三方が原の戦い
ある識者が「三方が原の戦い」について解説 しかし 肝心な「西上作戦(せいじょうさくせん)」とは何か? 説明してないの 全体の意味が通じてない
見出し・「三方ヶ原の戦い」とは? 家康が大敗した理由とその後【日本史事件録
はじめに-「三方ヶ原の戦い」とはどんな戦いだったのか
「三方ヶ原の戦い」とは? 家康が大敗した理由とその後【日本史事件録】
「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」は、元亀3年(1572)12月、遠江国(現在の静岡県西部)三方ヶ原(現在の静岡県浜松市)で、武田信玄と徳川家康が激突した戦いのことです。
戦国時代でも屈指の名将とされる武田信玄が、圧倒的な戦力と戦術で家康を打ち破ったこの合戦は、家康にとって生涯最大級の敗北として知られています。
しかしこの戦いは単なる敗北ではなく、のちの徳川政権へとつながる重要な経験でもありました。なぜ、この戦いは起こり、どのような結果をもたらしたのでしょうか。
この記事では、「三方ヶ原の戦い」について解説します。
「三方ヶ原の戦い」はなぜ起こったのか
三方ヶ原の戦いの背景には、武田信玄の「西上作戦」がありました。信玄は、室町幕府の将軍・足利義昭をめぐる政局の中で、京都へ進出する、いわゆる「上洛」を目指していました。元亀3年(1572)10月、信玄は約2万5000の大軍を率いて甲斐を出発し、信濃を経て遠江へ侵攻します。
その進軍は極めて順調で、徳川方の拠点であった二俣城などを次々に攻略し、やがて家康の本拠・浜松城に迫りました。
一方の家康は、織田信長と同盟関係にあり、信長からの援軍を得て迎え撃つ態勢を整えていました。しかし兵力では武田軍に大きく劣っており、本来であれば籠城して防戦するのが得策とされる状況でした。
ところが信玄は、あえて浜松城を攻めず、三方ヶ原へと進軍します。これは、堅固な城を攻めるよりも、野戦で決着をつける方が有利と判断したためでした。
こうして信玄の思惑どおり、家康は城を出て決戦に臨むこととなり、三方ヶ原の戦いが始まったのです。
関わった人物
では、三方ヶ原の戦いに関わった主な人物についてご紹介します。
【武田方】
武田信玄
甲斐(現在の山梨県)の戦国大名で、「甲斐の虎」と称された名将です。三方ヶ原の戦いでは、巧みな戦略によって家康を城外へ誘い出し、野戦で圧倒的な勝利を収めました。西上作戦の途上にあった信玄にとって、この戦いはその軍事的力量を示す一戦でした。
武田勝頼(たけだ・かつより)
信玄の嗣子。三方ヶ原では主力の一角を担い、父とともに徳川軍を撃破しました。のちに武田家を継ぐことになります。
山県昌景(やまがた・まさかげ)
武田家の重臣で、赤備えで知られる武将です。先鋒を務めるなど、戦いの最前線で活躍しました。
【徳川・織田方】
徳川家康
三河(現在の愛知県東部)・遠江を支配する戦国大名です。信玄の進軍に対し、浜松城から出撃して決戦に臨みますが、大敗を喫します。この経験は、のちの家康の戦略観に大きな影響を与えたといわれています。
平手汎秀(ひらて・ひろひで)
織田信長から派遣された援軍の武将です。三方ヶ原の戦いで討死し、織田方にも大きな損害が出たことを示しています。
夏目吉信(なつめ・よしのぶ)
徳川家の家臣です。敗走する家康を守るため、身代わりとなって討死したと伝えられています。主君を救うための壮絶な最期は、忠義の象徴として語り継がれています。・