは店を知っていたみたいで、その後は、スムーズにそちらへ行こうということになった。 ……あの子は、自分ではご飯を食べないけど、食べるのを見ているのは好きだという。 自分はもう得られないもの。でも、あの子はああして笑って、私達が美味しいと思えるであろうものを見つけて教えてくれたりする。 その心の強さは、私には真似できないと思う。何かあの子に報いることもできない、私はそんなものでしかないのに。眩しくて、少し妬ましく ダメ。これ以上は書いちゃダメ。書いたら本当になる。 ……でも。結局のところ、それを抱えたままの私は、三人での時間を楽しく過ごしたようには振る舞えたんじゃないだろうか。 嫌だな。私、嫌だな。こんな隠し事だらけの心、見せられない。
20XX/○○/○○ お礼 それで、これが今日の日記。助けてくれた人に会いに行ったのだけど、どうにも追い返されてしまった。 その人、……その子、って言った方が正しいかもしれない。私よりも小さな、男の子。痛々しい病院服で、新地を彷徨いていた。 私が依頼人を連れて逃げている途中、偶然彼の近くを通りかかった。そして、私とすれ違い、向島さんがすれ違ったその時、その子が魔術らしいものを使った。 途端、向島さんとスレイプニルが苦しみ出して、その隙に私は逃げられたんだった。 ……こういう経緯で、しかも言葉を交わしたわけじゃなかったけど、私は彼のことを聞いて知っていた。 新地を彷徨う廃棄物(イレギュラー)。戦いを求めているという、謎の多い少年。魔術や見た目の特徴からそれに気づいたのは、私が一旦帰宅してからのことだった。 それで、多分嫌がられるとは思ったけど、お礼を言いに行った。……そうしたら、あの子は明らかに私を遠ざけようとしていた。 彼にとっては、私を助けたつもりはなかったんだろう。戦いがあったから、引き寄せられただけ。 それでも、助けられたのは事実。だから、私は勝手に、彼にお礼としてご飯を持って行った。 一回切りの接触かもしれないけど、そうして生まれた縁は、一回切りだからこそ大切にしなさい、なんて。センセイの受け売りだけど。 最初は受け取りも嫌がってたけど、これだけは受け取ってほしい、って言っているうちに、折れてくれたみたいだった。 出来合いの品だけど、坂井のおじいちゃんのお好み焼きは、下手な私の料理よりよっぽど美味しい。 消化器に致命的な傷もないみたいだし、一宿一飯じゃないけど、それなりのものを送れた、んじゃないかな。 ……結局、それを渡したら、あの子はどこかへ行ってしまったんだけど。
P.S.あのあとうねりさん経由で向島さんの様子を聞いた。ひとまず私やあの子を狙っている風ではないみたい。一安心だ。
20XX/○○/○○ 書き忘れた日 昨日は急ぎの仕事が入っちゃって、日記も書けなかった。簡単にだけど、今のうちに昨日のことを書いておこうと思う。 暗殺者に狙われている、すぐに助けてほしい。最低限の暗号化だけで、うねりさんも、センセイさえも通り越して私に連絡が飛んできた。 送られてきた海底新地のポイントに向かってみると、依頼人らしき人が酷い怪我をして待っていた。 再生が妨げられているのは、見てすぐに分かった。新人類への特効となる、永遠否定の概念礼装。間違いなく、向島さんの『骨喰み』によるものだった。 ひとまず応急手当を施したけど、休む間もなくあの人に襲われた。どうやら、依頼人のサーヴァントは既に送還されていたらしくて、私だけで相手をしなければならなかった。 ……彼女のサーヴァント、神馬であるスレイプニル(人の形を持ってはいたけれど)もまとめて。本当に、死にかけた。 幸い、本当に幸運なことに、私を助けてくれた人がたまたまいた。そのお陰で、依頼人を然るべき筋に……つまり、自分の所属する組に送っていくことができた。 だから私は、今日……ややこしいけど、仕事の終わった次の日に、その人に会いに行くことにした。
20XX/○○/○○ バイト 昨日はちょっと気落ちしちゃったけど、いつまでもそうしていられないし、結局寝て起きたら少しスッキリした。ムシャクシャしたら寝るのが一番だ。 学校ではセンセイとも顔を合わせないで済んだし、少し余裕も出てきたから、事前に連絡して坂井のおじいちゃんのところに行ってみた。 相変わらずおじいちゃんのお店は繁盛してて、裏方仕事のお手伝いが欲しかったと。すぐに制服を着て、荷物運びとかを手伝うことになった。 私が魔術師 魔術使いだってことに、相変わらずおじいちゃんは気づいていない。強化の魔術を使っているなんて思いもしていないし、なんだかズルい気もするけど、私だって少しでもできるお仕事は増やしておかないと、食いっぱぐれてしまう。 ……それとは別に、おじいちゃんの賄いのお好み焼きが美味しいっていうのもあるけど。 ともかく、そういうわけで頑張って仕事をしていたんだけど、そうしていると珍しいお客さんが来たのを裏手から見かけた。エマノンさんだ。 なんと、お好み焼きを2人前買って、屋台のそばに置いている机に持っていった。あの人がそんなことをしているなんて、少しイメージと違ったけど、考えてみればあの人だって人間だ。特殊な事情があるのは私だって推察くらいできてるけど、ご飯は必要で当然だろう。 と、思っていたら、すぐにそこにリットさんと、見慣れない金髪の男の子も来た。で、実際に食べ始めたのはその2人。……本当にご飯食べてなかったりするんだろうか。 2人が何か話していたのは見えたけど、その内容までは、デバガメをするようで聞くことはしなかった。ただ、エマノンさんの様子を見るに、きっといつもの相談事なのだろう。 それにしても、あの男の子はどこかで見た気がするんだけど……。
追記。あの男の子、梅田都市軍のアルスくんだ! 中継やニュースでしか見たことがないから、すぐに気づかなかった。 一体何を話していたんだろう……?
20XX/○○/○○ 学校 死にそうになって宿題を片付けた後、今日は終日学校へ。これまで貯めていた授業時間を取り戻すためっていうのもあるけど、仕事の後はセンセイにも顔を見せて、無事だって伝えないとだった。 授業の後に仕事のてん末を伝えると、いつも通り、困ったように眉を垂らして、それでも笑いながら、センセイは頷いてくれた。よく頑張ったな、って。なんだか気恥ずかしくて、そっぽを向いてしまった。 ……昔よりは、だいぶセンセイと顔を合わせる機会が減った。私が中学に上がる前後……逃がし屋稼業を始めてからだ。授業のこと以外で話をすることも、少なくなってしまった。 あの頃は、私も結構センセイについて回ったりしていた。時々、お昼ご飯まで奢ってもらったりしたこともあった。それだけお世話になったし、今もお世話になってるのに、私は、センセイを避け気味だ。 仕事のことでさえ、うねりさんの仲介に、意図的に頼っているという節はある。あの人を間に挟めば、センセイとは直接会わなくても済むからだ。 私自身、センセイの顔を見るのが、少し気まずい。小学部で出会ったときから、ずっと気にかけてくれている。なのに、私がこんなことを始めてしまって。……レムちゃんのことがあってから、尚のことそう思うようになった。 子供がこんな危ない橋を渡ろうだなんて、そんなことは考えられもしないって、センセイは言っていた。戦争より前の世界だと、きっとそうだったんだろう。 でも、今はこういう世界なんだ。頼るあてのない子供を助けてくれるところなんて、ほんのひと握り。それと縁がなかった私は、自分なりに生きる方法を探すしかなかった。 それで辿り着いたのがこんなことだったんだから、私自身、あまり胸を張れはしないけど。いくら私が心の中で夢を持っているとしても、私はセンセイに、私がレムちゃんに感じるのと同じ思いをさせている。そういう後ろめたさも、多分ある。 ……クヨクヨ考えていたって、仕方がないんだけど。
今日はセンセイの授業の後、河合先生と相良先生の授業を受けてから、寄り道せずに家に帰った。途中でラヴェンナさんに会ったけど、ペット探しで忙しそうだったから、声をかけないでおいた。 あと、坂井のおじいちゃんが駅前で掃除をしていたのも見たな。タイミングを見て、お手伝いをしにいった方が良さそうだ。 家に帰った後は、これといって特に何もなかった。精々、都市情報網で情報をちょっと見てたくらいで……そこで、都市戦争が佳境を迎えそうだっていうのを見た。 この頃になると、三都の辺りには人が大勢増える。私達みたいな仕事をしている人間にとっては、良いことでもあり、悪いことでもある。でも、もし仕事があったら、人の群れに押し潰されるのは決まり切ってるから、できれば仕事は来ないで欲しいものだ。
心斎橋を警戒中、怪しい人物に遭遇。 赤茶色の髪、琥珀の瞳。スポーツタイプの水着。噂に聞く「繋ぎ屋」の特徴と一致する。 彼女が直接問題を引き起こすわけではない。が、彼女の取り次ぎによって度々事件が引き起こされている。 先日の騒動……以前、私達が取り逃がした男によるサーヴァントの強奪未遂事件……も、恐らくは彼女の斡旋によるものであったのだろう。 逃がし屋に繋ぎ屋。厄介な連中がこの大阪圏には多すぎる。
軽く声をかけてカマをかけてみれば、案の定噂の「繋ぎ屋」だった。 問い質すと悪びれもなく己を正当化する。あまつさえ、こちらの行いを下賤と宣ってみせた。 捜査に協力する素振りも見せないので、強制指導という形で連行する事とした。
激しい抵抗、詳細不明の魔術による妨害行為により補導は難航する。 切りつけた刀……正確にはその血痕だろうか、いずれにせよ刀から謎のワイヤーが伸び、彼女の手に絡め取られる。 面倒だ。もう一本の柄からもワイヤーが伸びている。このままでは簡単に絡め取られるだろう……と、言うのを見越して。 私の刀には細工が施してある。それは鞘に仕込んだ炸裂機能。引き金を引けば信管が炸裂し、飛び出した杭の勢いを以て刀身を射出するという仕組みだ。 高周波ブレードは構造上、どうしても刀身・柄側の重量が増す。パワードスーツならともかく、一般人ではまず取り回すことは出来ない。 そこで刀身自体に勢いを持たせ、初動の衝撃を以て居合の一太刀とする。というのがこのマゴロク製三九式振動剣のコンセプト。 絡め取られるのなら、先んじて刀を食らわせてあげよう。余裕げに笑う繋ぎ屋の顎元に狙いを定め、引き金を引く。
うん、それにしてもあの時の繋ぎ屋の顔は、思い返すたびに笑いがこみ上げる。 ぶへっ、と短い声を漏らし、900gの鉄の塊を顎元に打ち付けられると、軽い目眩を起こしたようにその場に倒れ込んだ。 おじいちゃん流の戦い方じゃないけど、バーリトゥードはミナミの常識。経験はそれなりにあったみたいだけど、今回は私は一手上を行ったね。
倒れ込んだ繋ぎ屋の手首にワッパ……手錠をかける、その瞬間。 “来い、セイバー”。その呼びかけを耳にすると同時に、私の思考は一瞬固まって、そして
呼びかけと同時に、背後に氷のように冷たい気配が現れたこと。
その冷たい気配は冷酷、かつ的確に、私の首筋に向けて抜身の刀を振るっていたこと。
あとほんのコンマ数秒遅ければ、私の首はボールのように跳ね飛ばされていたであろうこと。
…………耳を劈く金属の衝突音が鳴り響き、横薙ぎに払われるその刀を、軽々と受け止めてみせた……もうひとりの、セイバーがいたことを
文字通り瞬きのうちに感じ取ると、振り返った時には……冷たい目で“セイバー”を見据える“セイバー”、そして“セイバー”を見下ろす平然とした“セイバー”が立っていて。 おじいちゃんが助けてくれなければ、今頃は。そんな実感が遅れて押し寄せ、全身の血の気が一斉に引いていくのを感じ取る。
驚きの表情を浮かべていたのは私だけでなく、繋ぎ屋も同様に。 私を完全に仕留めるつもりだったのだろう。隠し玉であろうサーヴァントの強襲を防がれ、呆然と二人を見据えている。 対する彼女のサーヴァント……セイバー。マスターの繋ぎ屋よりも二回りほど幼いであろう、小学生とも見紛う体躯のセイバーは 驚くことも戸惑うこともなく、おじいちゃん――――の、手にした刀を見定めているようで
“ほう、その三本杉。この儂が知らん孫六の真作を持っとるとは……成程。当代は随分と別嬪さんじゃの”
さらりと真名を看破してみせたおじいちゃんのその言葉を聞いて、雰囲気を一変させた。 具体的には、抜身の刀のような雰囲気から見た目相応の子供らしい幼気な表情に。目を輝かせて刀を仕舞い、先程自らの刀を阻んだ一振りに目を移し “どうして私の真名がわかったの!?”“この重ね厚い刀身、切っ先の伸び、刃紋互の目丁子刃……”“武州住藤原順重作!つまり、おじいちゃん――――あの千葉周作!?” ああ、こっちもこっちで一瞬で真名を見抜いてる。昔、武装が何よりも真名を物語ると聞いたことがあるけど……こういうことか。 真名を見抜かれ、話の通じるサーヴァントとあっておじいちゃんの剣気も解け、つい一分前までの雰囲気はどこへやら、二人は朗らかに雑談を初めてしまった。
その様子を眺めて、あっけらかんとした表情で固まる繋ぎ屋。まあ、私も似たような表情をしてたけど。 最早抵抗する気力も無くなったのか、大人しく手錠にかけてそのまま支部に移送。 現行犯でもなければ関連する証拠もないとして、厳重注意で開放されたけど……あの様子じゃきっと、大して懲りてないだろう。 とはいえ収穫もあった。あの繋ぎ屋の本名を知れたこと、そして先日の騒動に、あの逃がし屋が関わっていたこと。その情報の裏付けが取れた。
……以上、本日の報告。
ついでに追記。繋ぎ屋との交戦場所にて、恐らく彼女の物と思われるアクセサリーを拾った。 ブランドは……天王寺のラグジュアリーショップ。高価なものだろうし、癪だけど遺失物として支部に預けておくことにする。
20XX/○○/○○ お休み 昨日は日記を書いてる途中で寝てしまった。朝起きたらよだれも垂れてるし顔に跡もついてるしで、ちょっとヘコんだ。 まぁ、今日はどの道学校もお休みの日ではあったので、気分を切り替えて、折角だから羽を伸ばすことにした。 昨日も考えてたけど、まず雨水を沸かしてお風呂にして入った。文字通り、溜めてた分は湯水の如く使って、全身を綺麗に洗った。ゆっくり浸かりもしたから、全身ふやふやになった気がする。 その後は、うねりさんから振り込まれていたお金で、普段は行けないご飯屋さんなんかに行っちゃったりして。意外と旧新世界には、そういうお店があったりする。 通天閣の足元あたりにある、おひとり様向けの串カツ屋さんとか。結構美味しいし、お値段もそんなに高くなくてお財布にも優しい。今回も、何回か行ったことのあるところに行って、ブランチの代わりにした。 お腹いっぱい(とはいっても私は少食だけど)満足いくまで食べた後は、阿倍野塔に行った。アマナに見せびらかされたアクセサリを売ってるお店があって、そこに見に行こうと思ったんだった。 自分に似合うかどうかはともかくとして、私だって、綺麗なものとか可愛いものには興味がある。だから、ちょっと覗いてみるつもりで行ってみた。 ……行ってから、後悔した。なんか、店員さんもお客さんもみんなキラキラしてて、私みたいなのは場違いなんじゃないかな、と思ってしまった。 考えすぎ、というか被害妄想なんだとは思うけど。誰も私のことなんか気にしてない。不良娘が1人、学校をサボってフラついてる。それだけ。 でも、そんな勘違いにびくついてても、やっぱりアクセサリは綺麗だった。見ていた中では、星の形をあしらった髪留めが、一番気に入った。頑張ってそれをレジまで持っていって、私はちゃんと買ってきたのだ。 次にココノとスイーツビュッフェに行くときにでも、付けていこうかな。似合ってる、って言われたら、一番嬉しいけど。そうじゃなくても、この綺麗さを、あの子にも見てもらいたい。
追伸。いくら休みでも宿題忘れちゃダメだ私。
要監視対象人物逃走の可能性あり、との報告を受け、第三種警戒体制での待機。 対象は檜扇組に関わる人物との事で、警邏隊と組の衆合同での活動となった。 開けていて囲みやすい基礎構造は組の衆、単独でも食い止めやすい連絡通路は警邏隊が担う。 組のサーヴァントは血の気が多い。近頃は福岡にも怪しい動きがあるということで、組全体が殺気立っている。 そんな中で騒動を起こされたとなれば組の面子も潰される……警邏隊まで導入しての追い込み漁とは、そういうことか。 正直乗り気ではない。組に恩義はあれど、対象には感じ入る事もなければ追う理由もない…………けど。
情報によれば昨日、日本橋付近で『逃がし屋』を見かけたとの報告があった。 組のいざこざはともかく、あの女が関わっているとなれば見過ごすわけにはいかない。 これ以上うちのシマで余計なシノギを回されるのは困る。難波のブランドに傷がつくから。
…………尤も、結果だけ言えば目標は取り逃がした。 痕跡を見るに下層を通って梅田に逃げ果せたのだろう。 淀屋橋沿いの廃棄通路を狙われた?もしくは本町西の……何れにせよ、下層にも組の衆は配置されていたはず。 その監視に一切引っかからなかった、ということは……魔術。魔術の類で目を欺かれた。 加えて本部での爆発騒ぎ。天神会のカチコミか、と慌てていたけど、蓋を開けてみれば単なる花火のイタズラ。 地下から急いで引き上げて応援に向かったけど、結局人混みで本部には戻れずじまい。 対象も、逃がし屋も捕まえられずにどの面下げて帰るんだ、って話。
都市戦争もかくや、といったような騒ぎを掻き分けて家に戻る。 結局逃がし屋を一目見ることも叶わなかった。今日は一手上をいかれる形になったけど……次こそは、必ず見つけ出す。
そして、これは個人的な日記。 曇り空に映える花火……なまらキレイだったな。
※明日の私にメモ 本部提出の時には個人的注釈を削って送ること
20XX/○○/○○ 仕事 深夜に起き出して、難波の下層へ。そこで袴田さんと合流して、梅田へ向かった。 道中、檜扇組の人達がいたけど、サーヴァントの目も含めて上手くかわせた。都市戦争の時でもなければ、魔力が僅かしか流れないサーヴァントの能力は万全とはいかない。その辺も踏まえて、高いお金を出して隠密の護符を買ったんだ。 あとは、構成員とサーヴァントの組み合わせを頭に入れて、どうしてもかわせなさそうなところを避けていくだけでいい。鉄火場になるのをわかっているから、最悪戦闘になった時に力を出せるよう、主従はぴったりくっついてるはずで、それは実際に当たってもいた。おかげで、ルートを作るのは簡単だった。 そして、袴田さん自身のサーヴァントであるオラとも、上手く「縁を切れた」と思う。隠蔽術式は少なくともあと数日は持つ。それまでに、要石を失ったオラは、きっと退去せざるを得なくなるはずだ。 ……今回、依頼人が逃げることを優先していたのも、多分幸いした。あれだけ荒れ狂いかけたバーサーカーを刺激していたら、きっと私も死んでいただろうし。 何をしたのかを詮索する気はないけど、きっと袴田さんは、これからもろくでもないことを引き起こすのだと思う。でも、仕事が終わったら、それも関係ない。相手が誰でも私は仕事をすると決めているし、その後のことは、自分で切り開くしかない。 何となく、アマナの顔が浮かぶ。もしかしたら、そういうことがあるかもしれない。でも、それは私には、どうしようもない。
でも、今回一番大変だったのは、当初想定していたオラよりも、難波のあの人だった。ミナミの辻切り。何回も逃げおおせたせいで、あの人は私を捕まえようと必死だ。 檜扇組から多分連絡が行ったんだろう。基礎構造は組員が、連絡道路の方は警邏隊が抑えていた。 迂闊に顔を見られるわけにもいかないし、かといっていつまでも様子を見ているわけにもいかなかった。仕方ないから、ちょっと騒ぎを起こすことにした。というか、元々起こす予定ではあったんだけど。 万が一のために用意していたのが、センセイが融通してくれたパーティーグッズ。花火とかをポンポン打ち上げるびっくり箱と、大きな音を立てる爆竹。タイマーで起動するようにして、檜扇組のビル近くにたくさん仕掛けてきた。 これが次々起動したから、警邏隊も大騒ぎ。気分を盛り上げる簡単な暗示魔術付きだったから、見ていた通行人が騒ぎを起こし始めて、そのうち応援に呼ばれてみんないなくなった。
今日は本当に疲れた。予定してないことへの備えもしておけっていうのも大変だ。 久しぶりにちゃんとお風呂に入りたい。一昨日の雨水を沸かすの、大変だけど。 あー、本当にどうしようかーーーーーーーーーーーーーーー〜〜〜〜〜
追伸。途中で書き損じたところがあるから、忘れないうちに。 オラが、サーヴァントとしての出力で、コモドオオトカゲとしての力を振るったら、多分それなりに厄介だ。解呪じゃなくて、解毒を考えた薬とか、持っていった方がいいかも。
20XX/○○/○○ 調査と買い物 今日は仕事に向けての準備に終始。学校の授業はセンセイの個人指導だけだったから、早めに帰って来れた。 最初は、詩遠さんにも手伝ってもらって、大学の図書館に。都市情報網では、今や遠くなってしまった外国のマイナーな神話や伝承は調べきれなかった。 まず、コモドオオトカゲのことを調べた。昔は本物の竜と勘違いされたこともあるらしい、大きなトカゲだ。 毒の牙を持っていて人間も食べてしまう、言ってしまえば害獣にも近い存在だけど、生息地の人には親しまれていたとか。 その理由が、現地の人間の遠い親戚だという伝説があるから、らしい。前に狛原先生にも聞いた、トーテムという概念に似ているのかも。 そして、その伝説に登場するのが、オラというメス? 女性? のコモドオオトカゲらしい。 特に神様だとか、そういう話はないし、凶悪な能力が伝わってるわけでもない。ただ、コモドオオトカゲとしての生物の力をサーヴァントの出力で
その後は、難波のアングラ街に。リアニメイトの店主さんに連絡を入れて、廃棄物(ジャンクマテリアル)で良さそうなのを見繕ってもらっていた。 見つからないのが一番だから、ちょっと高いけど、隠密の護符も。どちらもいい買い物になった。支払った金額的にも。 それから、帰り道に下調べ。明後日には通る場所だし、これまで何回も使ってはいるけど、様子を見るのは大切。 見た感じ、明日までに何か特別な行事があるわけでもないし、工事もない。問題なく通れる。
通りいっぺん確認したら、帰りしなに梅田で買い物をして帰った。そろそろフレークと牛乳もなくなるところだったから、ちょうどよかった。 ……残りの量も少なくなってきたし、明後日にでもちょっと贅沢に食べちゃおうかな。
20XX/○○/○○ 大雨 大雨。傘を差すにも風が強くて動きにくい。 仕方ないから、今日は1日家にいた。
……何も書くことがない。家にいてもやることなんかない。 せいぜい、廃棄物(ジャンクマテリアル)の整備をしたくらいのものだ。 でも、少しだけ本は読んだ。旧世界時代の小説らしくて、『恩讐の彼方に』、という題名だった。 復讐、仇討ちのために生きてきた人が、仇が心の底から改心して人のために働いているのを見て、仇討ちをやめて協力する……という筋書き。 私自身、そこまでの憎しみに駆られたことはない。憎まれることはあっても、私がそこまでの思いを向ける相手は、そんなにいない。 今だったら……どうだろう。ココノやアマナ、学校の先生達が殺されたら、そこまで怒れるのかな。 殺してやろうとまで思うほど、誰かを大事に思えているのかな。 私は、そんなに情のある人間なのかな。
20XX/○○/○○ 日記の使い方 日記の使い方をセンセイに聞いた。 特に決まったやり方はなくて、好きに使えばいいらしい。 昨日書いたことを見せたら、あれでもいいとか。 こんな感じでいいなら、もう少し書き続けられそうかも。
今日はうねりさんから仕事の連絡が入った。 依頼主の名前は袴田陽平さん。難波の下層から梅田のターミナルまで、追手のサーヴァントから逃げたいらしい。 サーヴァントの真名はオラ。南アジアに生息しているコモドオオトカゲというトカゲの英霊らしい。 ……聞いても全然分からなかったから、ちゃんと調べておこうと思う。 予定日時は明明後日の午前3時。辿り着きさえすれば、後はうねりさんの手配で逃げられるとか。 目的地的に、基礎構造を抜けるよりは、三都連絡道路の下を走る方が早そう。気配察知や直感の類はないらしいから、素直に隠密の護符を買っておこう。
学校の方は、特に何もなかった。狛原先生の神話学を総合の時間枠で受講させてもらったのが、いつも通り楽しかったくらい。 今日はセンセイの個人授業もなくて、西村先生のお手伝いをして帰ってきた。 そろそろビオトープに住んでるメダカの産卵が見られるらしいから、楽しみにしておこう。
そういえば、ココノから聞いたお店を覗いてみた。お洒落な感じで、スイーツがたくさん置いてあった。 お金を払えばあれが食べ放題だなんて、ちょっと信じられない。元は取れないけど、一度は行ってみたい。
今日はここまで。昨日よりはたくさん書いたな。
20XX/○○/○○ 初めての日記? センセイから日記帳をもらった。 こんなの使わないと言ったけど、良いから良いからと押し付けられてしまった。 もらってしまったものを捨てたり人にあげたりするのも、なんだか良くない気がする。 しまっておくのも失礼な気がするし、折角だから何か書いてみようと思う。
今日は仕事はなかった。朝から学校で授業。 数学と物理の授業はキライだ。 徳元先生の声は眠たいし、問題を解かされるばっかりで楽しくない。 でも、ココノとゆっくり話す時間があった。久しぶりに話せた気がする。 駅の近くに最近新しい、スイーツビュッフェ?の店が出来たとか。お金があれば是非とも行きたい。
……書くことがなくなったので、今日はここまでにする。 日記って、これでいいのかな?
何が起きた。 弓矢のような何かが、鋭く空気を切り裂く音が響いたのは、この私の頭脳がかろうじて感じ取ることは出来た だが、まるでそれに反応することは出来ずにいた。だが直感する。これが、英霊を使う戦争というものか、と 雇った魔術師が言っていた。サーヴァントとは人の形をした戦闘機のようなものだと。ああ、確かにその通りだ 一切の気配なく空気を切り裂く弓矢を、この私の心の臓腑めがけて正確無比に穿とうとするのだ。全く興味深いよ 腹立たしい事に、この世界には私の頭脳でも反応することのできない存在があると、斯くも証明されたという事だ だが"そんなことはどうでもいい"。今私は、目の前で起きた事象を、天性の頭脳を以てしても処理しきれずにいた 「…………何をしている、ランサー……。何故、独断で、動いた……」 私の目の前で、私が召喚したサーヴァントが、戦いのための武器が、その胸に弓矢を受け、血に鎧を染めていたのだ 「どうして……何故……!私が…私を守れと命令したかぁ!?」 気付けば私は、彼女に駆け寄っていた。天才たるこの私らしくもなく、感情的に、声高に叫んでいた
「どうして、ですか。そんな事も分からないなんて。私を"高名な英霊"と呼んだだけ…ありますね…」 「喋るな。今魔術師達を手配する。町中に配備しているはずだ。治癒魔術程度、全員が扱えるはずだ!」 この愚図め。どうして致命傷を負ったというのにそんなに満足げな顔をしていやがる。貴様は死ぬかもしれないんだぞ? 死んだらこの私の、人類大統君主となる理想が白紙になる。何故私を守った?私の完璧な理想に泥を塗る気か…! 「守った理由なぞ、明白ですよ。私はあくまで人理の影法師。死んだとしても、座に帰るだけです。 ですが貴方が死ねばそこで終わりでしょう?自称、天に選ばれた最高の頭脳、様?」 ついでにその、信じられないような物を見るようなマヌケ面が見たかった…などと、減らず口を尚もほざく。だが… 「……分かっているなら良い。そうだ、そうだな…。この私の頭脳が失われるのは、人類の損失だ…!」 この女、口先は毒舌に塗れているくせに正論を吐く。ああ、確かにそうだ。この聖杯戦争は通過点に過ぎない ここで敗退しても、この私の頭脳とラプラスがあればやり直すことが出来る…! ああ、神に選ばれし頭脳を持ちながら、つい冷静さを忘れていた…!
「だがな……私にも意地というものがある」 私はそう言うと、ありったけの魔術礼装をランサーに装備させた。同時に私が神たる才能で会得した魔術を用いて回復のスクロールを施す。 「付け焼刃の魔術だがないよりはましだ。お前は至高の円卓を彩った騎士の1人だろう?ならば、森に隠れるだけの卑怯者の鼻を明かす程度、出来るはずだ……!」 「───。やれやれ、何処までも……頭脳に見合わないチンケな発想ですね。 承知しました。精々、死にぞこないのハズレ英霊を、最後の一時まで存分にこき使いくださいませ?"マスター"」 「人類大統君主と呼べ!!」 ───そう叫び、円卓の騎士とそのマスターは森へと消えていった。結論から言えば、その結果は惨敗だった 彼の招集が災いして"埋葬者"が街に潜む彼の仲間を察知。人の命を犠牲にした男に与した事から手当たり次第に殺された 加え、そこから芋づる式で魔力貯蔵庫と大礼装ラプラスの所在が暴かれ……その全ては、無惨に破壊された 殺されなかった顧問魔術師は逃げ出し、最終的にダニエルは、神秘に関わる手段の全てを失った 残された道は、"埋葬者"に殺されぬよう、日々怯えながら過ごす…、憐れな日々だけであった
「何故ですか?」 「ん?」 「何故………あなたはわたしに構うんですか?」 ことり、とワイングラスが机に置かれる。店内を流れるイタリア語で歌われたBGMは陽気だ。 それらがちゃんと耳に入ってくるくらい、ナナの所作は穏やかで、落ち着いていて、緊張を感じさせなかった。 「うーんとね。それは多分なんだけど、ステラちゃんが“普通”だからなんだと思うなぁ」 「普通………?」 意味が分からない。混血でありながら代行者。わたしほど普通から掛け離れたものもそう無いだろうに。 だが、ナナは聞き返したステラの言葉にうんと頷いた。 「聖堂教会………特に代行者だとか、聖堂騎士だとか、魔を討つ役目を主よりお預かりしている立場の人間はね。 ほとんど全員が気狂いよ。アタシも含めてね。まともじゃないんだなぁ、みんなさ。 でもね。ステラちゃんはちょっと違うよね。客観視してるというか、一歩距離を置いてるというか。 我らが主の教えを信じながらもどう自分の中に取り込むか、いつも考えてる気がするの。 アタシ、そういうの素敵だなぁって思うなぁ。アタシはもうそこには戻れないしさ」 ───それは、魔との混血故に皆が到れるような清らかなるものにはなり得ない諦観から。 ───それは、いつか魔に転じ得るかもしれないが故に自分自身を常に見つめ続ける恐怖から。 ステラにとってそれは誇れるものでは無かった。だから、ナナの言ったことを理解することはできなかった。 「………よく分かりません、あなたの言うことは」 「ん、それでいいと思うよ。それを教えてくれる人にいつか出会えたらいいね。アタシには無理だもん」 あっけらかんとした調子で言い、テナガエビのフリットをフォークで突き出したナナにステラは告げた。 「あなたは変な人です。ナンシーさん」 「ナナでいいよ~。むしろナナって呼んで~」 「………。………ナナさん」 「そうそう、やっぱりそっちの方がいい響きよね」 にっかりと笑ったナナの笑顔は本当に子供みたいに毒気がなくて、ステラはやっぱり変な人と口の中で呟いた。
───よく食べる人だ。 感心半分呆れ半分、そんな心持ちでステラはパスタを巻き取って口に運んだ。 ヴォーノ。麺のチョイスと茹で加減、ソースの絡み具合。地方都市の小さなイタリア料理店としては十分と言えるだろう。 しかしステラの食欲なんて可愛いもので、目の前の麗人は食卓いっぱいに並べられた大皿をざくざくと片付けている最中だった。 色とりどりの魚介類が並んだ宝石箱みたいだったアクアパッツァもすっかり駆逐されてしまっている。 真っ昼間からボトルで頼んだワインを嬉々としてグラスに注ぐナナにステラは小さく嘆息した。 「よくこんな店知っていましたね。この街で出来のいいパスタを出す店は調べ尽くしたつもりだったんですが」 「アタシね。不味い飯は我慢できないタイプなの。現地についてまず探すのは美味しいレストラン。頼りは勘かな~」 勘、ときた。そんな表現が彼女に限っては何だか納得できる。 人懐こい、大柄な野生の動物。例えるならナナはそんな人間だ。 人懐こいからすぐにこっちへ鼻先を擦り寄せて好意を示してくるが、一方で決して飼い馴らされることはない。 代行者に非ず、規律と全体の調和を尊ぶ聖堂騎士団では確かにこれは異物だろう。 聞けば彼女の育て親たるスミルグラ卿は、もともと聖堂騎士の後ろ盾を務めていたそうだ。………そうでなければ、今頃何処で何をやっていた事だろう。 「別にいいのよ?アタシの注文した品だからって遠慮せず食べちゃって。一皿で足りる?」 「いえ。見ているだけでお腹いっぱいなので」 ごってりと盛られていたはずのニョッキが全てナナの胃袋に収まっていくのを見ながらステラはそう言った。 本当に───変わった人だ。 聖堂教会は魔術師どもの巣窟である時計塔みたいに猜疑心と詐術で凝り固まった場所ではない代わりに、偏見と固定観念に満ちた世界だ。 魔との混血は異端からは外れるもの。だから駆逐されない一方で、ステラへの冷ややかな視線が止むことは無い。 同じ代行者の中でもステラをあからさまに軽蔑する者は何人もいた。だが、当然だ。彼らは間違ってなどいない。 わたしは彼らの言う通り、人間ではないものの血が流れている魔性であることに変わりはないのだから。 わたしは彼らの言う通り、真っ白で輝かしい信仰心に殉じることで代行者となったわけではないのだから。 だからこそステラにはナナがよく分からなかった。 聖堂騎士。代行者とは別の括りで動く聖堂教会の暴力装置。『虹霓騎士』の二つ名を筆頭に、稀代のドラクルアンカーの名を得るもの。 仰々しい肩書とは裏腹に、驚くほど彼女は友好的だった。 いや友好的すぎた。この街には他にも代行者が何人も乗り込んできているが、他には親しげに振る舞いながらもここまで干渉はしてこない。 ところがステラにだけは彼女はやけに懐いてきた。その差くらいは、ステラにだって嫌でも分かる。 だからだろう。ワインを心ゆくまで痛飲しているナナへ、ステラはつい問いかけてしまった。
かちゃ、じゅうじゅう。 もっ、もっ、からん。 トングの音。肉を焼く音。食べる音。そして皿が積まれる音だけが店内を満たしていた。 夜の10時。何時もならたくさんの人で賑わっている筈の店、しかし今そこにいる客はたったの二名。 にもかかわらず、店員たちの間にはまるでセレブが来ているかのような張り詰めた空気が漂っていた。 しかし無理もない。何せ今、店の中央のテーブルに座っているのは、生物として人間の上に立つ存在。 片や、踝まで届く長い銀の髪をポニーテールにし、声が聞こえているかの如く肉を完璧に焼いていく少女。 片や、臭いなど知らぬとばかりの着物姿で、丁寧な箸使いで50人前の肉をぺろりと平らげてしまった少女。 洋装の少女が焼き、和装の少女が食べ、時折洋装の少女がレバーを食べる光景がかれこれ30分続いており。 そして51度目の全肉メニューを綺麗に完食し、注文を受けるためだけに立たされていた店員へとこう言った。
「「おかわりはまだかしら」」
その年、夜観市でも人気店だったその焼肉屋は創業してから一番の売り上げを叩き出したという。
─────
彼と別れて数分。少し歩いただけで、空模様はまたバケツをひっくり返した様な豪雨になっていた。不安定な気候……。やはり予報など信用ならない。 熱いのは慣れっこだが、冷たいのはそんなに慣れていない。ようやく、一人で暮らしているアパートのすぐ前まで辿り着いた。 エントランスに入りがけ、雨でぼやけた道の向こうから、何やら見覚えのある人影が近づいて来るのが見えるや否や、向こうから声を掛けてきた。
『……あ!ステラちゃんだ~!……あれ、傘持ってないの?ビショビショじゃない。』 「……ナンシーさん」 『連れないわねー。ナナで良いのに。』
ナンシー・ディッセンバー……彼女にとり数少ない、名前を覚えている女性だった。 自分と同じ、聖堂教会からこの街へ派遣されて来た、ニルエーラ聖彩騎士団(総勢一名)の団長……。 様々な異名をとる誉れ高い聖騎士(パラディン)というが、管轄が異なるのであまり良く知っているわけではない。 一方でひとたび挨拶に行って以来、やたらと自分に絡んでくる様になった。色々な面で謎の多い女性だった。
『傘入る?大変でしょ。』 「いえ、結構です。住んでるの、ここなので。」 『へぇ?。いいこと聞いちゃった。』
今度遊びに行っちゃお、などとはしゃぎ始めたナナを見て、彼女は内心で失敗した、と思った。 せめて部屋番は秘密にしておかなければ。いつインターホンを鳴らされるか分かったものではない。
『せっかくだし、軽く拭いたげよっか。こっちこっち。』
言うが早いかナナはエントランスに入って来て、タオルを持ち出し、凄い勢いで手招きをして来る。 ……現に寒いし、部屋の玄関には拭くものもない。廊下が水浸しにする事もないし、厚意を無碍にする理由はないだろう。 近寄ると、すぐさまタオルを上から被せられた。力強く、しかし繊細な手付きで、髪から身体まで水分が落とされて行く。
しばし身を任せながら、彼女はナナについて思考していた。相変わらず、この人のことはよく分からない。何が楽しくて自分に構うのだろうか? 魔との混血。それは聖堂教会の討伐対象ではないが、さりとて忌まれる存在に変わりはない。夢魔の血が入っている彼女は、表立って排斥された事こそないが、それでも水面下では少なからぬ反感にさらされてきたのは事実だ。 だからこそ、何ひとつ隔壁なく好意的に振る舞い、そのように自分に接してくる教会の人間など、彼女にとっては珍しく感じるものだった。 そういった在り方も含めて、評判通り、色々と規格外な人物なのだろう。いつも一緒のお付きの人には同情を禁じ得ない。 タオル越しにしきりに頬を撫でられ、思考を中断されながらもそんな事を考えていると、不意に手が止まった。
『はい、こんなものでしょ。でもほんとにずぶ濡れねー。上から下まで透けちゃって。可愛いんだから、少しは気にしないと』
タオルが外される。指摘されて初めて、彼女は自分の身体に目をやった。 見れば肌に張り付いたブラウス越しに、薄ピンク色の下着と、白く透き通る様な、しかし僅かに紅く彩られた、生気に満ちた肌色までがはっきりと透けて見えて居る。 彼女はそれに気付いても大した動揺を見せることなく、ずぶ濡れのスカートの裾をおもむろに絞り始めた。
「……え?あ、本当だ。ん、気を付けないとですね。……わたしの身体なんて、見てもいい気分にならない。」 『そう思ってるの?アタシはとっても嬉しいけど~?』 「えぇ……?」 『もっと自分に自信を持っていいのよー?それだけのものは持ってるんだし。ね?』 「……はぁ」 『じゃ、アタシ用事あるから。またね~!』
そう告げて、彼女は嵐の様に過ぎ去って行った。……最初から最後まで、よく分からない人だった。
彼女と別れた後は、何事もなく自室に帰ってくる。びしょびしょの制服を絞り、濡れた下着を脱ぎ、洗濯機に入れながら、ふと帰り道のことを思い出す。 支くんにも、わたしの身体を見られていたのだろうか。 ……だとしたら、どう思われていたのだろう?
そんな他愛もない考えを抱きながら、一人、浴室に入って行った。
傘はさして大きいわけでもなく、思ったよりも狭く感じた。暗い空の下で歩くうち、外界の雨は一段と強まりつつある。 傘の下の暗く閉塞した空間には、ただこもった水音と、すぐ上で跳ねる雨粒が弾ける音ばかりが聞こえている。 手に持ったバッグになお雨粒が掛かる事に気付き、身体を少し彼の方に寄せる。それまで腕が触れていた程度だったのが、肩と肩、腰と腰まで接触する程の距離に縮んだ。 十分すぎるほど雨に濡れたブラウスやスカートは、もはや彼女の身体に完全に張り付いている。それが彼に触れる度、その制服までもを濡らしてしまっていた。
これは、思った以上に窮屈だ。ここまで近いと互いの息遣いまで聴こえて来る。 歩き始めてすぐはぽつぽつとあった会話も既に無く、彼は黙り込んでしまっていた。ちらと見れば若干自分から目を逸らしている様だった。 ……濡れるのを嫌がっているのだろう。思えば彼は普段から、制服をきっちりと着こなしている。彼女はつぶやく様に言った。
「……悪いね」 『え。……何がですか?』 「わたしの服、濡れてるから。……あなたのまで濡れちゃって。」 『あ、ああ。……いや、そんな大した事じゃ無いですよ……。』
どうも歯切れが悪い。彼の様子を測りかね、隣から少し身を乗り出す。彼女はその翠玉に輝く双眸をもって彼の表情をしばし覗き込み、その心境を見定めにかかる。 視線が合う。外れる。視線が合う。外れる。……およそ10秒ほど凝視する中で、彼女は彼に現れている、ある異変に気が付くことが出来た。 それとほぼ同時に、彼の方からどこか気不味そうに、控えめな質問が上がる。
『先輩、その……何です?』 「……支くん」 『はい』
じとっとした緑の目で彼の瞳をまっすぐ見つめながら、彼女は真に迫った声色で言った。
「……もしかして、風邪?凄く顔が赤いけど。」 『え?!いや、これは……。』
普段感情の起伏が乏しい彼には珍しく、一瞬たじろいだ様子を見せ、頬に手を当てる。図星か。 彼の額に指先を当てる。心なしか熱くなっている様に感じた。
「やっぱり。ちゃんと体調管理はしなさい。倒れられでもしたら困るんだから。」 『……そういう事にしときます』
その後は、彼の様子を案じながら暫く歩き続け、細い分岐の近くで立ち止まる。 共に立ち止まった彼に向き直り、道の向こうへ指を差して言った。
「じゃ、わたし、こっちだから。」 『そうですか……。お疲れ様です。』 「お大事に。」 『……。……どうも。先輩も気を付けてください。』
そう告げて傘から出る。雨足は一時的に弱まった様だ。まだまだ降っているものの、雲間からは光が差し込んでいるところも見える。 立ち去ろうとした彼に向けて振り返り、彼女はふと、声を上げた。
「支くん」
彼が振り返る。薄紅の瞳をまた見つめ、彼女は小さく、呟く様に言った。
「傘、ありがと。」 「……嬉しかった。」
雨に打たれ、雲間の光に照らされながら別れを告げる。 彼女の顔には、知ってか知らずか──大輪に咲く華の様に、柔らかく、暖かな微笑みが浮かんでいた。
廃墟のすぐ近く、茂みに隠したバッグを取り、表通りに出る。幸か不幸か、底の方は多少濡れているが、教科書は無事な範囲だろう。 ……そう言えば、傘を持っていない。普段から持ち歩いていないし、持って来ることもなかった。 別に濡れる事自体は気になどしないが、やはり面倒くさい。そう思いつつ、そのまま帰ろうと踵を返した瞬間、彼女を呼び止める声があった。
『……あれ、ステラ先輩?』
自分をその様に呼ぶのは、数人しか心当たりが無い。振り返ると、傘の下に見知った顔があった。 それは彼女がこの街で拠点とする学校の生徒。企図せずよく話すようになった、一つ下の後輩だった。
それなりに降っている雨粒の中で、平然と歩いている彼女を怪訝に思ったのだろう。 彼は彼女の姿を上から下まで見た後、少し気まずそうに目を逸らしながら、彼は質問を投げ掛ける。
『どうしたんですか?傘も差さないで……』 「……ああ。傘、持ってきてないから。」 『えっ。予報で言ってましたよ、16時からどしゃ降りだって。』 「うち、まだ新聞取ってないし。」 『……テレビは?』 「あの箱?ないよ。」 『……。』
彼は分厚く空にかかった暗雲を、傘の下から一瞥する様子を見せた。彼女もそれに合わせて上を向く。見れば、空の色はつい数分前より濃い灰に代わっていた。 ……なるほど、確かにこのままでは土砂降りになるだろう。
「ほんとに強まりそうね。急いで帰らないと。……じゃ。」 『あ……待ってください。』
再び歩き出そうとした時、彼はまた彼女を呼び止めた。彼女は背けかけた首を戻し、続きを言いよどむ彼の顔を、端正で小さな顔に嵌められた、輝く緑の瞳でもって不思議そうに覗き込む。 数拍ののち、彼は手に持った傘をやおら彼女に突き出しながら言った。
『あの……良ければ、入りますか?』 「傘?良いの。」 『はい。先輩なら……』
何が自分ならなのかは分からないが、教科書が濡れるのはまずい。……断る理由はないか。
「……じゃ、入れて。」
濡れた金の短髪をかき上げながら、軽く首を下げ、傘を持つ彼の左隣に入った。
学校帰りの服装のままに、廃ビルを駆け上がる。 時刻は午後四時。外を降りはじめた雨も気にすることはない。腐りかけの階段を飛び、古びた床材を蹴るたびに上がる黴臭い煙が鼻を突く。 近い。近付いてくる。上から漂ってくる、異常な香りに少し眉をひそめる。それは幾度と無く嗅いできた、そして忘れ得ぬ、ぞっとするような感触。 血の匂い。腐った肉の匂い。───死の匂いだ。
最も匂いの強いフロアが見えて来る。此処だ。頭を出すより先に左手の聖書を開き、右手に刃を充填する。 階段を上りきった瞬間、大部屋の中に四本の黒鍵を投擲し、室内に飛び込む。──残骸。そこには誰もおらず、代わりに、誰のものとも知れぬ人骨とそれに付着した肉がおぞましい腐臭を上げ、床に飛び散った大量の血液が、凄惨な朱色の絵画を描いていた。 申し訳程度に設えられた机の上に乗ったそれが、死徒の低俗な趣向による"食事"の犠牲者であったことは疑いようもない。 この街には紛れもなく、まつろわぬ者どもが跳梁跋扈している……眼前の光景を前に彼女は、実感としてそれを認識した。
「……遅かった」
ここを拠点としていた死徒は既に去ったらしい。天井に空いた大穴はビルの最上階まで達しており、光が差し込んでいる。周辺の瓦礫はさして古くなく、建物自体がつい最近、老朽化によって日光を遮れなくなったのだろう。 注意深く周囲を警戒しながら、人骨に相対する。それは対して食いもせず放置された下半身であり、酷く変色した肉には蛆がわいていた。 無残にも奪われた命に十字を切り、教会に連絡を取る。遺体は彼らが回収し、しかるべき処置ののち葬送されるだろう。
用の無くなった廃ビルを足早に後にする。 死徒の殺しに、基本的に道理は無い。人間はそこを歩いていたために、そこにいたために殺される。そこには正気も狂気もなく、沙汰の外なのだ。人間の法など通用しない。 だからこそ──彼らは、人間が、人間として滅ぼさなければならないのだ。
降りしきる雨に濡れながら、灰色の空を睨む。この街にはどれだけの死徒が潜んでいるのだろうか?検討すら付かない。 此処はあの男が、祖が滅びた街。ここは今やその『空座』を埋めるための饗宴の会場なのだ。世界中から死徒が訪れる博覧会の様に。
「『空座』なんていい名前。ただの血吸い虫のくせに」 「生きてても奪って、死んでからも奪うのね。……おまえは」
冷たい雨が頬を撫でる。高い空を望む深緑の瞳のうちには、ただならぬ決意が宿っていた。
「支さん、あなたはまだ分かっていません。あのぐうたらぽやぽや自制心ゼロの歩くゴジラがいかに制御不能か」 フラムは目の前のパフェをもりもり片付けながらぷりぷりと怒るという器用な真似を行っていた。 支はコーヒーで唇を湿らせながら、たいていの女性は甘いものが好きというのは本当なのだなと益体もないことを考えていた。 「ゴジラは歩くんじゃないかな」 「そういうことではないのです!平気で何処でも煙草をぷかぷかやる!どんな時間でも酒を飲む! この街にやってきてふらりといなくなったと慌てたら何をしていたと思いますか! あのじゃらじゃらと雷鳴もかくやという騒音を発する遊興施設で遊戯に耽っているんですよ! 初日ですよ初日!なにが『わぁいお菓子もらえた!フラムちゃんにあーげるっ♡』ですか! 日本は困った国です!あの飢えたシロナガスクジラには誘惑が多すぎます! …まあ基本的にどの国でも似たようなことをするのですが! あああ思い出しただけで腹が立ってきました!あの××××頭あーぱー芸術家気取りめぇ…!」 聖職者なら口にしてはいけない汚い罵倒が混じっていた気がするが、聞き流す勇気が支にはあった。 「よくまあ、あれだけの暴力の世話を焼けるね。ナナさんとは長いの?」 どうもこれ以上は良くない。何かこう、噴出してはいけないものが噴出する気がする。 話題を支流へとズラすと、フラムはふむと呟いた。 「それはニ、三年を長いかどうか考えることになりますね。。 なんせナナ様はあのような方ですから私以外は長続きしなかったんです。 今のところは私が最長記録ということになりますから、比較的では長いのではないでしょうか」 なるほど、と支は相槌を打った。 納得は出来る。ナナは騎士どころか人間としても破天荒の類だ。 まるで都会に馴染んだ野生の生き物のような、適応しているのに異質という矛盾が彼女にはあった。 あ、でも、とフラムがパフェの中の白玉を匙で掬いながら言った。 「あんな方ですが、聖堂教会では最も誉れ高き聖堂騎士としてきちんと称えられているんですよ」 「…悪いけれどいまいち信じがたい話だ。素人目に見ても素行不良の女性なのに」 「確かに振る舞いについては敬虔な信徒失格というのは大いに賛同しますが…」 あはは、と苦笑いを浮かべたフラムだったが、次に浮かべた微笑みはそれとはまた違うものだった。 「あの方はどのような戦場であっても真っ先に先陣を切り、最も遅く戦場から帰るからです」 「…」 「性格が違うものなので優劣をつけられるわけではないのですが…。 代行者の聖務と違い、聖堂騎士の戦場とは基本的に“手遅れ”です。 既に状況は最悪のケースへと至ってしまったもの。死徒によって地獄に変えられてしまった地が彼らの戦場です。 主の光を再びその地へと取り戻すため、多数の聖堂騎士が投入され、殉教者は少なくありません。 その死地へナナ様は最も早く討ち入り、最も多くの死徒を滅し、殉教者の遺体が収容されるまで最も長く戦場に留まり続ける。 故に多くの信徒から敬意を集め、あれぞ主の威光が似姿、『虹霓騎士』と謳われているのです」 ───口調には僅かながら熱が籠もっていた。 支は少し考えて言葉を選んだ後、確かめるように言った。 「そうか。君は───彼女のことを尊敬しているんだな」 「…普段の自由きままぶりは反省して欲しいと常々思ってはいますが…」 ことりとスプーンを置いて、フラムははにかむような笑顔で支の顔を見た。 「はい。あの方ほど貴き方はいらっしゃらないと、そう信じています」
───そう言って、ナナは無造作に投げてあったホースをむんずと掴んだ。 このグラウンドは少年野球チームが練習場に使っているから彼らが使用しているものだろう。 蛇口をひねり、Yシャツ姿のまま勢いよく吹き出た水を頭から被る。すぐそばの街灯の明かりがその様子を映し出していた。 どす黒い血で赤く染まっていた髪が、月の光を漉いたような銀色へと元通りになっていく。 まるで野生動物の水浴びのような、繕うことのない荒々しい美しさがそこにはあった。 支はベンチに腰掛けさせられたまま、腕の傷口に包帯を巻いているフラムに話しかけた。 「僕よりも、彼女の治療を優先したほうがいいんじゃないか」 「大丈夫です。たぶん全部返り血ですから。あの人物凄く頑丈で、例えるならサイボーグなんです」 「おーい聞こえてるよシスター・フラム~」 「ええ、聞こえるように言いました」 服を着たままじゃぶじゃぶと水を浴びるナナへきっぱりと告げ、フラムはぱちんと包帯をカットした。 「あまり大きな傷口ではありませんが咎めないとも限りません。 間接的とはいえ不浄なる屍から受けた傷ですし。どうか用心なさってください」 「ありがとう。恩に着るよ」 いえ、と淡白に返事したフラムは先日見かけたものよりコンパクトなトランクケースに応急キットを仕舞っていく。 と、そこで公園の夜闇にキュッと金属の擦れる音が響いた。蛇口が閉められた音だった。 「フラムちゃん、タオルちょーだい」 「はいはい」 トランクケースから取り出されたタオルを受け取ってナナが髪を拭う。 まだ湿っていたがタオルでは乾ききらないと判断したのか、途中で切り上げて支の方を向いた。 「ま、これで分かったでしょ?下手に首を突っ込むとサクッと死んじゃうぞ~?」 「でも、僕は───」 「でももへったくれもあるもんかい。だいたい今だってアタシたちが来なきゃ死んでたじゃないの。 これは『常識外(アタシたち)』のお話。キミは『常識(あっち)』の人。住む世界が違うんだよ。 あのお姫様の居場所を教えろとまでは言わないからさ。悪いこと言わないからやめとき?」 ナナの口調はあくまで脳天気な調子だったが、表情は真面目にこちらを案ずる真剣なものだった。 ………そう。 ミナも側におらず、たまたま彼らが“運良く”通り過ぎなければ支は死んでいただろう。 彼らは悪い人たちではない。 彼らは秩序の調停者だ。魔を滅すると同時に市井の人々を闇へと立ち入らせないものでもある。 支の理屈を納得してもらうのは難しいだろう。 唇を引き結んだ支の横で、「ところで」と唐突にフラムが声を上げた。 「いつ切り出すか迷っていたのですが。───服、思い切り透けていますよ」 へっ、と間抜けに呟いたナナが身体を見下ろす。つられて支も視線が下にいった。 血がだいぶ流されてところどころ薄ピンク色に染まっているYシャツは、水を吸ってぴったりとナナの肌に張り付いていた。 彼女の均整のとれた肢体がこれでもかと強調されている。綺麗にくびれた腰、大きすぎない程度に大きい程よい乳房。 街灯の頼りない照明でさえ、みずみずしい褐色の肌が透けて見えるようだった。 ネクタイを外して胸元を開いていたので胸の谷間さえ顕になっている。生地に浮き出ている細かい凹凸は下着のものか。 Yシャツの色合いが変わっていないから、色はおそらく“白”───! 「───ぎゃあああああ!フラム!上着、上着!支クン、みっ、見ないでぇ!」 瞬間沸騰したナナが胸元やお腹を腕で隠し、人間に気づいた動物みたいな俊敏さで街灯の明かり届かぬ暗闇へと逃げた。
「♪London bridge is falling down,falling down, falling down───」 快活な歌声が響いてくる先へ振り返ったミナは走りつつも力を込めて手を振った。 肩から肘へ、肘から指先へ、滝のように怒涛の勢いで駆ける魔力の奔流。 指先から溢れて物質界に働きかけたそれは瞬時に数匹の蝙蝠へと転じた。 生き物のように宙を飛び、爆弾のように炸裂する。まともに当たれば容易く肉を引き千切るだろう。 「♪London bridge is falling down,My fair lady───」 対して、追跡者は回避行動を全く取らなかった。 靴底に鋼が仕込んである靴の独特の足音が止まらない。 スピードを落とさないまま、眼前へ急接近した蝙蝠をまるで虫でも叩くように裏拳でぺちぺちと落としていく。 だがそこまではミナも予想範囲内だ。本命は蝙蝠の仕込みにあった。 追跡者が最後の蝙蝠を叩き落とした瞬間、ぱちんと泡のように弾けた蝙蝠が分裂し、魔力塊となって顔面へと迫る。 直撃すればその頭部は吹き飛ばされ、首なしの肉体がずるりと崩れ落ちる─── 「嘘でしょう」 さすがにミナもつい呟いてしまった。 あろうことか、追跡者は魔力塊を『噛み砕いた』のだ。 同じ死徒なんじゃないかと疑ってしまう。少なくともまともじゃない。 「ねーねー、追いかけっこはそろそろやめにしよーよー。…っとぉ!」 すると追跡者は傍らにたまたま置かれていたゴミ集積用の鋼鉄のコンテナを、まるでプラスチックのバケツを担ぎ上げるような気軽さでひょいと持ち上げて─── ───旋風。衝撃。轟音。 直線の軌道ですっ飛んできて、ミナの前の地面へとコンテナは突き刺さったのだ。 進行方向を塞がれ、ミナは立ち止まった。…ミナ自身は経験が無くとも、貴種たる肉体が感じ取っていた。 これを横に躱す。あるいは飛び越える。いずれの選択もその僅かな一呼吸が致命的になると。 すたすたと大股歩きで寄ってきた追跡者へ、ミナは表情変えること無く静かに言う。 「貴女、強いのね」 「そりゃこれでも騎士やってるからね~。や、しかし好都合ね。 こんなところで件のお姫様を討てるんだから。これは思ったより今回の仕事、早く片付くかな?」 そんなふうに言ってにこにこ笑う女はなんとも朗らかだ。 月光に濡れた銀の髪、コントラストになって映えている褐色の肌。とにかく人懐こそうな笑顔で、殺意のようなものは感じられない。 (でも───………) 分かる。アレはそんなものなどなくとも討つべき相手をシンプルに討ち果たす機構だ。 その片腕に仰々しく装備された、円錐形をふんだんに用いられた優美なフォルムの巨大な杭打ちを突き立てるのに何の躊躇いも無いだろう。 「それじゃてきぱき終わらせましょうか。ま、その不浄の魂にも救いがあるなら、きっと滅んだ後に───」
「──────待てっっ!!」
どうこの状況を切り抜けたものか、とりあえずミナが身構えたところにその声は朗々と響いた。 ここ最近、すっかりよく聞くようになった声。当人に対する感情はさておき、目の前の襲撃者よりは親しみが持てた。 騎士の背後。自分やこの騎士なら一息で辿り着けそうな距離にひとりの男の子が立っている。 逆光になっていて表情は伺い知れなかったが、ミナが嫌いではないあの力強い眼差しが注がれているのは確信できた。 驚くべきことは突然の闖入者だけでは無かった。追跡者までもがこちらに背を向けくるりと振り向いたのだ。 「…君かぁ」 ぽつりと呟かれた言葉には、なんというか、『こんなところで会いたくなかったなぁ』という気色がはっきりと滲んでいた。
シスター・フラムはようやく訊ねた。 「で、どうだったのですか?」 「ルシアちゃんのこと? 駄目だったよ。連れ去られたのが二週間も前ではね。食屍鬼にならないよう処置するのがアタシに出来る関の山」 空港の外れ。まばらに人が道を行き交うのを眺めながら、ナナは紫煙を青空へ向けて吐き出した。 こじんまりとした喫煙スペースに相席しながらフラムは隣で煙草を吸うナナをちらりと見遣る。表情に目立った憂いなどは見受けられない。 聞いたのはどちらかといえばターゲットとなっていた死徒のことだったのだが、ナナからすればそちらは問題にもならないらしい。 実際、彼女にとっては大したことではなかったのだろう。先行したナナは後続の聖堂騎士たちを待つまでもなくあっさりと死徒を討ってしまっていたという話だった。 フラムは時々このナナという信徒が遠い存在に見える。 正式外典コルネリオに選ばれた、聖堂教会屈指のドラクルアンカー。その実力、埋葬機関にも引けを取らないと謳われる『白光の織り手』。『虹霓騎士』。 二つ名なんて挙げればキリが無い。死徒の撃破数はレコード持ち。文句なしに聖堂騎士の中で最強の存在だろう。 それでも───それでも、救えないものはある。 死者を生者として今を生きる生者の元へは返してやれないように。 立ち行かぬことをひっくり返すことなど、この聖堂騎士にも出来はしない。 「残念だよ。とてもね」 「………あなたでも救えなかったものを惜しむ気持ちは持ち合わせているのですね」 「あのね。シスター・フラムはアタシのことを何だと思ってるのかな? ひょっとしたら、何かの間違いでここに来るのが二週間早ければその子を助けられたかもしれない。そんな妄想くらいアタシだってするわよ。 でもね。ニンゲンがニンゲンを救うなんて、そんな思い込みは本来は烏滸がましい行いなんだ」 ナナが指に挟んでいた煙草を静かに咥えた。すう、と吸われることで煙草の先端がめりめりと燃え尽きていく。 漂っていく煙の筋は、いつかアーカイブで見た東洋の儀式における送り火のそれと重なって見えた。 「誰かを救うということは、誰かを救わないということ。 この二週間が仮に前倒しされていたら、その前借りされた二週間によって平穏無事にあったはずの誰かが失われていたことでしょう。 正しきものも、間違っているものも、それら全ての衆中を救うなんてそんな大業を成し遂げなさるのは我らが主のみの御業よ。 誰かを救おうとそう志した時点で誰かを救わないという不誠実が発生しているのがアタシたちの宿業なの。特に、アタシみたいに半端に力を持ったヤツはね。 だから。人が救えるのはただひとり。自分自身だけよ。彼は自分自身を救うためにアタシを輪の中に招き入れた。 アタシはその輪の中で全力を尽くした。後にその結果が残っただけ。それだけのことなのよ」 淡々と、まるで遠い昔に心へ刻んだ言葉を復唱するかのように綴られたナナの言葉をフラムはただじっと黙って聞いた。 ナンシー・ディッセンバー。聖堂騎士にして、その出生の過去を誰も知らない名無しのナナ。 まるで自分をただ力を振るうための装置のように規定するに至るまで、どのような道筋があったのだろう。 フラムには分からない。分からないので、ナナの言葉を額面通り受け取ることにした。 「………では、私も私自身を救ってよろしいでしょうか」 「うん? え、いいじゃないの? 唐突でびっくりしたけど」 「分かりました。では」 フラムは修道服の内側に忍ばせてある十字架を片手で押さえ、開いている手で十字を切った。 「アーメン」 「………」 その祈りの聖句が何に向けてのものなのか。 あるいは、誰に向けてのものだったのか。 ナナは問わなかった。代わりに、その僅かな鎮魂の時間に付き合ってくれた。 さて、と彼女が再び言葉を発したのは、フラムが伏せた瞳が開かれるのとまったく同じタイミングだった。 「次の任地はどこだったっけ? シスター・フラム」 「日本の地方都市ですね。シティ・ヨルミだとかいう。 今回は少数精鋭とのことで、聖堂騎士団から派遣されるのは我々を含めごく僅かです。代わりに代行者のお歴々が向かわれると」 「うぇ~、アイツらか~。やりにくいな、アタシのことあんまり好きじゃないみたいなんだよね~」 「それはそうでしょう。聖堂騎士でありながら代行者のように単独で振る舞われるナナ様を快く思われる代行者の方々などそうはいないのでは?」 「………前から思ってたけど、フラムちゃんはアタシに対して結構辛辣だよねぇ」 「敬ってもらいたいなら敬われるような行いをしてからにしてください、騎士ディッセンバー」 意図的に冷たくそう告げ、フラムは喫煙時間は終わりだとばかりに空港の発着口へとすたすたと歩き出す。 待ってよ~、と情けない声が背中にかかるが、煙草の吸い残しを惜しむナナのことなど気にかけるつもりは微塵もフラムには無かったのだった。
「………それに、俺はこの街がなんだかんだで好きだ。 アンタみたいなよその人からすりゃなんにも無いところかもしれないけれど、それでも俺の故郷だ。 父さんは街一番の漁師で色んな店に魚を届けてるし、母さんは誰よりも料理が上手い。近所はみんないい人たちだし、綺麗な海や野原だってある。 ちょっと騒ぎが起きたくらいで見捨てて逃げ出すなんて気に入らないじゃないか。 あと、な………」 「………」 「俺の………幼馴染が、ルシアも行方不明になってるんだ………。きっと見つかると信じて俺は待っていてやりたいんだ。 畜生、俺にもっと力があったらな。凄く強ければ犯人を捕まえてやるし、金持ちならたくさん金を警察にやってみんなを守ってもらいたい。 でも警察だってここより行方不明の人間が多い隣町の方で躍起になってるし、田舎のここにまで全力を尽くしちゃくれないんだ………」 「………ふぅん、そっかぁ」 少年の心の奥底から出たような言葉に一度深く頷いた女はやおら席から立ち上がった。 釣り銭取っておいて、と店主に言って紙幣を机の上に重ねて置いた女は、まだ座ったままの少年に向かって最後の問いをした。 後になって少年は回想する。───その時の女の微笑み。凪いでいるけれど決して揺るがないそれ。 既視感を覚えた先は、この街の教会に据えられている聖マリア像のそれだった。 「もし。もしだよ? 万が一にも、悪いことをしてるやつかやつらをやっつけられる人がいて………。キミならその人になんて言う?」 「そんなの決まってるじゃないか」 きっぱりと少年は言った。 「───助けて! 俺に出来ることならなんだってするから! ………って。そう言うに決まってる」 それは素面のその少年なら恥ずかしくて誰にも言えない台詞だったかもしれない。 けれどごく当たり前にこの街を愛し、ごく当たり前に仄かに想いを寄せている幼馴染の無事を祈っている少年の口からは、自然と臆面なく零れ出た言葉だった。 その無垢な言葉は、そしてそう───何故か、その女にはそう言っておかなければならない気がしたのだ。 瞬間、その女はにっこりと破顔した。 スペインの熱い太陽にも負けない、きらきらと輝く陽の気の笑顔だった。 「よし、承った! 後はこのナナにお任せあれ!」 それじゃ用意があるから、じゃーねー、と女はつむじ風のように店から出ていってしまう。 後に残されたのはぽかんとする店員と、ぽかんとする他の客と、ぽかんとする少年だけだった。 女が少年に奢ったレモネードの氷はとっくに溶けきって、グラスはびっしりと汗をかいていた。
「なあ、あんた。悪いこと言わないから早めにここ出ていった方がいいよ」 机を挟んで対面に座った少年の忠告に対し、その褐色肌の麗人は大きな目をぱちぱちと瞬かせた。 綺麗な目だ。ダークレッドとも言うべきか、赤の発色を伴った黒い瞳。 顔立ちは垢抜けた女性のそれだったが、その目だけはまるで子供みたい。昏さが無くて稚気できらきらと光っている。 濃い二十代を経た三十代にも見えるし、まだまだ好奇心旺盛な十代にも見える。不思議な女だ。 「なんでよ。ここには来たばっかりだっていうのに。 あ、それともちょっと目立ちすぎてる? いや~、お腹ペコペコでさぁ。キミにここへ連れてきてもらえなかったら参ってたわよ」 そういう問題じゃなくてさぁ、と呟きつつもまだローティーンほどの少年は机の上へちらりと視線をやった。 もうお祭り状態だった。宝石箱の中身をぶちまけたように多種多様な料理の皿が所狭しと占拠している。 そのどれもが半ば食べ尽くされ、残りもこの女の腹の中に収まるのは時間の問題みたいだ。 よく食う女だし、美味そうに食う女だ。店員やちらほらといる客からもじろじろと好奇の視線が女に注がれていた。 ここはこのあたりで一番大きな街から半日もバスの中で揺られなければ辿り着けないスペインのド田舎だから、余所者は珍しいのだ。 だが少年が逗留を勧めない理由は何もこの街の排他的性質から来るものというわけでは無かった。 少年はつい声を潜めた。既にこの気味の悪い話題は日常においてはタブー視されるようになって久しい。 「あんた知らないの? ここ最近はさ。このあたりで失踪事件がいくつも起こっているんだ」 「………」 ふんふんと女が頷く。それに合わせて豊かな銀の髪がぴかぴかと蛍光灯を反射して光っていた。 聞いている間もフォークとスプーンの動きは止まらない。まるでダンスでも踊っているみたいだ。 小気味いい食べっぷりでみるみるうちに皿の上のものが片付いていく。真面目に聞いているのか怪しくなるくらいに。少年はやや嘆息した。 「何人もいなくなっているんだよ。隣町なんかじゃさ、集団失踪事件なんて発生したりしててさ。 他にもみんな怖がって話しないけど、路地裏で物凄い量の血がぶち撒けられていたとか………とにかく気持ち悪い噂や事件ばっかり続いてるんだ。 すっかり夜は誰も出歩かなくなって、街の人たちも元気がないんだ」 「そうなんだ。それは怖いわね」 口ではそう言うがさほど怯えた様子もなく、女は淡々と肉料理を口の中に放り込んでいった。 少年は段々とこの女の怪しさに首を傾げつつある。奇妙な女なのだ。 大して目新しいものも無い、埃っぽい田舎町のここでは旅行客自体が珍しい。しかし、女の格好は旅行客というふうでもない。 上から下までフォーマルなパンツスーツに身を包んでいる。まるでばりばり仕事を手掛けている新進気鋭のビジネスウーマンみたい。 綺麗な女だが、棒きれみたいに細いネクタイも無地で、全体的に飾り気が無い。せいぜい耳のピアスくらいだ。 トランクひとつ手に提げてバスから降りてきた女と少年が出会ったのはまったくの偶然だった。たまたま女が道を訪ねてきたのだ。 あの人懐こそうな、それでいて今から悪戯を仕掛けようとする子供のような、そんな人好きのする明るさで。 「今更だけどさ。あんた何者なの? こんな田舎に何の用で来たの?」 「アタシ? ああ、アタシはこういう者なのよ」 そう言って女は襟に指を突っ込んで首元を探ると、ネックレスを取り出した。 銀の十字架。女自身の飾り気の無さとは違い、華美にならない程度に細やかな彫金を施された高価なものと素人目にも見て取れた。 スーツからは連想しにくい意外な職種だが、それを見せられれば少年でもある程度は察しが付く。 「なに。あんた教会の人? ヌーノ爺さんに会いに来たの?」 「そそ、そんなところ。新しく赴任しに来たってわけじゃないんだけどね~。ちょっと御用があって、ね」 「ふぅん。こんな時に災難だね」 「そうでもないわ。よくあることだし。慣れっこ慣れっこ」 またよく分からないことを言う。気づけば料理は粗方片付いてしまっていて、女はグラスの中のワインをきゅっと飲み干している。 いよいよ満腹だい、ごちそうさまと太平楽に唱えた女は、ふと少年の方をちらりと見つめてこんなことを聞いてきた。 「………それにしても、なんとも出鱈目なことになってるのね。 この街から離れたいと思わない?キミは怖くないの?次に攫われるのは自分だとか、考えたりしない?」 「そりゃ怖いよ。怖いけど………うちもまわりも、ここらへんはそう裕福じゃないし年寄りばっかりだ。 怖いからって引っ越すなんて出来るやつはそんなに多くないよ。それに………」 少年はそこで一度言葉を切り、視線を手元へと反らした。 少年を見つめる女の視線が、あんまりにも真っ直ぐ過ぎたから。湖の一番深いところまで見通そうとするような、穏やかだけれど鋭い視線だった。 けれど一度逸らした目を再度戻し、はっきりと女を見つめて言った。
「ナナ様は!? ナナ様がどちらに行かれたかご存知ありませんか!?」 空港付近にある教会にシスター・フラムの焦燥感が滲む声が響き渡った。 まったく迂闊だった。昨日の晩は大好きな酒もやらずに大人しく床についていたから油断したのだ。 修道服姿の少女に詰め寄られた現地の司祭は額に汗をかきながら、「さ、さあ」とどもることしか出来ない。 「朝まではこちらにいらっしゃったのを見かけましたが、それからは………」 「朝!? 朝というと具体的にはいつ頃のことでしょうか!?」 「礼拝の時間です。準備を始めた頃にふらりとお外へお出かけになりましたな」 それを聞いたフラムはくらりと目眩がしてその場に崩れ落ちそうになった。 早朝! そんな時間に出ていったのでは、今頃何処を気まぐれにほっつき歩いているか見当もつかない! あの女の頭の中に物怖じという言葉はない。知らない街だろうがずんがずんがと進んでいってしまう人なのだ。 あるいは誰にも知らせずに既に現地入りしているなんてことも十分あり得る。 数で対象を囲み圧倒するというのが聖堂騎士の基本戦術だが、ナナはその範疇に収まらない例外的存在なのだから。 ふと目を離した隙にいなくなって、明くる日にふらりと帰ってきて「終わったよ~」なんて何度あったか知れない。 そんな規格外に付き合う自分の身にもなってほしい。フラムは実にまっとうなごく普通の信徒なのだ。本人比では。 「あ………あんの、脳みそ無重力のスーパー××××自由人めぇぇぇっ!」 敬虔な信徒が発した言葉とは思い難い小汚い悪態が静かな教会内部に木霊した。 いかにも気弱そうな初老の司祭は肩を怒らせるシスターを前にしてただおろおろするのみだった。
「まず、君は何で女性の姿で現界したんだ?」 俺は精一杯平静を保ちながら、俺が召喚したライダーに対して質問する。 するとライダーは、俺の聖杯戦争の目的も知らず、気楽に答えた。 「うーん、ごめんなさい。ちょっと分からないんです」 「でも、こうなったからには、この状況を楽しみたいです!なるようになれ、ですね!」 「ふざけているのか…!」 俺はつい、隠さない本音を口にしてしまった。いつもの"完璧"ではない、本当の俺を 流石に気の抜けたライダーも、俺が豹変したかのように見えたのか、恐怖の表情を見せていた。 「ご、ごめんなさい……。で、でも私、精一杯に頑張りますから……」 「ああ……いや、すまない。こっちも、怖がらせるつもりはなかったんだ、俺は……」 と、謝りそうになって俺は正気に返る。何で俺は使い魔相手に、人間を相手取るように取り繕っているんだ? 相手は亡霊だ。もう死んでいる存在を再現した戦いの道具だろう。そんな奴相手に……と考えたその時、ライダーが呟いた。 「こんな事を言うのもなんですけど…少し、嬉しいです。マスターが、そう言ってくれて」
「……何だと?」 何を言っているんだこいつは。状況を分かっているのか?俺はお前を脅迫するように問い詰めたんだぞ? 普通は信頼関係が揺らぐはずだ。所詮は聖杯を求めるという薄っぺらい利害関係しかない俺たちでしかない その上下関係で上に立つ俺が、完璧じゃない部分を見せたんだ。それを"嬉しい"だと?どういう腹づもりだ? 「だってマスター…いっつもどこか本音を隠しているようで、なんか寂しかったんです。 でも、今やっと初めて、何も隠さず喋ってくれた気がして、嬉しかったんです」 「………」 動物の勘、という奴か。誰かに喋られでもしたら厄介だ……。自害でもさせれば新しい英霊を呼び出せるか? …いや、再召喚できる保証はないか。それに、こいつは底抜けの馬鹿だ。誰かに算段で喋るような事はしないだろう。 「なるようになれ、か……。ウマが合わんな、君とは」 「あ、今の馬とかけたんですか!?かけたんですね!?」 「五月蠅い黙って寝ろ。明日も早いんだから」 ────そう言って、七砂和也は眠りにつく。"なるようになれ"。その言葉こそが自らを救う鍵になる事に、気付かないまま
陣を描き、魔力を奔らせ、詠唱を紡ぐ。俺は英霊を召喚する。 「初めまして。早速で悪いが、僕は君のマスターだ。君とは公平で対等な関係でいられたらと思っている」 もちろん、嘘だ。英霊なんてものは信用できない。大昔に何人も殺し続けたような奴らだろうからな。 文化人ならある程度は話が通じるかもしれないが、戦闘第一な獣みたいな英霊はよしてくれと願い語りかける。 「…………」 煙が晴れて、俺は絶句した。馬だ。馬がいるんだ。しかも3匹。 騎馬兵の英霊か?と思ったが、違う。騎馬に乗っているべき英霊がいないんだ! 呆然とした次の瞬間、俺の目の前に立っていたのは3匹の馬じゃなかった。1人の女だった。 「初めまして!私はライダー!真名は……っと、名乗るとまずいかな?じゃあ、とりあえず三音さられって呼んで! 貴方が私の騎手(ジョッキー)?あ、間違えた。マスター? もしそうなら、よろしくね!」 どういう……ことだ……。戸惑う俺は目の前の自称ライダーに尋ねる。お前は何ができる?と 「お前がどんな英霊か知らないが、何か出来る事の1つ2つ、あるだろう?」 「? あ、歌を歌えます!新曲もあります!」 俺は胃が痛くなった。
食事を終えたあの後、ギドィルティはなんとなくだがその場を離れ、適当な場所をふらついて時間を潰していた。
本当になんとなくだが、やはり何時ものマスターの様子は妙に気持ちが悪かったのだ。
「遅くなる前に帰ってくるのですよ」とまるで自分を小さい子供のように扱っているかのように感じる。
さてどうしたものか…その時、ふと以前読んだ雑誌のことを思い出した。
『だいたいのことは叩けば直る』、確かそんなことが書いてあった。
マスターの頭も叩けばまた元に戻るのではないか、そうと決まれば試してみる価値はある。
そうと決まれば、さっそく頭を叩きに戻ろう。
そんなことを考えながら拠点へ戻り、入り口の扉に手をかけた所で―――怒声が聞こえてきた。
聞きなれた声に聞きなれた言葉、ギドィルティは勢いよく扉を開く。
「おいギドィルティ!この〇〇〇〇(クソッたれ)!テメェ何処ほっつき歩いてたんだ!」
「オ、ドうしたマスター。ハハハ、元ニ戻っタノか?」
そこにいたのは強面な表情をさらに険しくさせた男。
優しく笑みを浮かべた様子など想像もできないような人物がそこにいた。
「何笑ってんだテメェ!食料がほとんどなくなっちまってるじゃねぇかどうなってんだよ!〇〇〇〇(クソッ)!まだあと3日は持つはずだったのに…!」
「ハハハハ、うまかったゾ」
「チクショウやっぱりかよ!さっき転んで頭打つし最悪だぜ○○○○(クソッ)!」
「ハハハハハ、頭打ったのかハハハハハハ!」
笑うギドィルティの様子に声を荒げるイーサン、他から見れば妙な光景かもしれないが、二人にとって何時もの様子がそこにはあったのだった。
ギドィルティ・コムはサーヴァントである。
彼女は普段はフラフラと気の向くまま歩き、
飽きたり腹が減ると自身のマスターであるイーサンのいる拠点へと戻ってはまた外へ出るといった日々を過ごしていた。
そして今日も何時ものように飽きて戻ってきた所であり、拠点の入り口の扉に手をかけた所で、嗅ぎなれない匂いがギドィルティの鼻をかすめる。
匂いに不快感はなく、むしろ食欲を刺激するような―――ああそうだ、この匂いは食べ物の匂いだ、とギドィルティが気付くと勢いよく扉を開く。
「オい、マスター。オレにもそれヲ食わセ…」
自分だけ食事しようなんてズルい、とさっきまで考えていたが、その考えが頭から飛んでしまった。
信じられぬものを見た。自身のマスターが料理をしているのである。
いや料理だけならまだないわけでもないが、食材を切って焼いただけのものばかりである。
そんな男が、エプロンを着けて鍋の中を混ぜている。
とても普段しかめっ面で銃を整備しているか、ハンバーガーをもそもそと食ってるような男の姿には見えなかった。
「おイ、食事を作ってるのか。マスターにシては珍シイな」
しかし物事を深く考えないギドィルティ、違和感は感じながらも普段とは違う食事ができるであろう様子に、すぐにイーサンに食事の催促をする。
だが、ここで再びギドィルティに衝撃が走る。
「ああ、ギドィルティ帰ってきたのですか、もう少しで出来上がりますから待っててください」
マスターが自分に優しい声色で喋りかけてきたのだ、それも敬語で笑みを浮かべながら。
あまりの衝撃に、この目の前の男は偽物なのではないかと判断し、即座に右腕を食い千切る。
「グゥッ…!?な、何をするんですか…!」
突然自分の腕を千切られたイーサンは激痛に顔を歪ませながらも、食い千切られた右腕はまるでビデオの巻き戻し映像のように即座に再生される。
明らかに異常な様子だが、これが正常であると知っているギドィルティはイーサンを本物だと信じざるを得なかった。
「…なァマスター、ソの喋り方ハ一体ナンなんダ?」
「何か変でしたか?」
「変ダ」
ギドィルティはイーサンの様子を変だと指摘するも、当の本人は何が変なのか認識していない様子である。
なぜ急にここまで様子が変わってしまったのか、普段は深く考えない性格のギドィルティも流石に少し考える。
「まぁひとまずそれは後にして、食事にしましょう。今日はカレーを作ってみましたよ」
「オおカレーか、前にオレが食いタいと言ったらダメだって言ッてたアれだナ」
物事を深く考えないギドィルティ、先ほどまでの考えを頭の片隅に寄せ、食欲を優先させることに決めたのであった。
「うんうん、なカなかうまかった。りょうガあと1000倍あればいイんだがな」
「そうですか、それは良かった。食後にデザートのアイスもありますが食べますか?」
「む、いいノカ?ハハハ今日はイい日だナ」
ギドィルティとイーサンの二人が食べ終え、イーサンは食べ終えた食器を片づけ始める。
そんなイーサンの様子を出されたアイスを食べながら、突然性格が変化した自分のマスターのことについて考える。
なぜ急に言動が変わったのか、何か頭でも打ったのか、それとも別の要因なのか。
じっとマスターへと視線を向けていたキドィルティに気付いたイーサンは「どうしましたか?」と微笑みながら言う。
「ナんでもナい」
普段よりも食事の量も美味い物も食べさせてくれて満足は何時もより高いが、何処か物足りないようなことをギドィルティは感じていた。
「…以上が列車で起きた出来事です」
俺の前でそう報告した部下の男は緊張した面持ちで列車での顛末を報告する。
どうやら最後のマスターはサーヴァントの召喚に土壇場で成功したようだ。
「…派遣した2人は戻ってきたのか?」
「それが…列車で死亡した親衛隊の中に二人がいたと報告が…」
「クソッ!」
自分の怒りを抑えられず、思わず机を叩く。強くし過ぎたのか叩いた部分に亀裂が入ってしまった。
だがその報告はそれほどまでに俺をイラつかせた。
サーヴァント召喚する前のマスターを殺すことすらできず、サーヴァントの召喚すら許してしまった親衛隊の連中。
そして俺が派遣したにも関わらず何もできずに無駄に死んだ二人、そこそこ役に立つと思って目をかけてやったのに恩知らずが!
どうせ死ぬのなら俺が殺してやりたかったが、そんなことを言っても何も変わらない。
なんとか落ち着こうと息を整え、少し冷静になると部下達は狼狽えた表情で俺を見ていることに気付く。
「…すまない、私としたことが。まさかあの二人が帰ってこないと思わず、少し冷静さを欠いてしまったようだ」
少し苦しい言い訳だっただろうか、そう感じながらも取り繕う。
…どうやら効果はあったみたいだ、「隊長の責任ではありません」「次は自分に行かせてください!」との声が次々とあがってくる。
「いざとなればこの命と引き換えに自爆も…!」
「やめておけ、サーヴァントを召喚したマスターにしても効果が薄い。今は君がそんなことに命を使う必要はないさ」
「コンスタンティン隊長…!」
何人かは自爆するつもりの人間もおり、(ぜひそうして他の連中を消耗させてくれ)と考えつつもそんな無駄死にするような真似はするなと一応声をかける。
何時ものように耳障りの良い言葉を並べながら、俺は次はコイツ等をどう動かすべきか考え始めるのであった。
20XX/○○/○○ 風邪
多分、1日寝てた。身体も重くて、熱もある。完全に風邪だった。
今は少し楽だから、こうやって日記も書けてるけど、この前の目覚めは最悪だった。全身汗まみれで、頭はクラクラして、気持ち悪くて仕方がなかった。
……こんな時に、助けてくれる人もいない。散々からかってきそうなアマナには頼りたくないし、ココノなら頼めば来てくれるかもしれないけど、こんな人気のないところに呼ぶわけにはいかない。どんな危険があるかもわからない。
じゃあ、他にいるかって言ったら、多分、いない。学校の先生達に、迷惑はかけられない。狛原先生とかなら、手助けはしてくれるかもしれないけど、聖杯のない人に病気をうつすかもしれないのはまずい。
センセイ……センセイならどうだろう。来てくれるだろうか。でも、やっぱり病気をうつすかもしれないのは一緒。今は顔を合わせるのも、ちょっと嫌だ。
……結局、ひとりぼっちかな。誰にも助けてもらえないで、自分だけで治さないとなのかな。そもそも、治るのかな。
20XX/○○/○○ 怒られる日
授業中、集中できていないと狛原先生にとがめられてしまった。気持ちが落ちついていなくて、そのまま早引きしてしまった。
体調不良でお休みだなんて、今時絶めつ危惧種だ。じじつ上ずる休みだ。そんなことをする自分が嫌になる。
……寝床に帰って、布団にくるまって。芋虫みたいに何もできないまま、ろくでもない自分にいや気が差して、身を縮こめようとして、いらいらして。
そのうち、眠っていたみたいだった。夢の中のことは覚えてなかったけど、多分、悪むだったと思う。目が覚めたら、汗でびっしょりだった。
今も、しょうじき書くのが辛い。もう、寝る。
20XX/○○/○○ お客さん
珍しく。本当に珍しく、我が家に直接お客さんが来た。
来たのは詩遠さんと、そのサーヴァントである小川さんで、前から聞かせてもらっていた古い民話の別バージョンが見つかったということで、それをわざわざ知らせに来て、それから朗読もしようかと言ってきてくれたのだった。
勿論、私はとても嬉しかったし、何もない家なりに、お茶くらいは頑張って出して、お茶請けはなかったけど、それを補えるくらいのおもてなしもしたつもりだ。
何より、詩遠さんとも小川さんとも、物語の話をするのは楽しい。そうしてくれるのが、私にとってもとでも喜ばしいことなのはそうだった。けど、どうしても、少しだけ気分は晴れなかった。
……なんとなく、センセイの心配している顔が透けて見える気がする。あまり顔を合わせないようにしていたからか。たまに、センセイの方から、こうして知り合いの人伝に様子を探りに来ることがある。
こんなふうにするくらいなら、直接見にきてくれてもいいのに。センセイも、私のことなんか、人に見てきて貰えばいい、とでも思っているのだろうか。
そりゃあ、私からそうし始めたんだから、センセイにそうされても仕方がない。……でも、そうされてみると、ちょっぴり辛い。
なんて。そんなことを考えていたのが見抜かれてしまったのか、詩遠さんに気を遣われてしまった。「あなたが会いに来ないのを心配するのと同じくらい、センセイもあなたを気にしてますよ」。そんな感じのことだっただろうか。
小川さんも、あまり器用な言い方ではなかったけど、似たようなことを言ってくださった。その心遣いは、ありがたかった。
あぁ、でもダメだ。何か言いたいことはまだあるけど、まとまらない。嬉しいけど、寂しいような。なんだろう。すぐには言葉に起こせない。
……眠ろう。明日、この心を、少し整理してみたい。今のままだと、私自身もよくわからないまま。そんなのは、嫌だ。
20XX/○○/○○ 変な人
今日はうねりさんからの仕事。とはいっても、人を逃がすことじゃなくて、何かの荷物の受け渡しだった。
「危ないブツじゃないから大丈夫、子供にそんなひどいことはさせない」、なんて言ってたけど、あの人は必要なら私になんでもさせるだろう。もしそれをしないとしたら、そうしないことで私から搾れるものがあるからだ。
……ともかく、今回は本当に変な仕事ではなくて、梅田の地下廃棄街……厳密にはその奥の迷宮に行くのであろう、探索者向けの店の人への届け物だった。
表のルートでは運べない貴重な品を運んでほしい、ということらしくて、受取人の人——宍戸さん、だったかな。私よりも幼く見える人だったけど、あれは多分見た目だけだ——あの人は喜んで受け取っていた。
それと、そこからの帰りしなに、水木さんに会った。サーヴァントのアサシンさんと一緒。珍しいところで会うな、なんて、笑いながら手を振ってきたりして。
アサシンさんも、こんなところにまでわざわざご苦労様ね、と、呆れながらではあるけど声をかけてくれた。
……実を言うと、この人たちとは、今はあまり会いたくない。私を見たままの子供扱いしてくるのが、センセイみたいで。挨拶くらいならともかく、ずっと話をするのは、少し気が滅入る。
だから、この時もすぐに離れようとはしたんだけど、たまたま行き道が一緒で、暫く話をするようなことになった。
当たり障りのないことしか、話していないと思う。今季の都市戦争がどうだとか、あの選手はこうだとか、あるいは、このダンジョンでこんなことがあったとか。水木さんの話に、相槌を打つような感じで。
結局、都市表層に出てくるまで、そんなような話をずっとしていた。でも、それでも私は、あまり喋りかけることはなかった。
多分、気を遣ってくれてる……のかな。私みたいな子供が、一人で妙なことをやっている。それを気にかけているのかもしれない。
でも、そんなことを言われても、私はどう反応を返していいのか分からない。これは私が選んだ道で、私のための道で、それから、少なくとも今は、私が役に立てる道だから。やめるつもりはない。
どうやって、私は向き合えばいいんだろう。水木さんも含めた、いろんな「大人」の人たちと。
20XX/○○/○○ 発見
見つかった、“星見”のウォッチャー。意外な人から情報を得られた。ずばり、センセイ。
何とはなしに、学校の授業終わりに話してみたら、それっぽい人を知っていると。昨日私たちが一生懸命走り回ったのはなんだったのか。
そのサーヴァントがいるのは、やはり阿倍野塔であっていたようだ。ただし、単に高層エリアにいる、ってものじゃなくて、文字通りてっぺんもてっぺん、構造体のほぼ最上層の屋根にいるらしい。それはラヴェンナさんも見つけられないだろう。だっ
たてあそこ立ち入り禁止だし。幸い、私は仕事終わりにたまにあそこに寄ることがあって、登り方を知っている。というわけで、私と一緒にラヴェンナさんを連れて、屋根まで登ってみた。
すると、センセイが言っていた通り、それらしいサーヴァントがいた。センセイの知り合いだというと、急な来訪にも特に動じずに答えてくれた。
このウォッチャーのサーヴァントは、真名を「エドウィン・ハッブル」というらしい。確か、天文学関係の偉人だったっけ。幼い姿をしてはいるけど、その目は、空への道が閉ざされた現代でも星々を見つめているようだった。
ひとまず、ラヴェンナさんからの依頼のお手伝いはこれでおしまい。元通りラヴェンナさんを引率して、探偵事務所まで戻ってきて解散した。
疲れた。先に聞けそうな人には聞いておけばよかったな。
そういえば、私がハッブルさんに会った時、彼から変なことを言われた。「君は星を探しているのかい」、だって。
なんのことかと思ってたけど、今こうして書いていてふと思った。もしかして、これは自分のサーヴァントのことだったのかもしれない。
多分、私がラヴェンナさんと松林さんのことを、じーっと見ていたからだろうか。見つめる視線の裏側までお見通しだ、ということなら、……ちょっと、恥ずかしかったかもしれない。
20XX/○○/○○ ご近所さんのお手伝い
最近気落ちすることが多い気がするけど、同じくらい気落ちしてられないことに巻き込まれる回数も多い気がする。
学校はなかったから、買い出しのついでに旧新世界の商店街で買い物をしていたら、ラヴェンナさんに会った。蒸気ブーツで飛び跳ね損ねて目の前に落ちてきたみたい。
ものすごい勢いで頭から落ちてきて、その後ろからサーヴァントの松林さんが追いついてきてた。起き上がってすぐにバリツ式受け身があるから平気!って言ってたけど、バリツってすごいな。本当に大怪我はしてなかったみたいで良かった。
で、その時に話を聞いた流れで、私もお仕事を手伝うことになった。今回は猫探し……じゃなくて、人探し。
とはいっても、そんな胡乱な話ではなくて、「こういうサーヴァントがいてその人に話を聞きたいけど、天王寺のどこにいるかわからない」、だから探してくれ、という内容らしい。
あんまり表沙汰にしたくない理由で探してるならアマナに話がいくだろうし、そうじゃなくてラヴェンナさんに依頼したということは、そこまでの危険もないはず。そういうわけで、私も手伝うことにした。
依頼人さんによると、“星見”のウォッチャーという通称で呼ばれているらしいとのこと。星を見るというのだから、多分阿倍野塔のてっぺんとかにいるんじゃ?と思ったけど、そこはラヴェンナさんが確認したらしい。
とにかく名前以外に宛てがないから、探しまくるしかない。私は念のために海底新地の方を探して、ラヴェンナさんは旧新世界を探すことになった。
こういう時に有効なのは、多分うねりさんとかに話を聞くこと。ではあるんだけど、こういう時に頼ると後で何をさせられるかわからない。他に頼れる知り合いらしい知り合いもいないから、私も足で探し回った。
……結果としては、目当てらしいサーヴァントの姿はおろか、その情報も特に集まらなかった。だって、名前だけでこれといって詳しい情報なかったし。噂だけでは流石に難しかった。
今日はある程度のところで一旦切り上げたけど、明日以降もラヴェンナさんは続けて仕事をするみたい。一回乗りかかった船だし、明日もできる範囲で手伝おうと思う。
追記。そういえば、ラヴェンナさんからお夕飯のお裾分けをもらった。お夕飯とは名ばかりのアンパンと牛乳のセットだったけど。
なんでも、探偵といえばこれだよね、らしい。どういう意味だろう?
20XX/○○/○○ 探しもの
今日は本当に何も書くことがない、とだけ書いて終わろうと思っていたけど、書くことができてしまった。から、書く。
世にも珍しいことに、放課後にアマナからSOSが来た。私に見せびらかしていたアクセサリが見当たらないのだとか。
自分で探しに探しても見つからなくて、仕方がなく私に連絡してきた、って感じの話し方だった。
別に誰かにケチをつけられるようなことでもないから、断りを入れてココノも呼んで、ついでに遊ぼう、ということになった。
それで、とりあえず探しものといえば、ということで、天王寺の警察署に行ってみた。落とし物として届けられているかもしれなかったから。
当然私とアマナはあまり関わらない方がいい立場だから、ココノに頼んで行ってもらったんだけど……ハズレ。そういうものは届けられていないと、担当してくれた刑事さんは言っていたらしい。
で、次に行ってみたのは難波。私が袴田さんを逃した後、案の定というか、何か仕事をしていたらしい。その関係でしょっぴかれて、その時に落としたかも……とか。
流石にココノのいる前ではそんな物騒な話はできないから、私が仕事をした時に起きた騒動に巻き込まれて落としたかも、ということで、警邏隊の支部に行ってみることにした。
「繋ぎ屋」としては警戒されても、「中学生女子の集団」としてなら、そこまで手荒には扱わないだろう。……なんて、ココノを連れてきたことに打算を働かせている自分が、嫌になるけど。
結果としては、アタリ。どうも捕縛直後に落とし物として届け出られていたそうで、事情を知っていそうな隊員の胡乱な眼を前に、アマナは流石にバツが悪そうに必要事項を記入していた。
逆に、何も知らないココノはニコニコ笑っていて、見つかってよかったなあ、なんてアマナにも言っていたりして。その笑顔のおかげで、ちょっと場も和んだ気がする。
その後は、ココノの方から、例のスイーツビュッフェに行こうという話があった。アマナは店を知っていたみたいで、その後は、スムーズにそちらへ行こうということになった。
……あの子は、自分ではご飯を食べないけど、食べるのを見ているのは好きだという。
自分はもう得られないもの。でも、あの子はああして笑って、私達が美味しいと思えるであろうものを見つけて教えてくれたりする。
その心の強さは、私には真似できないと思う。何かあの子に報いることもできない、私はそんなものでしかないのに。
眩しくて、少し妬ましくダメ。これ以上は書いちゃダメ。書いたら本当になる。……でも。結局のところ、それを抱えたままの私は、三人での時間を楽しく過ごしたようには振る舞えたんじゃないだろうか。
嫌だな。私、嫌だな。こんな隠し事だらけの心、見せられない。
20XX/○○/○○ お礼廃棄物 。戦いを求めているという、謎の多い少年。魔術や見た目の特徴からそれに気づいたのは、私が一旦帰宅してからのことだった。
それで、これが今日の日記。助けてくれた人に会いに行ったのだけど、どうにも追い返されてしまった。
その人、……その子、って言った方が正しいかもしれない。私よりも小さな、男の子。痛々しい病院服で、新地を彷徨いていた。
私が依頼人を連れて逃げている途中、偶然彼の近くを通りかかった。そして、私とすれ違い、向島さんがすれ違ったその時、その子が魔術らしいものを使った。
途端、向島さんとスレイプニルが苦しみ出して、その隙に私は逃げられたんだった。
……こういう経緯で、しかも言葉を交わしたわけじゃなかったけど、私は彼のことを聞いて知っていた。
新地を彷徨う
それで、多分嫌がられるとは思ったけど、お礼を言いに行った。……そうしたら、あの子は明らかに私を遠ざけようとしていた。
彼にとっては、私を助けたつもりはなかったんだろう。戦いがあったから、引き寄せられただけ。
それでも、助けられたのは事実。だから、私は勝手に、彼にお礼としてご飯を持って行った。
一回切りの接触かもしれないけど、そうして生まれた縁は、一回切りだからこそ大切にしなさい、なんて。センセイの受け売りだけど。
最初は受け取りも嫌がってたけど、これだけは受け取ってほしい、って言っているうちに、折れてくれたみたいだった。
出来合いの品だけど、坂井のおじいちゃんのお好み焼きは、下手な私の料理よりよっぽど美味しい。
消化器に致命的な傷もないみたいだし、一宿一飯じゃないけど、それなりのものを送れた、んじゃないかな。
……結局、それを渡したら、あの子はどこかへ行ってしまったんだけど。
P.S.あのあとうねりさん経由で向島さんの様子を聞いた。ひとまず私やあの子を狙っている風ではないみたい。一安心だ。
20XX/○○/○○ 書き忘れた日
昨日は急ぎの仕事が入っちゃって、日記も書けなかった。簡単にだけど、今のうちに昨日のことを書いておこうと思う。
暗殺者に狙われている、すぐに助けてほしい。最低限の暗号化だけで、うねりさんも、センセイさえも通り越して私に連絡が飛んできた。
送られてきた海底新地のポイントに向かってみると、依頼人らしき人が酷い怪我をして待っていた。
再生が妨げられているのは、見てすぐに分かった。新人類への特効となる、永遠否定の概念礼装。間違いなく、向島さんの『骨喰み』によるものだった。
ひとまず応急手当を施したけど、休む間もなくあの人に襲われた。どうやら、依頼人のサーヴァントは既に送還されていたらしくて、私だけで相手をしなければならなかった。
……彼女のサーヴァント、神馬であるスレイプニル(人の形を持ってはいたけれど)もまとめて。本当に、死にかけた。
幸い、本当に幸運なことに、私を助けてくれた人がたまたまいた。そのお陰で、依頼人を然るべき筋に……つまり、自分の所属する組に送っていくことができた。
だから私は、今日……ややこしいけど、仕事の終わった次の日に、その人に会いに行くことにした。
20XX/○○/○○ バイト
昨日はちょっと気落ちしちゃったけど、いつまでもそうしていられないし、結局寝て起きたら少しスッキリした。ムシャクシャしたら寝るのが一番だ。
学校ではセンセイとも顔を合わせないで済んだし、少し余裕も出てきたから、事前に連絡して坂井のおじいちゃんのところに行ってみた。
相変わらずおじいちゃんのお店は繁盛してて、裏方仕事のお手伝いが欲しかったと。すぐに制服を着て、荷物運びとかを手伝うことになった。
私が魔術師 魔術使いだってことに、相変わらずおじいちゃんは気づいていない。強化の魔術を使っているなんて思いもしていないし、なんだかズルい気もするけど、私だって少しでもできるお仕事は増やしておかないと、食いっぱぐれてしまう。
……それとは別に、おじいちゃんの賄いのお好み焼きが美味しいっていうのもあるけど。
ともかく、そういうわけで頑張って仕事をしていたんだけど、そうしていると珍しいお客さんが来たのを裏手から見かけた。エマノンさんだ。
なんと、お好み焼きを2人前買って、屋台のそばに置いている机に持っていった。あの人がそんなことをしているなんて、少しイメージと違ったけど、考えてみればあの人だって人間だ。特殊な事情があるのは私だって推察くらいできてるけど、ご飯は必要で当然だろう。
と、思っていたら、すぐにそこにリットさんと、見慣れない金髪の男の子も来た。で、実際に食べ始めたのはその2人。……本当にご飯食べてなかったりするんだろうか。
2人が何か話していたのは見えたけど、その内容までは、デバガメをするようで聞くことはしなかった。ただ、エマノンさんの様子を見るに、きっといつもの相談事なのだろう。
それにしても、あの男の子はどこかで見た気がするんだけど……。
追記。あの男の子、梅田都市軍のアルスくんだ! 中継やニュースでしか見たことがないから、すぐに気づかなかった。
一体何を話していたんだろう……?
20XX/○○/○○ 学校
死にそうになって宿題を片付けた後、今日は終日学校へ。これまで貯めていた授業時間を取り戻すためっていうのもあるけど、仕事の後はセンセイにも顔を見せて、無事だって伝えないとだった。
授業の後に仕事のてん末を伝えると、いつも通り、困ったように眉を垂らして、それでも笑いながら、センセイは頷いてくれた。よく頑張ったな、って。なんだか気恥ずかしくて、そっぽを向いてしまった。
……昔よりは、だいぶセンセイと顔を合わせる機会が減った。私が中学に上がる前後……逃がし屋稼業を始めてからだ。授業のこと以外で話をすることも、少なくなってしまった。
あの頃は、私も結構センセイについて回ったりしていた。時々、お昼ご飯まで奢ってもらったりしたこともあった。それだけお世話になったし、今もお世話になってるのに、私は、センセイを避け気味だ。
仕事のことでさえ、うねりさんの仲介に、意図的に頼っているという節はある。あの人を間に挟めば、センセイとは直接会わなくても済むからだ。
私自身、センセイの顔を見るのが、少し気まずい。小学部で出会ったときから、ずっと気にかけてくれている。なのに、私がこんなことを始めてしまって。……レムちゃんのことがあってから、尚のことそう思うようになった。
子供がこんな危ない橋を渡ろうだなんて、そんなことは考えられもしないって、センセイは言っていた。戦争より前の世界だと、きっとそうだったんだろう。
でも、今はこういう世界なんだ。頼るあてのない子供を助けてくれるところなんて、ほんのひと握り。それと縁がなかった私は、自分なりに生きる方法を探すしかなかった。
それで辿り着いたのがこんなことだったんだから、私自身、あまり胸を張れはしないけど。いくら私が心の中で夢を持っているとしても、私はセンセイに、私がレムちゃんに感じるのと同じ思いをさせている。そういう後ろめたさも、多分ある。
……クヨクヨ考えていたって、仕方がないんだけど。
今日はセンセイの授業の後、河合先生と相良先生の授業を受けてから、寄り道せずに家に帰った。途中でラヴェンナさんに会ったけど、ペット探しで忙しそうだったから、声をかけないでおいた。
あと、坂井のおじいちゃんが駅前で掃除をしていたのも見たな。タイミングを見て、お手伝いをしにいった方が良さそうだ。
家に帰った後は、これといって特に何もなかった。精々、都市情報網で情報をちょっと見てたくらいで……そこで、都市戦争が佳境を迎えそうだっていうのを見た。
この頃になると、三都の辺りには人が大勢増える。私達みたいな仕事をしている人間にとっては、良いことでもあり、悪いことでもある。でも、もし仕事があったら、人の群れに押し潰されるのは決まり切ってるから、できれば仕事は来ないで欲しいものだ。
心斎橋を警戒中、怪しい人物に遭遇。
赤茶色の髪、琥珀の瞳。スポーツタイプの水着。噂に聞く「繋ぎ屋」の特徴と一致する。
彼女が直接問題を引き起こすわけではない。が、彼女の取り次ぎによって度々事件が引き起こされている。
先日の騒動……以前、私達が取り逃がした男によるサーヴァントの強奪未遂事件……も、恐らくは彼女の斡旋によるものであったのだろう。
逃がし屋に繋ぎ屋。厄介な連中がこの大阪圏には多すぎる。
軽く声をかけてカマをかけてみれば、案の定噂の「繋ぎ屋」だった。
問い質すと悪びれもなく己を正当化する。あまつさえ、こちらの行いを下賤と宣ってみせた。
捜査に協力する素振りも見せないので、強制指導という形で連行する事とした。
激しい抵抗、詳細不明の魔術による妨害行為により補導は難航する。
切りつけた刀……正確にはその血痕だろうか、いずれにせよ刀から謎のワイヤーが伸び、彼女の手に絡め取られる。
面倒だ。もう一本の柄からもワイヤーが伸びている。このままでは簡単に絡め取られるだろう……と、言うのを見越して。
私の刀には細工が施してある。それは鞘に仕込んだ炸裂機能。引き金を引けば信管が炸裂し、飛び出した杭の勢いを以て刀身を射出するという仕組みだ。
高周波ブレードは構造上、どうしても刀身・柄側の重量が増す。パワードスーツならともかく、一般人ではまず取り回すことは出来ない。
そこで刀身自体に勢いを持たせ、初動の衝撃を以て居合の一太刀とする。というのがこのマゴロク製三九式振動剣のコンセプト。
絡め取られるのなら、先んじて刀を食らわせてあげよう。余裕げに笑う繋ぎ屋の顎元に狙いを定め、引き金を引く。
うん、それにしてもあの時の繋ぎ屋の顔は、思い返すたびに笑いがこみ上げる。
ぶへっ、と短い声を漏らし、900gの鉄の塊を顎元に打ち付けられると、軽い目眩を起こしたようにその場に倒れ込んだ。
おじいちゃん流の戦い方じゃないけど、バーリトゥードはミナミの常識。経験はそれなりにあったみたいだけど、今回は私は一手上を行ったね。
倒れ込んだ繋ぎ屋の手首にワッパ……手錠をかける、その瞬間。
“来い、セイバー”。その呼びかけを耳にすると同時に、私の思考は一瞬固まって、そして
呼びかけと同時に、背後に氷のように冷たい気配が現れたこと。
その冷たい気配は冷酷、かつ的確に、私の首筋に向けて抜身の刀を振るっていたこと。
あとほんのコンマ数秒遅ければ、私の首はボールのように跳ね飛ばされていたであろうこと。
…………耳を劈く金属の衝突音が鳴り響き、横薙ぎに払われるその刀を、軽々と受け止めてみせた……もうひとりの、セイバーがいたことを
文字通り瞬きのうちに感じ取ると、振り返った時には……冷たい目で“セイバー”を見据える“セイバー”、そして“セイバー”を見下ろす平然とした“セイバー”が立っていて。
おじいちゃんが助けてくれなければ、今頃は。そんな実感が遅れて押し寄せ、全身の血の気が一斉に引いていくのを感じ取る。
驚きの表情を浮かべていたのは私だけでなく、繋ぎ屋も同様に。
私を完全に仕留めるつもりだったのだろう。隠し玉であろうサーヴァントの強襲を防がれ、呆然と二人を見据えている。
対する彼女のサーヴァント……セイバー。マスターの繋ぎ屋よりも二回りほど幼いであろう、小学生とも見紛う体躯のセイバーは
驚くことも戸惑うこともなく、おじいちゃん――――の、手にした刀を見定めているようで
“ほう、その三本杉。この儂が知らん孫六の真作を持っとるとは……成程。当代は随分と別嬪さんじゃの”
さらりと真名を看破してみせたおじいちゃんのその言葉を聞いて、雰囲気を一変させた。
具体的には、抜身の刀のような雰囲気から見た目相応の子供らしい幼気な表情に。目を輝かせて刀を仕舞い、先程自らの刀を阻んだ一振りに目を移し
“どうして私の真名がわかったの!?”“この重ね厚い刀身、切っ先の伸び、刃紋互の目丁子刃……”“武州住藤原順重作!つまり、おじいちゃん――――あの千葉周作!?”
ああ、こっちもこっちで一瞬で真名を見抜いてる。昔、武装が何よりも真名を物語ると聞いたことがあるけど……こういうことか。
真名を見抜かれ、話の通じるサーヴァントとあっておじいちゃんの剣気も解け、つい一分前までの雰囲気はどこへやら、二人は朗らかに雑談を初めてしまった。
その様子を眺めて、あっけらかんとした表情で固まる繋ぎ屋。まあ、私も似たような表情をしてたけど。
最早抵抗する気力も無くなったのか、大人しく手錠にかけてそのまま支部に移送。
現行犯でもなければ関連する証拠もないとして、厳重注意で開放されたけど……あの様子じゃきっと、大して懲りてないだろう。
とはいえ収穫もあった。あの繋ぎ屋の本名を知れたこと、そして先日の騒動に、あの逃がし屋が関わっていたこと。その情報の裏付けが取れた。
……以上、本日の報告。
ついでに追記。繋ぎ屋との交戦場所にて、恐らく彼女の物と思われるアクセサリーを拾った。
ブランドは……天王寺のラグジュアリーショップ。高価なものだろうし、癪だけど遺失物として支部に預けておくことにする。
20XX/○○/○○ お休み
昨日は日記を書いてる途中で寝てしまった。朝起きたらよだれも垂れてるし顔に跡もついてるしで、ちょっとヘコんだ。
まぁ、今日はどの道学校もお休みの日ではあったので、気分を切り替えて、折角だから羽を伸ばすことにした。
昨日も考えてたけど、まず雨水を沸かしてお風呂にして入った。文字通り、溜めてた分は湯水の如く使って、全身を綺麗に洗った。ゆっくり浸かりもしたから、全身ふやふやになった気がする。
その後は、うねりさんから振り込まれていたお金で、普段は行けないご飯屋さんなんかに行っちゃったりして。意外と旧新世界には、そういうお店があったりする。
通天閣の足元あたりにある、おひとり様向けの串カツ屋さんとか。結構美味しいし、お値段もそんなに高くなくてお財布にも優しい。今回も、何回か行ったことのあるところに行って、ブランチの代わりにした。
お腹いっぱい(とはいっても私は少食だけど)満足いくまで食べた後は、阿倍野塔に行った。アマナに見せびらかされたアクセサリを売ってるお店があって、そこに見に行こうと思ったんだった。
自分に似合うかどうかはともかくとして、私だって、綺麗なものとか可愛いものには興味がある。だから、ちょっと覗いてみるつもりで行ってみた。
……行ってから、後悔した。なんか、店員さんもお客さんもみんなキラキラしてて、私みたいなのは場違いなんじゃないかな、と思ってしまった。
考えすぎ、というか被害妄想なんだとは思うけど。誰も私のことなんか気にしてない。不良娘が1人、学校をサボってフラついてる。それだけ。
でも、そんな勘違いにびくついてても、やっぱりアクセサリは綺麗だった。見ていた中では、星の形をあしらった髪留めが、一番気に入った。頑張ってそれをレジまで持っていって、私はちゃんと買ってきたのだ。
次にココノとスイーツビュッフェに行くときにでも、付けていこうかな。似合ってる、って言われたら、一番嬉しいけど。そうじゃなくても、この綺麗さを、あの子にも見てもらいたい。
追伸。いくら休みでも宿題忘れちゃダメだ私。
要監視対象人物逃走の可能性あり、との報告を受け、第三種警戒体制での待機。
対象は檜扇組に関わる人物との事で、警邏隊と組の衆合同での活動となった。
開けていて囲みやすい基礎構造は組の衆、単独でも食い止めやすい連絡通路は警邏隊が担う。
組のサーヴァントは血の気が多い。近頃は福岡にも怪しい動きがあるということで、組全体が殺気立っている。
そんな中で騒動を起こされたとなれば組の面子も潰される……警邏隊まで導入しての追い込み漁とは、そういうことか。
正直乗り気ではない。組に恩義はあれど、対象には感じ入る事もなければ追う理由もない…………けど。
情報によれば昨日、日本橋付近で『逃がし屋』を見かけたとの報告があった。
組のいざこざはともかく、あの女が関わっているとなれば見過ごすわけにはいかない。
これ以上うちのシマで余計なシノギを回されるのは困る。難波のブランドに傷がつくから。
…………尤も、結果だけ言えば目標は取り逃がした。
痕跡を見るに下層を通って梅田に逃げ果せたのだろう。
淀屋橋沿いの廃棄通路を狙われた?もしくは本町西の……何れにせよ、下層にも組の衆は配置されていたはず。
その監視に一切引っかからなかった、ということは……魔術。魔術の類で目を欺かれた。
加えて本部での爆発騒ぎ。天神会のカチコミか、と慌てていたけど、蓋を開けてみれば単なる花火のイタズラ。
地下から急いで引き上げて応援に向かったけど、結局人混みで本部には戻れずじまい。
対象も、逃がし屋も捕まえられずにどの面下げて帰るんだ、って話。
都市戦争もかくや、といったような騒ぎを掻き分けて家に戻る。
結局逃がし屋を一目見ることも叶わなかった。今日は一手上をいかれる形になったけど……次こそは、必ず見つけ出す。
そして、これは個人的な日記。
曇り空に映える花火……なまらキレイだったな。
※明日の私にメモ 本部提出の時には個人的注釈を削って送ること
20XX/○○/○○ 仕事
深夜に起き出して、難波の下層へ。そこで袴田さんと合流して、梅田へ向かった。
道中、檜扇組の人達がいたけど、サーヴァントの目も含めて上手くかわせた。都市戦争の時でもなければ、魔力が僅かしか流れないサーヴァントの能力は万全とはいかない。その辺も踏まえて、高いお金を出して隠密の護符を買ったんだ。
あとは、構成員とサーヴァントの組み合わせを頭に入れて、どうしてもかわせなさそうなところを避けていくだけでいい。鉄火場になるのをわかっているから、最悪戦闘になった時に力を出せるよう、主従はぴったりくっついてるはずで、それは実際に当たってもいた。おかげで、ルートを作るのは簡単だった。
そして、袴田さん自身のサーヴァントであるオラとも、上手く「縁を切れた」と思う。隠蔽術式は少なくともあと数日は持つ。それまでに、要石を失ったオラは、きっと退去せざるを得なくなるはずだ。
……今回、依頼人が逃げることを優先していたのも、多分幸いした。あれだけ荒れ狂いかけたバーサーカーを刺激していたら、きっと私も死んでいただろうし。
何をしたのかを詮索する気はないけど、きっと袴田さんは、これからもろくでもないことを引き起こすのだと思う。でも、仕事が終わったら、それも関係ない。相手が誰でも私は仕事をすると決めているし、その後のことは、自分で切り開くしかない。
何となく、アマナの顔が浮かぶ。もしかしたら、そういうことがあるかもしれない。でも、それは私には、どうしようもない。
でも、今回一番大変だったのは、当初想定していたオラよりも、難波のあの人だった。ミナミの辻切り。何回も逃げおおせたせいで、あの人は私を捕まえようと必死だ。
檜扇組から多分連絡が行ったんだろう。基礎構造は組員が、連絡道路の方は警邏隊が抑えていた。
迂闊に顔を見られるわけにもいかないし、かといっていつまでも様子を見ているわけにもいかなかった。仕方ないから、ちょっと騒ぎを起こすことにした。というか、元々起こす予定ではあったんだけど。
万が一のために用意していたのが、センセイが融通してくれたパーティーグッズ。花火とかをポンポン打ち上げるびっくり箱と、大きな音を立てる爆竹。タイマーで起動するようにして、檜扇組のビル近くにたくさん仕掛けてきた。
これが次々起動したから、警邏隊も大騒ぎ。気分を盛り上げる簡単な暗示魔術付きだったから、見ていた通行人が騒ぎを起こし始めて、そのうち応援に呼ばれてみんないなくなった。
今日は本当に疲れた。予定してないことへの備えもしておけっていうのも大変だ。
久しぶりにちゃんとお風呂に入りたい。一昨日の雨水を沸かすの、大変だけど。
あー、本当にどうしようかーーーーーーーーーーーーーーー〜〜〜〜〜
追伸。途中で書き損じたところがあるから、忘れないうちに。
オラが、サーヴァントとしての出力で、コモドオオトカゲとしての力を振るったら、多分それなりに厄介だ。解呪じゃなくて、解毒を考えた薬とか、持っていった方がいいかも。
20XX/○○/○○ 調査と買い物
今日は仕事に向けての準備に終始。学校の授業はセンセイの個人指導だけだったから、早めに帰って来れた。
最初は、詩遠さんにも手伝ってもらって、大学の図書館に。都市情報網では、今や遠くなってしまった外国のマイナーな神話や伝承は調べきれなかった。
まず、コモドオオトカゲのことを調べた。昔は本物の竜と勘違いされたこともあるらしい、大きなトカゲだ。
毒の牙を持っていて人間も食べてしまう、言ってしまえば害獣にも近い存在だけど、生息地の人には親しまれていたとか。
その理由が、現地の人間の遠い親戚だという伝説があるから、らしい。前に狛原先生にも聞いた、トーテムという概念に似ているのかも。
そして、その伝説に登場するのが、オラというメス? 女性? のコモドオオトカゲらしい。
特に神様だとか、そういう話はないし、凶悪な能力が伝わってるわけでもない。ただ、コモドオオトカゲとしての生物の力をサーヴァントの出力で
その後は、難波のアングラ街に。リアニメイトの店主さんに連絡を入れて、廃棄物 で良さそうなのを見繕ってもらっていた。
見つからないのが一番だから、ちょっと高いけど、隠密の護符も。どちらもいい買い物になった。支払った金額的にも。
それから、帰り道に下調べ。明後日には通る場所だし、これまで何回も使ってはいるけど、様子を見るのは大切。
見た感じ、明日までに何か特別な行事があるわけでもないし、工事もない。問題なく通れる。
通りいっぺん確認したら、帰りしなに梅田で買い物をして帰った。そろそろフレークと牛乳もなくなるところだったから、ちょうどよかった。
……残りの量も少なくなってきたし、明後日にでもちょっと贅沢に食べちゃおうかな。
20XX/○○/○○ 大雨
大雨。傘を差すにも風が強くて動きにくい。
仕方ないから、今日は1日家にいた。
……何も書くことがない。家にいてもやることなんかない。廃棄物 の整備をしたくらいのものだ。
せいぜい、
でも、少しだけ本は読んだ。旧世界時代の小説らしくて、『恩讐の彼方に』、という題名だった。
復讐、仇討ちのために生きてきた人が、仇が心の底から改心して人のために働いているのを見て、仇討ちをやめて協力する……という筋書き。
私自身、そこまでの憎しみに駆られたことはない。憎まれることはあっても、私がそこまでの思いを向ける相手は、そんなにいない。
今だったら……どうだろう。ココノやアマナ、学校の先生達が殺されたら、そこまで怒れるのかな。
殺してやろうとまで思うほど、誰かを大事に思えているのかな。
私は、そんなに情のある人間なのかな。
20XX/○○/○○ 日記の使い方
日記の使い方をセンセイに聞いた。
特に決まったやり方はなくて、好きに使えばいいらしい。
昨日書いたことを見せたら、あれでもいいとか。
こんな感じでいいなら、もう少し書き続けられそうかも。
今日はうねりさんから仕事の連絡が入った。
依頼主の名前は袴田陽平さん。難波の下層から梅田のターミナルまで、追手のサーヴァントから逃げたいらしい。
サーヴァントの真名はオラ。南アジアに生息しているコモドオオトカゲというトカゲの英霊らしい。
……聞いても全然分からなかったから、ちゃんと調べておこうと思う。
予定日時は明明後日の午前3時。辿り着きさえすれば、後はうねりさんの手配で逃げられるとか。
目的地的に、基礎構造を抜けるよりは、三都連絡道路の下を走る方が早そう。気配察知や直感の類はないらしいから、素直に隠密の護符を買っておこう。
学校の方は、特に何もなかった。狛原先生の神話学を総合の時間枠で受講させてもらったのが、いつも通り楽しかったくらい。
今日はセンセイの個人授業もなくて、西村先生のお手伝いをして帰ってきた。
そろそろビオトープに住んでるメダカの産卵が見られるらしいから、楽しみにしておこう。
そういえば、ココノから聞いたお店を覗いてみた。お洒落な感じで、スイーツがたくさん置いてあった。
お金を払えばあれが食べ放題だなんて、ちょっと信じられない。元は取れないけど、一度は行ってみたい。
今日はここまで。昨日よりはたくさん書いたな。
20XX/○○/○○ 初めての日記?
センセイから日記帳をもらった。
こんなの使わないと言ったけど、良いから良いからと押し付けられてしまった。
もらってしまったものを捨てたり人にあげたりするのも、なんだか良くない気がする。
しまっておくのも失礼な気がするし、折角だから何か書いてみようと思う。
今日は仕事はなかった。朝から学校で授業。
数学と物理の授業はキライだ。
徳元先生の声は眠たいし、問題を解かされるばっかりで楽しくない。
でも、ココノとゆっくり話す時間があった。久しぶりに話せた気がする。
駅の近くに最近新しい、スイーツビュッフェ?の店が出来たとか。お金があれば是非とも行きたい。
……書くことがなくなったので、今日はここまでにする。
日記って、これでいいのかな?
何が起きた。
弓矢のような何かが、鋭く空気を切り裂く音が響いたのは、この私の頭脳がかろうじて感じ取ることは出来た
だが、まるでそれに反応することは出来ずにいた。だが直感する。これが、英霊を使う戦争というものか、と
雇った魔術師が言っていた。サーヴァントとは人の形をした戦闘機のようなものだと。ああ、確かにその通りだ
一切の気配なく空気を切り裂く弓矢を、この私の心の臓腑めがけて正確無比に穿とうとするのだ。全く興味深いよ
腹立たしい事に、この世界には私の頭脳でも反応することのできない存在があると、斯くも証明されたという事だ
だが"そんなことはどうでもいい"。今私は、目の前で起きた事象を、天性の頭脳を以てしても処理しきれずにいた
「…………何をしている、ランサー……。何故、独断で、動いた……」
私の目の前で、私が召喚したサーヴァントが、戦いのための武器が、その胸に弓矢を受け、血に鎧を染めていたのだ
「どうして……何故……!私が…私を守れと命令したかぁ!?」
気付けば私は、彼女に駆け寄っていた。天才たるこの私らしくもなく、感情的に、声高に叫んでいた
「どうして、ですか。そんな事も分からないなんて。私を"高名な英霊"と呼んだだけ…ありますね…」
「喋るな。今魔術師達を手配する。町中に配備しているはずだ。治癒魔術程度、全員が扱えるはずだ!」
この愚図め。どうして致命傷を負ったというのにそんなに満足げな顔をしていやがる。貴様は死ぬかもしれないんだぞ?
死んだらこの私の、人類大統君主となる理想が白紙になる。何故私を守った?私の完璧な理想に泥を塗る気か…!
「守った理由なぞ、明白ですよ。私はあくまで人理の影法師。死んだとしても、座に帰るだけです。
ですが貴方が死ねばそこで終わりでしょう?自称、天に選ばれた最高の頭脳、様?」
ついでにその、信じられないような物を見るようなマヌケ面が見たかった…などと、減らず口を尚もほざく。だが…
「……分かっているなら良い。そうだ、そうだな…。この私の頭脳が失われるのは、人類の損失だ…!」
この女、口先は毒舌に塗れているくせに正論を吐く。ああ、確かにそうだ。この聖杯戦争は通過点に過ぎない
ここで敗退しても、この私の頭脳とラプラスがあればやり直すことが出来る…!
ああ、神に選ばれし頭脳を持ちながら、つい冷静さを忘れていた…!
「だがな……私にも意地というものがある」
私はそう言うと、ありったけの魔術礼装をランサーに装備させた。同時に私が神たる才能で会得した魔術を用いて回復のスクロールを施す。
「付け焼刃の魔術だがないよりはましだ。お前は至高の円卓を彩った騎士の1人だろう?ならば、森に隠れるだけの卑怯者の鼻を明かす程度、出来るはずだ……!」
「───。やれやれ、何処までも……頭脳に見合わないチンケな発想ですね。
承知しました。精々、死にぞこないのハズレ英霊を、最後の一時まで存分にこき使いくださいませ?"マスター"」
「人類大統君主と呼べ!!」
───そう叫び、円卓の騎士とそのマスターは森へと消えていった。結論から言えば、その結果は惨敗だった
彼の招集が災いして"埋葬者"が街に潜む彼の仲間を察知。人の命を犠牲にした男に与した事から手当たり次第に殺された
加え、そこから芋づる式で魔力貯蔵庫と大礼装ラプラスの所在が暴かれ……その全ては、無惨に破壊された
殺されなかった顧問魔術師は逃げ出し、最終的にダニエルは、神秘に関わる手段の全てを失った
残された道は、"埋葬者"に殺されぬよう、日々怯えながら過ごす…、憐れな日々だけであった
「何故ですか?」
「ん?」
「何故………あなたはわたしに構うんですか?」
ことり、とワイングラスが机に置かれる。店内を流れるイタリア語で歌われたBGMは陽気だ。
それらがちゃんと耳に入ってくるくらい、ナナの所作は穏やかで、落ち着いていて、緊張を感じさせなかった。
「うーんとね。それは多分なんだけど、ステラちゃんが“普通”だからなんだと思うなぁ」
「普通………?」
意味が分からない。混血でありながら代行者。わたしほど普通から掛け離れたものもそう無いだろうに。
だが、ナナは聞き返したステラの言葉にうんと頷いた。
「聖堂教会………特に代行者だとか、聖堂騎士だとか、魔を討つ役目を主よりお預かりしている立場の人間はね。
ほとんど全員が気狂いよ。アタシも含めてね。まともじゃないんだなぁ、みんなさ。
でもね。ステラちゃんはちょっと違うよね。客観視してるというか、一歩距離を置いてるというか。
我らが主の教えを信じながらもどう自分の中に取り込むか、いつも考えてる気がするの。
アタシ、そういうの素敵だなぁって思うなぁ。アタシはもうそこには戻れないしさ」
───それは、魔との混血故に皆が到れるような清らかなるものにはなり得ない諦観から。
───それは、いつか魔に転じ得るかもしれないが故に自分自身を常に見つめ続ける恐怖から。
ステラにとってそれは誇れるものでは無かった。だから、ナナの言ったことを理解することはできなかった。
「………よく分かりません、あなたの言うことは」
「ん、それでいいと思うよ。それを教えてくれる人にいつか出会えたらいいね。アタシには無理だもん」
あっけらかんとした調子で言い、テナガエビのフリットをフォークで突き出したナナにステラは告げた。
「あなたは変な人です。ナンシーさん」
「ナナでいいよ~。むしろナナって呼んで~」
「………。………ナナさん」
「そうそう、やっぱりそっちの方がいい響きよね」
にっかりと笑ったナナの笑顔は本当に子供みたいに毒気がなくて、ステラはやっぱり変な人と口の中で呟いた。
───よく食べる人だ。
感心半分呆れ半分、そんな心持ちでステラはパスタを巻き取って口に運んだ。
ヴォーノ。麺のチョイスと茹で加減、ソースの絡み具合。地方都市の小さなイタリア料理店としては十分と言えるだろう。
しかしステラの食欲なんて可愛いもので、目の前の麗人は食卓いっぱいに並べられた大皿をざくざくと片付けている最中だった。
色とりどりの魚介類が並んだ宝石箱みたいだったアクアパッツァもすっかり駆逐されてしまっている。
真っ昼間からボトルで頼んだワインを嬉々としてグラスに注ぐナナにステラは小さく嘆息した。
「よくこんな店知っていましたね。この街で出来のいいパスタを出す店は調べ尽くしたつもりだったんですが」
「アタシね。不味い飯は我慢できないタイプなの。現地についてまず探すのは美味しいレストラン。頼りは勘かな~」
勘、ときた。そんな表現が彼女に限っては何だか納得できる。
人懐こい、大柄な野生の動物。例えるならナナはそんな人間だ。
人懐こいからすぐにこっちへ鼻先を擦り寄せて好意を示してくるが、一方で決して飼い馴らされることはない。
代行者に非ず、規律と全体の調和を尊ぶ聖堂騎士団では確かにこれは異物だろう。
聞けば彼女の育て親たるスミルグラ卿は、もともと聖堂騎士の後ろ盾を務めていたそうだ。………そうでなければ、今頃何処で何をやっていた事だろう。
「別にいいのよ?アタシの注文した品だからって遠慮せず食べちゃって。一皿で足りる?」
「いえ。見ているだけでお腹いっぱいなので」
ごってりと盛られていたはずのニョッキが全てナナの胃袋に収まっていくのを見ながらステラはそう言った。
本当に───変わった人だ。
聖堂教会は魔術師どもの巣窟である時計塔みたいに猜疑心と詐術で凝り固まった場所ではない代わりに、偏見と固定観念に満ちた世界だ。
魔との混血は異端からは外れるもの。だから駆逐されない一方で、ステラへの冷ややかな視線が止むことは無い。
同じ代行者の中でもステラをあからさまに軽蔑する者は何人もいた。だが、当然だ。彼らは間違ってなどいない。
わたしは彼らの言う通り、人間ではないものの血が流れている魔性であることに変わりはないのだから。
わたしは彼らの言う通り、真っ白で輝かしい信仰心に殉じることで代行者となったわけではないのだから。
だからこそステラにはナナがよく分からなかった。
聖堂騎士。代行者とは別の括りで動く聖堂教会の暴力装置。『虹霓騎士』の二つ名を筆頭に、稀代のドラクルアンカーの名を得るもの。
仰々しい肩書とは裏腹に、驚くほど彼女は友好的だった。
いや友好的すぎた。この街には他にも代行者が何人も乗り込んできているが、他には親しげに振る舞いながらもここまで干渉はしてこない。
ところがステラにだけは彼女はやけに懐いてきた。その差くらいは、ステラにだって嫌でも分かる。
だからだろう。ワインを心ゆくまで痛飲しているナナへ、ステラはつい問いかけてしまった。
かちゃ、じゅうじゅう。
もっ、もっ、からん。
トングの音。肉を焼く音。食べる音。そして皿が積まれる音だけが店内を満たしていた。
夜の10時。何時もならたくさんの人で賑わっている筈の店、しかし今そこにいる客はたったの二名。
にもかかわらず、店員たちの間にはまるでセレブが来ているかのような張り詰めた空気が漂っていた。
しかし無理もない。何せ今、店の中央のテーブルに座っているのは、生物として人間の上に立つ存在。
片や、踝まで届く長い銀の髪をポニーテールにし、声が聞こえているかの如く肉を完璧に焼いていく少女。
片や、臭いなど知らぬとばかりの着物姿で、丁寧な箸使いで50人前の肉をぺろりと平らげてしまった少女。
洋装の少女が焼き、和装の少女が食べ、時折洋装の少女がレバーを食べる光景がかれこれ30分続いており。
そして51度目の全肉メニューを綺麗に完食し、注文を受けるためだけに立たされていた店員へとこう言った。
「「おかわりはまだかしら」」
その年、夜観市でも人気店だったその焼肉屋は創業してから一番の売り上げを叩き出したという。
─────
彼と別れて数分。少し歩いただけで、空模様はまたバケツをひっくり返した様な豪雨になっていた。不安定な気候……。やはり予報など信用ならない。
熱いのは慣れっこだが、冷たいのはそんなに慣れていない。ようやく、一人で暮らしているアパートのすぐ前まで辿り着いた。
エントランスに入りがけ、雨でぼやけた道の向こうから、何やら見覚えのある人影が近づいて来るのが見えるや否や、向こうから声を掛けてきた。
『……あ!ステラちゃんだ~!……あれ、傘持ってないの?ビショビショじゃない。』
「……ナンシーさん」
『連れないわねー。ナナで良いのに。』
ナンシー・ディッセンバー……彼女にとり数少ない、名前を覚えている女性だった。
自分と同じ、聖堂教会からこの街へ派遣されて来た、ニルエーラ聖彩騎士団(総勢一名)の団長……。
様々な異名をとる誉れ高い聖騎士(パラディン)というが、管轄が異なるのであまり良く知っているわけではない。
一方でひとたび挨拶に行って以来、やたらと自分に絡んでくる様になった。色々な面で謎の多い女性だった。
『傘入る?大変でしょ。』
「いえ、結構です。住んでるの、ここなので。」
『へぇ?。いいこと聞いちゃった。』
今度遊びに行っちゃお、などとはしゃぎ始めたナナを見て、彼女は内心で失敗した、と思った。
せめて部屋番は秘密にしておかなければ。いつインターホンを鳴らされるか分かったものではない。
『せっかくだし、軽く拭いたげよっか。こっちこっち。』
言うが早いかナナはエントランスに入って来て、タオルを持ち出し、凄い勢いで手招きをして来る。
……現に寒いし、部屋の玄関には拭くものもない。廊下が水浸しにする事もないし、厚意を無碍にする理由はないだろう。
近寄ると、すぐさまタオルを上から被せられた。力強く、しかし繊細な手付きで、髪から身体まで水分が落とされて行く。
しばし身を任せながら、彼女はナナについて思考していた。相変わらず、この人のことはよく分からない。何が楽しくて自分に構うのだろうか?
魔との混血。それは聖堂教会の討伐対象ではないが、さりとて忌まれる存在に変わりはない。夢魔の血が入っている彼女は、表立って排斥された事こそないが、それでも水面下では少なからぬ反感にさらされてきたのは事実だ。
だからこそ、何ひとつ隔壁なく好意的に振る舞い、そのように自分に接してくる教会の人間など、彼女にとっては珍しく感じるものだった。
そういった在り方も含めて、評判通り、色々と規格外な人物なのだろう。いつも一緒のお付きの人には同情を禁じ得ない。
タオル越しにしきりに頬を撫でられ、思考を中断されながらもそんな事を考えていると、不意に手が止まった。
『はい、こんなものでしょ。でもほんとにずぶ濡れねー。上から下まで透けちゃって。可愛いんだから、少しは気にしないと』
タオルが外される。指摘されて初めて、彼女は自分の身体に目をやった。
見れば肌に張り付いたブラウス越しに、薄ピンク色の下着と、白く透き通る様な、しかし僅かに紅く彩られた、生気に満ちた肌色までがはっきりと透けて見えて居る。
彼女はそれに気付いても大した動揺を見せることなく、ずぶ濡れのスカートの裾をおもむろに絞り始めた。
「……え?あ、本当だ。ん、気を付けないとですね。……わたしの身体なんて、見てもいい気分にならない。」
『そう思ってるの?アタシはとっても嬉しいけど~?』
「えぇ……?」
『もっと自分に自信を持っていいのよー?それだけのものは持ってるんだし。ね?』
「……はぁ」
『じゃ、アタシ用事あるから。またね~!』
そう告げて、彼女は嵐の様に過ぎ去って行った。……最初から最後まで、よく分からない人だった。
彼女と別れた後は、何事もなく自室に帰ってくる。びしょびしょの制服を絞り、濡れた下着を脱ぎ、洗濯機に入れながら、ふと帰り道のことを思い出す。
支くんにも、わたしの身体を見られていたのだろうか。
……だとしたら、どう思われていたのだろう?
そんな他愛もない考えを抱きながら、一人、浴室に入って行った。
傘はさして大きいわけでもなく、思ったよりも狭く感じた。暗い空の下で歩くうち、外界の雨は一段と強まりつつある。
傘の下の暗く閉塞した空間には、ただこもった水音と、すぐ上で跳ねる雨粒が弾ける音ばかりが聞こえている。
手に持ったバッグになお雨粒が掛かる事に気付き、身体を少し彼の方に寄せる。それまで腕が触れていた程度だったのが、肩と肩、腰と腰まで接触する程の距離に縮んだ。
十分すぎるほど雨に濡れたブラウスやスカートは、もはや彼女の身体に完全に張り付いている。それが彼に触れる度、その制服までもを濡らしてしまっていた。
これは、思った以上に窮屈だ。ここまで近いと互いの息遣いまで聴こえて来る。
歩き始めてすぐはぽつぽつとあった会話も既に無く、彼は黙り込んでしまっていた。ちらと見れば若干自分から目を逸らしている様だった。
……濡れるのを嫌がっているのだろう。思えば彼は普段から、制服をきっちりと着こなしている。彼女はつぶやく様に言った。
「……悪いね」
『え。……何がですか?』
「わたしの服、濡れてるから。……あなたのまで濡れちゃって。」
『あ、ああ。……いや、そんな大した事じゃ無いですよ……。』
どうも歯切れが悪い。彼の様子を測りかね、隣から少し身を乗り出す。彼女はその翠玉に輝く双眸をもって彼の表情をしばし覗き込み、その心境を見定めにかかる。
視線が合う。外れる。視線が合う。外れる。……およそ10秒ほど凝視する中で、彼女は彼に現れている、ある異変に気が付くことが出来た。
それとほぼ同時に、彼の方からどこか気不味そうに、控えめな質問が上がる。
『先輩、その……何です?』
「……支くん」
『はい』
じとっとした緑の目で彼の瞳をまっすぐ見つめながら、彼女は真に迫った声色で言った。
「……もしかして、風邪?凄く顔が赤いけど。」
『え?!いや、これは……。』
普段感情の起伏が乏しい彼には珍しく、一瞬たじろいだ様子を見せ、頬に手を当てる。図星か。
彼の額に指先を当てる。心なしか熱くなっている様に感じた。
「やっぱり。ちゃんと体調管理はしなさい。倒れられでもしたら困るんだから。」
『……そういう事にしときます』
その後は、彼の様子を案じながら暫く歩き続け、細い分岐の近くで立ち止まる。
共に立ち止まった彼に向き直り、道の向こうへ指を差して言った。
「じゃ、わたし、こっちだから。」
『そうですか……。お疲れ様です。』
「お大事に。」
『……。……どうも。先輩も気を付けてください。』
そう告げて傘から出る。雨足は一時的に弱まった様だ。まだまだ降っているものの、雲間からは光が差し込んでいるところも見える。
立ち去ろうとした彼に向けて振り返り、彼女はふと、声を上げた。
「支くん」
彼が振り返る。薄紅の瞳をまた見つめ、彼女は小さく、呟く様に言った。
「傘、ありがと。」
「……嬉しかった。」
雨に打たれ、雲間の光に照らされながら別れを告げる。
彼女の顔には、知ってか知らずか──大輪に咲く華の様に、柔らかく、暖かな微笑みが浮かんでいた。
─────
廃墟のすぐ近く、茂みに隠したバッグを取り、表通りに出る。幸か不幸か、底の方は多少濡れているが、教科書は無事な範囲だろう。
……そう言えば、傘を持っていない。普段から持ち歩いていないし、持って来ることもなかった。
別に濡れる事自体は気になどしないが、やはり面倒くさい。そう思いつつ、そのまま帰ろうと踵を返した瞬間、彼女を呼び止める声があった。
『……あれ、ステラ先輩?』
自分をその様に呼ぶのは、数人しか心当たりが無い。振り返ると、傘の下に見知った顔があった。
それは彼女がこの街で拠点とする学校の生徒。企図せずよく話すようになった、一つ下の後輩だった。
「支くん」
それなりに降っている雨粒の中で、平然と歩いている彼女を怪訝に思ったのだろう。
彼は彼女の姿を上から下まで見た後、少し気まずそうに目を逸らしながら、彼は質問を投げ掛ける。
『どうしたんですか?傘も差さないで……』
「……ああ。傘、持ってきてないから。」
『えっ。予報で言ってましたよ、16時からどしゃ降りだって。』
「うち、まだ新聞取ってないし。」
『……テレビは?』
「あの箱?ないよ。」
『……。』
彼は分厚く空にかかった暗雲を、傘の下から一瞥する様子を見せた。彼女もそれに合わせて上を向く。見れば、空の色はつい数分前より濃い灰に代わっていた。
……なるほど、確かにこのままでは土砂降りになるだろう。
「ほんとに強まりそうね。急いで帰らないと。……じゃ。」
『あ……待ってください。』
再び歩き出そうとした時、彼はまた彼女を呼び止めた。彼女は背けかけた首を戻し、続きを言いよどむ彼の顔を、端正で小さな顔に嵌められた、輝く緑の瞳でもって不思議そうに覗き込む。
数拍ののち、彼は手に持った傘をやおら彼女に突き出しながら言った。
『あの……良ければ、入りますか?』
「傘?良いの。」
『はい。先輩なら……』
何が自分ならなのかは分からないが、教科書が濡れるのはまずい。……断る理由はないか。
「……じゃ、入れて。」
濡れた金の短髪をかき上げながら、軽く首を下げ、傘を持つ彼の左隣に入った。
学校帰りの服装のままに、廃ビルを駆け上がる。
時刻は午後四時。外を降りはじめた雨も気にすることはない。腐りかけの階段を飛び、古びた床材を蹴るたびに上がる黴臭い煙が鼻を突く。
近い。近付いてくる。上から漂ってくる、異常な香りに少し眉をひそめる。それは幾度と無く嗅いできた、そして忘れ得ぬ、ぞっとするような感触。
血の匂い。腐った肉の匂い。───死の匂いだ。
最も匂いの強いフロアが見えて来る。此処だ。頭を出すより先に左手の聖書を開き、右手に刃を充填する。
階段を上りきった瞬間、大部屋の中に四本の黒鍵を投擲し、室内に飛び込む。──残骸。そこには誰もおらず、代わりに、誰のものとも知れぬ人骨とそれに付着した肉がおぞましい腐臭を上げ、床に飛び散った大量の血液が、凄惨な朱色の絵画を描いていた。
申し訳程度に設えられた机の上に乗ったそれが、死徒の低俗な趣向による"食事"の犠牲者であったことは疑いようもない。
この街には紛れもなく、まつろわぬ者どもが跳梁跋扈している……眼前の光景を前に彼女は、実感としてそれを認識した。
「……遅かった」
ここを拠点としていた死徒は既に去ったらしい。天井に空いた大穴はビルの最上階まで達しており、光が差し込んでいる。周辺の瓦礫はさして古くなく、建物自体がつい最近、老朽化によって日光を遮れなくなったのだろう。
注意深く周囲を警戒しながら、人骨に相対する。それは対して食いもせず放置された下半身であり、酷く変色した肉には蛆がわいていた。
無残にも奪われた命に十字を切り、教会に連絡を取る。遺体は彼らが回収し、しかるべき処置ののち葬送されるだろう。
用の無くなった廃ビルを足早に後にする。
死徒の殺しに、基本的に道理は無い。人間はそこを歩いていたために、そこにいたために殺される。そこには正気も狂気もなく、沙汰の外なのだ。人間の法など通用しない。
だからこそ──彼らは、人間が、人間として滅ぼさなければならないのだ。
降りしきる雨に濡れながら、灰色の空を睨む。この街にはどれだけの死徒が潜んでいるのだろうか?検討すら付かない。
此処はあの男が、祖が滅びた街。ここは今やその『空座』を埋めるための饗宴の会場なのだ。世界中から死徒が訪れる博覧会の様に。
「『空座』なんていい名前。ただの血吸い虫のくせに」
「生きてても奪って、死んでからも奪うのね。……おまえは」
冷たい雨が頬を撫でる。高い空を望む深緑の瞳のうちには、ただならぬ決意が宿っていた。
「支さん、あなたはまだ分かっていません。あのぐうたらぽやぽや自制心ゼロの歩くゴジラがいかに制御不能か」
フラムは目の前のパフェをもりもり片付けながらぷりぷりと怒るという器用な真似を行っていた。
支はコーヒーで唇を湿らせながら、たいていの女性は甘いものが好きというのは本当なのだなと益体もないことを考えていた。
「ゴジラは歩くんじゃないかな」
「そういうことではないのです!平気で何処でも煙草をぷかぷかやる!どんな時間でも酒を飲む!
この街にやってきてふらりといなくなったと慌てたら何をしていたと思いますか!
あのじゃらじゃらと雷鳴もかくやという騒音を発する遊興施設で遊戯に耽っているんですよ!
初日ですよ初日!なにが『わぁいお菓子もらえた!フラムちゃんにあーげるっ♡』ですか!
日本は困った国です!あの飢えたシロナガスクジラには誘惑が多すぎます!
…まあ基本的にどの国でも似たようなことをするのですが!
あああ思い出しただけで腹が立ってきました!あの××××頭あーぱー芸術家気取りめぇ…!」
聖職者なら口にしてはいけない汚い罵倒が混じっていた気がするが、聞き流す勇気が支にはあった。
「よくまあ、あれだけの暴力の世話を焼けるね。ナナさんとは長いの?」
どうもこれ以上は良くない。何かこう、噴出してはいけないものが噴出する気がする。
話題を支流へとズラすと、フラムはふむと呟いた。
「それはニ、三年を長いかどうか考えることになりますね。。
なんせナナ様はあのような方ですから私以外は長続きしなかったんです。
今のところは私が最長記録ということになりますから、比較的では長いのではないでしょうか」
なるほど、と支は相槌を打った。
納得は出来る。ナナは騎士どころか人間としても破天荒の類だ。
まるで都会に馴染んだ野生の生き物のような、適応しているのに異質という矛盾が彼女にはあった。
あ、でも、とフラムがパフェの中の白玉を匙で掬いながら言った。
「あんな方ですが、聖堂教会では最も誉れ高き聖堂騎士としてきちんと称えられているんですよ」
「…悪いけれどいまいち信じがたい話だ。素人目に見ても素行不良の女性なのに」
「確かに振る舞いについては敬虔な信徒失格というのは大いに賛同しますが…」
あはは、と苦笑いを浮かべたフラムだったが、次に浮かべた微笑みはそれとはまた違うものだった。
「あの方はどのような戦場であっても真っ先に先陣を切り、最も遅く戦場から帰るからです」
「…」
「性格が違うものなので優劣をつけられるわけではないのですが…。
代行者の聖務と違い、聖堂騎士の戦場とは基本的に“手遅れ”です。
既に状況は最悪のケースへと至ってしまったもの。死徒によって地獄に変えられてしまった地が彼らの戦場です。
主の光を再びその地へと取り戻すため、多数の聖堂騎士が投入され、殉教者は少なくありません。
その死地へナナ様は最も早く討ち入り、最も多くの死徒を滅し、殉教者の遺体が収容されるまで最も長く戦場に留まり続ける。
故に多くの信徒から敬意を集め、あれぞ主の威光が似姿、『虹霓騎士』と謳われているのです」
───口調には僅かながら熱が籠もっていた。
支は少し考えて言葉を選んだ後、確かめるように言った。
「そうか。君は───彼女のことを尊敬しているんだな」
「…普段の自由きままぶりは反省して欲しいと常々思ってはいますが…」
ことりとスプーンを置いて、フラムははにかむような笑顔で支の顔を見た。
「はい。あの方ほど貴き方はいらっしゃらないと、そう信じています」
───そう言って、ナナは無造作に投げてあったホースをむんずと掴んだ。
このグラウンドは少年野球チームが練習場に使っているから彼らが使用しているものだろう。
蛇口をひねり、Yシャツ姿のまま勢いよく吹き出た水を頭から被る。すぐそばの街灯の明かりがその様子を映し出していた。
どす黒い血で赤く染まっていた髪が、月の光を漉いたような銀色へと元通りになっていく。
まるで野生動物の水浴びのような、繕うことのない荒々しい美しさがそこにはあった。
支はベンチに腰掛けさせられたまま、腕の傷口に包帯を巻いているフラムに話しかけた。
「僕よりも、彼女の治療を優先したほうがいいんじゃないか」
「大丈夫です。たぶん全部返り血ですから。あの人物凄く頑丈で、例えるならサイボーグなんです」
「おーい聞こえてるよシスター・フラム~」
「ええ、聞こえるように言いました」
服を着たままじゃぶじゃぶと水を浴びるナナへきっぱりと告げ、フラムはぱちんと包帯をカットした。
「あまり大きな傷口ではありませんが咎めないとも限りません。
間接的とはいえ不浄なる屍から受けた傷ですし。どうか用心なさってください」
「ありがとう。恩に着るよ」
いえ、と淡白に返事したフラムは先日見かけたものよりコンパクトなトランクケースに応急キットを仕舞っていく。
と、そこで公園の夜闇にキュッと金属の擦れる音が響いた。蛇口が閉められた音だった。
「フラムちゃん、タオルちょーだい」
「はいはい」
トランクケースから取り出されたタオルを受け取ってナナが髪を拭う。
まだ湿っていたがタオルでは乾ききらないと判断したのか、途中で切り上げて支の方を向いた。
「ま、これで分かったでしょ?下手に首を突っ込むとサクッと死んじゃうぞ~?」
「でも、僕は───」
「でももへったくれもあるもんかい。だいたい今だってアタシたちが来なきゃ死んでたじゃないの。
これは『常識外(アタシたち)』のお話。キミは『常識(あっち)』の人。住む世界が違うんだよ。
あのお姫様の居場所を教えろとまでは言わないからさ。悪いこと言わないからやめとき?」
ナナの口調はあくまで脳天気な調子だったが、表情は真面目にこちらを案ずる真剣なものだった。
………そう。
ミナも側におらず、たまたま彼らが“運良く”通り過ぎなければ支は死んでいただろう。
彼らは悪い人たちではない。
彼らは秩序の調停者だ。魔を滅すると同時に市井の人々を闇へと立ち入らせないものでもある。
支の理屈を納得してもらうのは難しいだろう。
唇を引き結んだ支の横で、「ところで」と唐突にフラムが声を上げた。
「いつ切り出すか迷っていたのですが。───服、思い切り透けていますよ」
へっ、と間抜けに呟いたナナが身体を見下ろす。つられて支も視線が下にいった。
血がだいぶ流されてところどころ薄ピンク色に染まっているYシャツは、水を吸ってぴったりとナナの肌に張り付いていた。
彼女の均整のとれた肢体がこれでもかと強調されている。綺麗にくびれた腰、大きすぎない程度に大きい程よい乳房。
街灯の頼りない照明でさえ、みずみずしい褐色の肌が透けて見えるようだった。
ネクタイを外して胸元を開いていたので胸の谷間さえ顕になっている。生地に浮き出ている細かい凹凸は下着のものか。
Yシャツの色合いが変わっていないから、色はおそらく“白”───!
「───ぎゃあああああ!フラム!上着、上着!支クン、みっ、見ないでぇ!」
瞬間沸騰したナナが胸元やお腹を腕で隠し、人間に気づいた動物みたいな俊敏さで街灯の明かり届かぬ暗闇へと逃げた。
「♪London bridge is falling down,falling down, falling down───」
快活な歌声が響いてくる先へ振り返ったミナは走りつつも力を込めて手を振った。
肩から肘へ、肘から指先へ、滝のように怒涛の勢いで駆ける魔力の奔流。
指先から溢れて物質界に働きかけたそれは瞬時に数匹の蝙蝠へと転じた。
生き物のように宙を飛び、爆弾のように炸裂する。まともに当たれば容易く肉を引き千切るだろう。
「♪London bridge is falling down,My fair lady───」
対して、追跡者は回避行動を全く取らなかった。
靴底に鋼が仕込んである靴の独特の足音が止まらない。
スピードを落とさないまま、眼前へ急接近した蝙蝠をまるで虫でも叩くように裏拳でぺちぺちと落としていく。
だがそこまではミナも予想範囲内だ。本命は蝙蝠の仕込みにあった。
追跡者が最後の蝙蝠を叩き落とした瞬間、ぱちんと泡のように弾けた蝙蝠が分裂し、魔力塊となって顔面へと迫る。
直撃すればその頭部は吹き飛ばされ、首なしの肉体がずるりと崩れ落ちる───
「嘘でしょう」
さすがにミナもつい呟いてしまった。
あろうことか、追跡者は魔力塊を『噛み砕いた』のだ。
同じ死徒なんじゃないかと疑ってしまう。少なくともまともじゃない。
「ねーねー、追いかけっこはそろそろやめにしよーよー。…っとぉ!」
すると追跡者は傍らにたまたま置かれていたゴミ集積用の鋼鉄のコンテナを、まるでプラスチックのバケツを担ぎ上げるような気軽さでひょいと持ち上げて───
───旋風。衝撃。轟音。
直線の軌道ですっ飛んできて、ミナの前の地面へとコンテナは突き刺さったのだ。
進行方向を塞がれ、ミナは立ち止まった。…ミナ自身は経験が無くとも、貴種たる肉体が感じ取っていた。
これを横に躱す。あるいは飛び越える。いずれの選択もその僅かな一呼吸が致命的になると。
すたすたと大股歩きで寄ってきた追跡者へ、ミナは表情変えること無く静かに言う。
「貴女、強いのね」
「そりゃこれでも騎士やってるからね~。や、しかし好都合ね。
こんなところで件のお姫様を討てるんだから。これは思ったより今回の仕事、早く片付くかな?」
そんなふうに言ってにこにこ笑う女はなんとも朗らかだ。
月光に濡れた銀の髪、コントラストになって映えている褐色の肌。とにかく人懐こそうな笑顔で、殺意のようなものは感じられない。
(でも───………)
分かる。アレはそんなものなどなくとも討つべき相手をシンプルに討ち果たす機構だ。
その片腕に仰々しく装備された、円錐形をふんだんに用いられた優美なフォルムの巨大な杭打ちを突き立てるのに何の躊躇いも無いだろう。
「それじゃてきぱき終わらせましょうか。ま、その不浄の魂にも救いがあるなら、きっと滅んだ後に───」
「──────待てっっ!!」
どうこの状況を切り抜けたものか、とりあえずミナが身構えたところにその声は朗々と響いた。
ここ最近、すっかりよく聞くようになった声。当人に対する感情はさておき、目の前の襲撃者よりは親しみが持てた。
騎士の背後。自分やこの騎士なら一息で辿り着けそうな距離にひとりの男の子が立っている。
逆光になっていて表情は伺い知れなかったが、ミナが嫌いではないあの力強い眼差しが注がれているのは確信できた。
驚くべきことは突然の闖入者だけでは無かった。追跡者までもがこちらに背を向けくるりと振り向いたのだ。
「…君かぁ」
ぽつりと呟かれた言葉には、なんというか、『こんなところで会いたくなかったなぁ』という気色がはっきりと滲んでいた。
シスター・フラムはようやく訊ねた。
「で、どうだったのですか?」
「ルシアちゃんのこと? 駄目だったよ。連れ去られたのが二週間も前ではね。食屍鬼にならないよう処置するのがアタシに出来る関の山」
空港の外れ。まばらに人が道を行き交うのを眺めながら、ナナは紫煙を青空へ向けて吐き出した。
こじんまりとした喫煙スペースに相席しながらフラムは隣で煙草を吸うナナをちらりと見遣る。表情に目立った憂いなどは見受けられない。
聞いたのはどちらかといえばターゲットとなっていた死徒のことだったのだが、ナナからすればそちらは問題にもならないらしい。
実際、彼女にとっては大したことではなかったのだろう。先行したナナは後続の聖堂騎士たちを待つまでもなくあっさりと死徒を討ってしまっていたという話だった。
フラムは時々このナナという信徒が遠い存在に見える。
正式外典コルネリオに選ばれた、聖堂教会屈指のドラクルアンカー。その実力、埋葬機関にも引けを取らないと謳われる『白光の織り手』。『虹霓騎士』。
二つ名なんて挙げればキリが無い。死徒の撃破数はレコード持ち。文句なしに聖堂騎士の中で最強の存在だろう。
それでも───それでも、救えないものはある。
死者を生者として今を生きる生者の元へは返してやれないように。
立ち行かぬことをひっくり返すことなど、この聖堂騎士にも出来はしない。
「残念だよ。とてもね」
「………あなたでも救えなかったものを惜しむ気持ちは持ち合わせているのですね」
「あのね。シスター・フラムはアタシのことを何だと思ってるのかな?
ひょっとしたら、何かの間違いでここに来るのが二週間早ければその子を助けられたかもしれない。そんな妄想くらいアタシだってするわよ。
でもね。ニンゲンがニンゲンを救うなんて、そんな思い込みは本来は烏滸がましい行いなんだ」
ナナが指に挟んでいた煙草を静かに咥えた。すう、と吸われることで煙草の先端がめりめりと燃え尽きていく。
漂っていく煙の筋は、いつかアーカイブで見た東洋の儀式における送り火のそれと重なって見えた。
「誰かを救うということは、誰かを救わないということ。
この二週間が仮に前倒しされていたら、その前借りされた二週間によって平穏無事にあったはずの誰かが失われていたことでしょう。
正しきものも、間違っているものも、それら全ての衆中を救うなんてそんな大業を成し遂げなさるのは我らが主のみの御業よ。
誰かを救おうとそう志した時点で誰かを救わないという不誠実が発生しているのがアタシたちの宿業なの。特に、アタシみたいに半端に力を持ったヤツはね。
だから。人が救えるのはただひとり。自分自身だけよ。彼は自分自身を救うためにアタシを輪の中に招き入れた。
アタシはその輪の中で全力を尽くした。後にその結果が残っただけ。それだけのことなのよ」
淡々と、まるで遠い昔に心へ刻んだ言葉を復唱するかのように綴られたナナの言葉をフラムはただじっと黙って聞いた。
ナンシー・ディッセンバー。聖堂騎士にして、その出生の過去を誰も知らない名無しのナナ。
まるで自分をただ力を振るうための装置のように規定するに至るまで、どのような道筋があったのだろう。
フラムには分からない。分からないので、ナナの言葉を額面通り受け取ることにした。
「………では、私も私自身を救ってよろしいでしょうか」
「うん? え、いいじゃないの? 唐突でびっくりしたけど」
「分かりました。では」
フラムは修道服の内側に忍ばせてある十字架を片手で押さえ、開いている手で十字を切った。
「アーメン」
「………」
その祈りの聖句が何に向けてのものなのか。
あるいは、誰に向けてのものだったのか。
ナナは問わなかった。代わりに、その僅かな鎮魂の時間に付き合ってくれた。
さて、と彼女が再び言葉を発したのは、フラムが伏せた瞳が開かれるのとまったく同じタイミングだった。
「次の任地はどこだったっけ? シスター・フラム」
「日本の地方都市ですね。シティ・ヨルミだとかいう。
今回は少数精鋭とのことで、聖堂騎士団から派遣されるのは我々を含めごく僅かです。代わりに代行者のお歴々が向かわれると」
「うぇ~、アイツらか~。やりにくいな、アタシのことあんまり好きじゃないみたいなんだよね~」
「それはそうでしょう。聖堂騎士でありながら代行者のように単独で振る舞われるナナ様を快く思われる代行者の方々などそうはいないのでは?」
「………前から思ってたけど、フラムちゃんはアタシに対して結構辛辣だよねぇ」
「敬ってもらいたいなら敬われるような行いをしてからにしてください、騎士ディッセンバー」
意図的に冷たくそう告げ、フラムは喫煙時間は終わりだとばかりに空港の発着口へとすたすたと歩き出す。
待ってよ~、と情けない声が背中にかかるが、煙草の吸い残しを惜しむナナのことなど気にかけるつもりは微塵もフラムには無かったのだった。
「………それに、俺はこの街がなんだかんだで好きだ。
アンタみたいなよその人からすりゃなんにも無いところかもしれないけれど、それでも俺の故郷だ。
父さんは街一番の漁師で色んな店に魚を届けてるし、母さんは誰よりも料理が上手い。近所はみんないい人たちだし、綺麗な海や野原だってある。
ちょっと騒ぎが起きたくらいで見捨てて逃げ出すなんて気に入らないじゃないか。
あと、な………」
「………」
「俺の………幼馴染が、ルシアも行方不明になってるんだ………。きっと見つかると信じて俺は待っていてやりたいんだ。
畜生、俺にもっと力があったらな。凄く強ければ犯人を捕まえてやるし、金持ちならたくさん金を警察にやってみんなを守ってもらいたい。
でも警察だってここより行方不明の人間が多い隣町の方で躍起になってるし、田舎のここにまで全力を尽くしちゃくれないんだ………」
「………ふぅん、そっかぁ」
少年の心の奥底から出たような言葉に一度深く頷いた女はやおら席から立ち上がった。
釣り銭取っておいて、と店主に言って紙幣を机の上に重ねて置いた女は、まだ座ったままの少年に向かって最後の問いをした。
後になって少年は回想する。───その時の女の微笑み。凪いでいるけれど決して揺るがないそれ。
既視感を覚えた先は、この街の教会に据えられている聖マリア像のそれだった。
「もし。もしだよ? 万が一にも、悪いことをしてるやつかやつらをやっつけられる人がいて………。キミならその人になんて言う?」
「そんなの決まってるじゃないか」
きっぱりと少年は言った。
「───助けて! 俺に出来ることならなんだってするから! ………って。そう言うに決まってる」
それは素面のその少年なら恥ずかしくて誰にも言えない台詞だったかもしれない。
けれどごく当たり前にこの街を愛し、ごく当たり前に仄かに想いを寄せている幼馴染の無事を祈っている少年の口からは、自然と臆面なく零れ出た言葉だった。
その無垢な言葉は、そしてそう───何故か、その女にはそう言っておかなければならない気がしたのだ。
瞬間、その女はにっこりと破顔した。
スペインの熱い太陽にも負けない、きらきらと輝く陽の気の笑顔だった。
「よし、承った! 後はこのナナにお任せあれ!」
それじゃ用意があるから、じゃーねー、と女はつむじ風のように店から出ていってしまう。
後に残されたのはぽかんとする店員と、ぽかんとする他の客と、ぽかんとする少年だけだった。
女が少年に奢ったレモネードの氷はとっくに溶けきって、グラスはびっしりと汗をかいていた。
「なあ、あんた。悪いこと言わないから早めにここ出ていった方がいいよ」
机を挟んで対面に座った少年の忠告に対し、その褐色肌の麗人は大きな目をぱちぱちと瞬かせた。
綺麗な目だ。ダークレッドとも言うべきか、赤の発色を伴った黒い瞳。
顔立ちは垢抜けた女性のそれだったが、その目だけはまるで子供みたい。昏さが無くて稚気できらきらと光っている。
濃い二十代を経た三十代にも見えるし、まだまだ好奇心旺盛な十代にも見える。不思議な女だ。
「なんでよ。ここには来たばっかりだっていうのに。
あ、それともちょっと目立ちすぎてる? いや~、お腹ペコペコでさぁ。キミにここへ連れてきてもらえなかったら参ってたわよ」
そういう問題じゃなくてさぁ、と呟きつつもまだローティーンほどの少年は机の上へちらりと視線をやった。
もうお祭り状態だった。宝石箱の中身をぶちまけたように多種多様な料理の皿が所狭しと占拠している。
そのどれもが半ば食べ尽くされ、残りもこの女の腹の中に収まるのは時間の問題みたいだ。
よく食う女だし、美味そうに食う女だ。店員やちらほらといる客からもじろじろと好奇の視線が女に注がれていた。
ここはこのあたりで一番大きな街から半日もバスの中で揺られなければ辿り着けないスペインのド田舎だから、余所者は珍しいのだ。
だが少年が逗留を勧めない理由は何もこの街の排他的性質から来るものというわけでは無かった。
少年はつい声を潜めた。既にこの気味の悪い話題は日常においてはタブー視されるようになって久しい。
「あんた知らないの? ここ最近はさ。このあたりで失踪事件がいくつも起こっているんだ」
「………」
ふんふんと女が頷く。それに合わせて豊かな銀の髪がぴかぴかと蛍光灯を反射して光っていた。
聞いている間もフォークとスプーンの動きは止まらない。まるでダンスでも踊っているみたいだ。
小気味いい食べっぷりでみるみるうちに皿の上のものが片付いていく。真面目に聞いているのか怪しくなるくらいに。少年はやや嘆息した。
「何人もいなくなっているんだよ。隣町なんかじゃさ、集団失踪事件なんて発生したりしててさ。
他にもみんな怖がって話しないけど、路地裏で物凄い量の血がぶち撒けられていたとか………とにかく気持ち悪い噂や事件ばっかり続いてるんだ。
すっかり夜は誰も出歩かなくなって、街の人たちも元気がないんだ」
「そうなんだ。それは怖いわね」
口ではそう言うがさほど怯えた様子もなく、女は淡々と肉料理を口の中に放り込んでいった。
少年は段々とこの女の怪しさに首を傾げつつある。奇妙な女なのだ。
大して目新しいものも無い、埃っぽい田舎町のここでは旅行客自体が珍しい。しかし、女の格好は旅行客というふうでもない。
上から下までフォーマルなパンツスーツに身を包んでいる。まるでばりばり仕事を手掛けている新進気鋭のビジネスウーマンみたい。
綺麗な女だが、棒きれみたいに細いネクタイも無地で、全体的に飾り気が無い。せいぜい耳のピアスくらいだ。
トランクひとつ手に提げてバスから降りてきた女と少年が出会ったのはまったくの偶然だった。たまたま女が道を訪ねてきたのだ。
あの人懐こそうな、それでいて今から悪戯を仕掛けようとする子供のような、そんな人好きのする明るさで。
「今更だけどさ。あんた何者なの? こんな田舎に何の用で来たの?」
「アタシ? ああ、アタシはこういう者なのよ」
そう言って女は襟に指を突っ込んで首元を探ると、ネックレスを取り出した。
銀の十字架。女自身の飾り気の無さとは違い、華美にならない程度に細やかな彫金を施された高価なものと素人目にも見て取れた。
スーツからは連想しにくい意外な職種だが、それを見せられれば少年でもある程度は察しが付く。
「なに。あんた教会の人? ヌーノ爺さんに会いに来たの?」
「そそ、そんなところ。新しく赴任しに来たってわけじゃないんだけどね~。ちょっと御用があって、ね」
「ふぅん。こんな時に災難だね」
「そうでもないわ。よくあることだし。慣れっこ慣れっこ」
またよく分からないことを言う。気づけば料理は粗方片付いてしまっていて、女はグラスの中のワインをきゅっと飲み干している。
いよいよ満腹だい、ごちそうさまと太平楽に唱えた女は、ふと少年の方をちらりと見つめてこんなことを聞いてきた。
「………それにしても、なんとも出鱈目なことになってるのね。
この街から離れたいと思わない?キミは怖くないの?次に攫われるのは自分だとか、考えたりしない?」
「そりゃ怖いよ。怖いけど………うちもまわりも、ここらへんはそう裕福じゃないし年寄りばっかりだ。
怖いからって引っ越すなんて出来るやつはそんなに多くないよ。それに………」
少年はそこで一度言葉を切り、視線を手元へと反らした。
少年を見つめる女の視線が、あんまりにも真っ直ぐ過ぎたから。湖の一番深いところまで見通そうとするような、穏やかだけれど鋭い視線だった。
けれど一度逸らした目を再度戻し、はっきりと女を見つめて言った。
「ナナ様は!? ナナ様がどちらに行かれたかご存知ありませんか!?」
空港付近にある教会にシスター・フラムの焦燥感が滲む声が響き渡った。
まったく迂闊だった。昨日の晩は大好きな酒もやらずに大人しく床についていたから油断したのだ。
修道服姿の少女に詰め寄られた現地の司祭は額に汗をかきながら、「さ、さあ」とどもることしか出来ない。
「朝まではこちらにいらっしゃったのを見かけましたが、それからは………」
「朝!? 朝というと具体的にはいつ頃のことでしょうか!?」
「礼拝の時間です。準備を始めた頃にふらりとお外へお出かけになりましたな」
それを聞いたフラムはくらりと目眩がしてその場に崩れ落ちそうになった。
早朝! そんな時間に出ていったのでは、今頃何処を気まぐれにほっつき歩いているか見当もつかない!
あの女の頭の中に物怖じという言葉はない。知らない街だろうがずんがずんがと進んでいってしまう人なのだ。
あるいは誰にも知らせずに既に現地入りしているなんてことも十分あり得る。
数で対象を囲み圧倒するというのが聖堂騎士の基本戦術だが、ナナはその範疇に収まらない例外的存在なのだから。
ふと目を離した隙にいなくなって、明くる日にふらりと帰ってきて「終わったよ~」なんて何度あったか知れない。
そんな規格外に付き合う自分の身にもなってほしい。フラムは実にまっとうなごく普通の信徒なのだ。本人比では。
「あ………あんの、脳みそ無重力のスーパー××××自由人めぇぇぇっ!」
敬虔な信徒が発した言葉とは思い難い小汚い悪態が静かな教会内部に木霊した。
いかにも気弱そうな初老の司祭は肩を怒らせるシスターを前にしてただおろおろするのみだった。
「まず、君は何で女性の姿で現界したんだ?」
俺は精一杯平静を保ちながら、俺が召喚したライダーに対して質問する。
するとライダーは、俺の聖杯戦争の目的も知らず、気楽に答えた。
「うーん、ごめんなさい。ちょっと分からないんです」
「でも、こうなったからには、この状況を楽しみたいです!なるようになれ、ですね!」
「ふざけているのか…!」
俺はつい、隠さない本音を口にしてしまった。いつもの"完璧"ではない、本当の俺を
流石に気の抜けたライダーも、俺が豹変したかのように見えたのか、恐怖の表情を見せていた。
「ご、ごめんなさい……。で、でも私、精一杯に頑張りますから……」
「ああ……いや、すまない。こっちも、怖がらせるつもりはなかったんだ、俺は……」
と、謝りそうになって俺は正気に返る。何で俺は使い魔相手に、人間を相手取るように取り繕っているんだ?
相手は亡霊だ。もう死んでいる存在を再現した戦いの道具だろう。そんな奴相手に……と考えたその時、ライダーが呟いた。
「こんな事を言うのもなんですけど…少し、嬉しいです。マスターが、そう言ってくれて」
「……何だと?」
何を言っているんだこいつは。状況を分かっているのか?俺はお前を脅迫するように問い詰めたんだぞ?
普通は信頼関係が揺らぐはずだ。所詮は聖杯を求めるという薄っぺらい利害関係しかない俺たちでしかない
その上下関係で上に立つ俺が、完璧じゃない部分を見せたんだ。それを"嬉しい"だと?どういう腹づもりだ?
「だってマスター…いっつもどこか本音を隠しているようで、なんか寂しかったんです。
でも、今やっと初めて、何も隠さず喋ってくれた気がして、嬉しかったんです」
「………」
動物の勘、という奴か。誰かに喋られでもしたら厄介だ……。自害でもさせれば新しい英霊を呼び出せるか?
…いや、再召喚できる保証はないか。それに、こいつは底抜けの馬鹿だ。誰かに算段で喋るような事はしないだろう。
「なるようになれ、か……。ウマが合わんな、君とは」
「あ、今の馬とかけたんですか!?かけたんですね!?」
「五月蠅い黙って寝ろ。明日も早いんだから」
────そう言って、七砂和也は眠りにつく。"なるようになれ"。その言葉こそが自らを救う鍵になる事に、気付かないまま
陣を描き、魔力を奔らせ、詠唱を紡ぐ。俺は英霊を召喚する。
「初めまして。早速で悪いが、僕は君のマスターだ。君とは公平で対等な関係でいられたらと思っている」
もちろん、嘘だ。英霊なんてものは信用できない。大昔に何人も殺し続けたような奴らだろうからな。
文化人ならある程度は話が通じるかもしれないが、戦闘第一な獣みたいな英霊はよしてくれと願い語りかける。
「…………」
煙が晴れて、俺は絶句した。馬だ。馬がいるんだ。しかも3匹。
騎馬兵の英霊か?と思ったが、違う。騎馬に乗っているべき英霊がいないんだ!
呆然とした次の瞬間、俺の目の前に立っていたのは3匹の馬じゃなかった。1人の女だった。
「初めまして!私はライダー!真名は……っと、名乗るとまずいかな?じゃあ、とりあえず三音さられって呼んで!
貴方が私の騎手(ジョッキー)?あ、間違えた。マスター? もしそうなら、よろしくね!」
どういう……ことだ……。戸惑う俺は目の前の自称ライダーに尋ねる。お前は何ができる?と
「お前がどんな英霊か知らないが、何か出来る事の1つ2つ、あるだろう?」
「? あ、歌を歌えます!新曲もあります!」
俺は胃が痛くなった。