Depth Ⅱ 接続路204
「深澤恒一は、もうこの都市にいない」
その言葉が意味を持つまで、数秒かかった。
深海の中で、ひとつだけ言葉が浮いている。どこにも沈まず、回収される前の音みたいに宙に留まり続けていた。気づいたときには、彼女はもう接続路204の縁に立っていた。
「何してるの!?」
「何って……行くしかないじゃないっすか」
「行くって、どこに」
「決まってるでしょ」
そう言って、彼女は僕の腰から端末をひったくり、画面を突き出す。
"《NEREUS-Δ》。そこしかない。"
短い一文。疑問も補足もない。
「……これを、信じるのか」
「信じる信じないの話じゃないっすよ。書いてあることが全部っす」
「全部って」
「全部」
即答だった。
僕は端末を受け取り、息を詰める。《NEREUS-Δ》。
海底都市。この都市のさらに下、深海に沈んだ、深澤恒一の名と切り離せない場所。
「……あそこは、簡単に行ける場所じゃない」
「知ってます」
「なら」
「でも、そこしかないんでしょ?」
その瞬間、エコーロケーションが暴発した。
音が脳内で弾け、反射が一気に展開される。構造、距離、遮蔽物。そして、《NEREUS-Δ》へと続く経路。
無理やり引き出された、一本の道。
「っ……!」
反射的に、僕は彼女の腕を掴んで引き戻した。直後、背後を電車が唸りを上げて通過する。
「……あざっす」
軽い声。
その軽さが、逆に怖かった。
「……止まったね」
電車は接続路204に停車していた。ドアが開く。
彼女は迷いなく乗り込む。
「ちょっと待って!」
「何してるんですか。早く」
「まだ決めてない」
「もう決まってますよ」
「誰が」
「世界が」
僕は、何も言えなくなる。
ドアが閉まる。光が、もう一段、薄くなった。
「どこで降りるんです?」
「未接続区画Nだ」
「なるほど。じゃ、だいぶ先ですね」
「……怖くないのか」
「怖いっすよ。でも」
「でも?」
「行かない方が、もっと怖い」
彼女は、何でもないことのように言った。
「ねぇ、渚くん。《NEREUS-Δ》の象徴、知ってます?」
「鯨だろ」
「即答。つまんない」
「で?」
「で、あの鯨はただの象徴じゃないんすよ。深澤恒一の意思の残り香、みたいなもんだって」
「意思、ね」
「だから深海では、道が勝手に決まる。人も、出来事も、選択も」
「随分、断定的だ」
「恒一のログなんて、全部そうじゃないっすか」
その言葉が、妙に引っかかった。
「……前に行ったことがあるって言ってたね」
「え? ああ。《NEREUS-Δ》っすか。一回だけ」
「どうだった」
「静かでした。うるさいくらい、静か」
電車が、深く沈むような音を立てる。
「暗くなってきましたね」
「前は、こんなじゃなかった?」
「なかったっす。だから、今はちょっと楽しみ」
「楽しみ?」
「未知って、嫌いじゃないんで」
電車が減速する。
「……着いたみたいだね」
「そっすね。あ、ちなみに」
「何」
「無視される側の気持ち、たまには考えてください。結構きついっす」
僕らは電車を降りた。
「知らないよ」
そう言いながら、僕は思った。
この子なら、この沈んだ世界に、光を持ち込めるかもしれない。
駅を出ると、道は二つに分かれていた。
「こっちっす」
迷いのない指差し。僕は、それに従う。
やがて、吊り看板が現れる。
未接続区画N。
その文字を認識した瞬間、端末が短く鳴った。
ピピッ。
Depth Ⅲ 未接続区画N
「なんか鳴りましたよ。見してください」
僕は無言で端末を差し出す。やはり、彼女が先に喋り出す。
「“私は接続歩道S端に――”って書いてあります」
「そうか」
「なんで、最後までないんすか」
「首席なのに分からないの?」
煽るつもりで言った。
彼女は一拍も置かず、はい、と返した。
あっさりしすぎていて、もしかしたら語尾に感嘆符が付いていたかもしれない。完全に、的外れだった。
「それは僕のエコーロケーション結果を視覚化する端末だから。僕のエコーロケーションにノイズが入ると、そうなる。それか、端末のバグかも……ねぇ、返してよ」
「やだ」
「子供じゃないんだから」
「私、渚くんより年下なんすよ。だから子供」
「だからって――」
「あと身長も。渚くん、180あるじゃないっすか。147.6の私からすれば巨人っすよ」
「小数点まで覚えてるなんて、気にしてるの?」
「うるさいっすね。ちょっと黙っててくださいよ。ピーーーーーーーーーーー(作者による自主規制)」
「ごめんって……ていうか、君が反応してって言ったんじゃ――」
僕は彼女に謝罪したが、受け取られない。
彼女の暴言は止まらない。国語分野満点(らしい)の語彙を、惜しみなく叩きつけてくる。
「おーい、お口チャックしましょうねー……おーい、灯さん? 聞いてる? 天羽灯さーん」
名前を呼ぶと、ようやく止まった。
何か言ってやろうと思ったが、先に彼女が口を開く。
「これから伸びるんすよ」
彼女が一歩進めば、僕も進む。
枝分かれした通路で、深海の奥で迷わないように。
「もう22なのに?」
「うるさい。渚くんも24なのに、まだ伸びてるじゃないっすか。私も伸びるんすよ。てか、渚くんもエコーロケーションしてくださいよ」
「やってる。でも、ずっとノイズが入ってる感じで、うまく読み取れない」
「へえ? まあ、私が分かるからいいっすけど」
彼女の歩幅に合わせて、後ろをついて行く。
やっぱり、エコーロケーションは使えない。この空間そのものが、歪んでいる気がした。
人影。
「いま――」
「はい、見ました」
「誰だろう」
「分からんすよ……でも、今、追うべきじゃない」
「なんで」
「感覚」
断定的だった。
根拠は示さないくせに、迷いがない。
深澤恒一といい、彼女といい、天才というのは皆こうなのだろうか。
……いや、それだと僕が彼女を天才だと認めたみたいで嫌だ。
彼女は、天才じゃない。天災だ。
そうこうしているうちに、この区画の終わりが見え始めた。
ピピッ。
Depth Ⅱ 接続路204 終 …… ᴛᴏ ʙᴇ ᴄᴏɴᴛɪɴᴜᴇᴅ