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「イルカも喋る」は大ウソ【言語学って何?】#1
言語学ってなに?
言語学は言葉とは何かを学ぶ学問だ。
だがイタリア語とかドイツ語とか、個別の言語にそれほど関心があるわけではない。
だから、言語学をやっているからと言って色んな言語が喋れるわけではない。
それら全言語に共通する特徴を研究するものなのである。
「え?そんなもんないでしょ?」と直感的に思う人がほとんどだろう。確かに、それは間違いではない。
でも、つまらないわけではない。その当たり前には奇跡がある。
何の役に立たつものでもないが、面白い学問なのである。
少し、「言語学の祖」や「近代言語学の父」と呼ばれるソシュールの話に触れてみよう。
単語ってすごい
単語は差異でしか決まらない?
漢検の勉強をしていると、馬へんの漢字がやたら多く出てくる。「騩(薄い黒色の馬)」「駿(速い馬)」「騮(赤毛で尾が黒い馬)」。
こんなに馬に関する漢字が必要なのか疑問に思うところだが、
かつて中国にたくさんの馬がいたことを考えると、それらを区別するために単語が作られたのだと合点がいく。
我々からすれば「馬」だけで十分だから、馬へんの漢字は日常ではそう見かけないのだ。
フランス語にも似た例がある。この言語は「蝶」も「蛾」も、区別することなく「パピヨン(papollon)」なのだ。
逆に英語では「ワニ」を「クロコダイル」と「アリゲーター」で区別している。
これらはつまり、各言語が都合の良し悪しに合わせて分け方を設定していることになる。
区別しないと都合が悪いからその単語が存在しているのであり、そうでなければその単語は不要なのだ。
単語が生まれるのはそういう経緯があるとソシュールは言っているのだ。
音と意味は無関係に結びついている?
「文」を分解すると「文節」になり、さらに分解すると「単語」になる。
この「単語」をまたさらに分解すると「音」になるのだ。
「文」「文節」はある規則(文法)に沿って「単語」を並べてできるものだ。
だが、「単語」は「音」がある規則に沿って並べられているものではない。
もし犬を「いぬ」と呼ぶ道理があるなら、英語でも「いぬ」と発音するはずなのに、実際は「ドッグ」だ。
つまり、音と意味はバラバラなのだ。この音と意味の結びつきの無さを、ソシュールは「恣意性」と呼んでいる。
言語が複数あるのは、この恣意性によるものなのだ。
この恣意性がなければ、宇宙人みたいな未知に遭遇にしても、その未知に単語を与えられなくなる。
これが分かると、動物と人間の言語の違いも分かるようになる。
動物の言語には「単語」が存在しない?
サルはヘビを見つけると、鳴いて仲間に知らせることが知られている。このことからサルはサルの言語があると言う人がいる。
同じ理屈で、イルカやコウモリも超音波でコミュニケーションを取っており、それぞれの言語があると言う人がいる。
言い回しとしては成立するかもしれないが、言語学的に言えば人間のものとは全く違うものなのだ。
その違いが、先ほどの「単語」の有無である。
動物だと「後ろが危ない!」と「前が危ない!」とで、「危ない!」が共通するにもかかわらず、少しでも意味が分かると、鳴き声が全く別になる。つまり概念と鳴き声が一対一対応しているのだ。
これが人間と動物の圧倒的な差、「単語があるか」ということなのである。
これは単語を組み合わせて、脳の容量を効率よく使えるということでもある。
ほんの少しでも意味が変わると、鳴き声が大きく変わるということは、もし人間と同じくらい器用に話そうとすると、それだけで覚えなければならない鳴き声の数が爆増することになる。
オーダーメイドの自動車より、量産型の自動車の方が安上がりなのは、各部品を使いまわしているからなのと同じように。
最後に
とにかく、今回の言いたいことは「単語は凄い!」ということだ。
他にも、「自分が体験していないことも語れる」「言葉があって初めて物がある」など単語の凄さはまだまだあるが、今回はここまで。
ソシュールについても今後触れていくので、お楽しみに。---]