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ただの猫 2026/05/07 (木) 06:49:26

妄想ずりずりが激しい日本識者

武田信玄の死因は 鉄砲傷が 死因などと言い出す始末

武田信玄と織田信長の天下分け目の戦いで、織田信長は「鉄砲軍団」で 織田信長が火縄銃を 最初に戦場に採り入れた武将で 織田信長の戦力は3000丁の鉄砲軍団

対する 武田軍勢は 日本最強の「騎馬軍団」で 織田信長の鉄砲軍団により武田信玄が被弾 死亡したと妄想

見出し・・武田信玄は鉄砲で撃たれたのか?死因をめぐる通説のウソと真相とは?

 武田信玄の死は、戦国史最大級の「謎」の一つとして知られている。病死であったのか、それとも鉄砲で撃たれた傷が原因であったのか――。

 名将として名高い信玄でありながら、その死因は今なお判然としない。本稿では史料と伝承を手がかりに、信玄の死因をめぐる諸説を検証する。

信玄の死と「3年間秘せよ」の遺命―鉄砲で撃たれたのか
 武田信玄が志半ばにして信濃国駒場で亡くなったのは、元亀4年(1573)4月12日のことである。死を目前にした信玄は、「3年間、我が死を伏せよ」と命じたと伝えられる。この逸話は広く知られており、映画『影武者』では仲代達矢が信玄を演じ、その最期が印象的に描かれた。では、その死因は何であったのか。

 まず取り上げるべきは、「鉄砲による負傷」が死因となったとする説である。元亀4年(1573)1~2月、信玄は徳川家康と三河国の野田城付近で攻防を繰り広げていた。軍記物『松平記』によれば、信玄は笛の音に誘われて城に近づいた際、徳川方の鳥居三左衛門に狙撃されたとする説がある。

 また、野田城落城の際、逃亡した城兵が放った鉄砲の弾が信玄に命中したとする異説も伝えられているが、これらの説には大きな問題がある。信玄が鉄砲で撃たれた事実は、信頼できる一次史料には確認できず、それが死因であると裏付ける証拠も存在しない。したがって、これらは後世の伝承の域を出ないと考えられる。

有力視される病死説とその根拠
 一方で、有力視されているのが病死説である。信玄には侍医がおり、その書状によれば、信玄は「肺肝」に病を抱えていたと記されている。具体的な病名は不明だが、この記述が病死説の根拠とされている。さらに後世には、信玄が胃がんだったとする説も唱えられたが、確かな史料的裏付けがあるわけではない。

 信玄の死因をめぐっては、肖像も議論の対象となってきた。現存する肖像の中には、痩せた姿で描かれたものもあり、これをもって重病説を補強する見解もある。

 しかし、この点には慎重さが必要だろう。問題は肖像の成立時期であり、それが死の直前の信玄を描いたものなのかは不明である。したがって、肖像の印象のみから病状を断定することはできない。

当時の医療水準という限界―信玄の死因は解明できるのか
 さらに考慮すべきは、当時の医療水準である。戦国時代の医術は現代と比較して未発達であり、侍医の診断が現代医学の水準で正確であったとは限らない。「肺肝」に病があったという記述も、今日の医学的診断に基づくものではなく、症状の大まかな把握にとどまる可能性がある。

 以上のように、武田信玄の死因については、鉄砲による負傷説と病死説が存在するが、いずれも決定的な証拠を欠いている。確かな史料に裏付けられた結論はなく、その死因は依然として不明である。戦国最強とも称された名将の死因が特定できない事実は、何も信玄だけに限らない点に注意すべきだろう。

主要参考文献

柴辻俊六『甲斐武田一族』(新人物往来社、2005年)など。

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