登り棒
2024/12/25 (水) 09:05:54
daf7a@d0d94
主客一如の体験は素晴らしい事ですね。でもそれが=悟りとはならないと思います。
それによって無我を理解したならば主客一如に固執する我は生まれませんね。
空という概念の理解を空っぽとか、何もないという答えになるのは致し方ないのか、とも思います。
主客一如は主体と客体の区別のなくなる一体化であり、唯識でも言われる見分はあれど相分はないの部分に関わってきます。
何の理解もないままその体験をしたならば、その相分はない、というのを存在しないと感じてしまうでしょう。
そうなると空の理解が空っぽとか、何も無いという理解になります。
それはつまり縁起が関係ないと言う理由にもなります。
この体験だけでは無常や縁起の理解はないですから。勿論完全にないとは言いません。
でも縁起を知らぬまま根本的な解決には至りません。
実体はなくても生じているんです。それの理解が足りぬままでは主客一如に固執する我には気付かないでしょう。
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