武田信玄の「西上作戦」と「三方が原の戦い」・・分かりやすく説明
日本識者は どいつもこいつも「肝心な玉金」が抜けた抜け金 解説
日本の「最高権威」は 大和朝廷の「天皇」
理由は 天皇は 古事記・日本書紀によれば「天孫降臨」で 日本を作った「神の子孫」が 天の皇(おう)で天皇
だから 日本の最高権威は 大和朝廷の「天皇」
ところが平安時代 平氏の平清盛が 権力で日本支配 その為 源氏の源頼朝が平氏を滅ぼし 征夷大将軍となり「武家政権」の「鎌倉幕府」を築く
この鎌倉時代 大和朝廷は「京都」に置かれ 天皇は「後醍醐天皇」
ところが「足利尊氏」は 自分が支配する幕府を築くため 後醍醐天皇を裏切り
光明天皇を祭り上げ、後醍醐天皇を 京都の朝廷から「追放」する
こうして光明天皇が「京都の大和朝廷の天皇」になる こうして足利尊氏は 光明天皇の「威光を利用」
征夷大将軍になり 当然 自分が天皇に祭り上げた「京都の大和朝廷」の傍に
「室町幕府」を築く
この室町幕府の「足利征夷大将軍」が「上様」で 諸藩の「大名」は 室町幕府の
足利征夷大将軍(上様)の家臣で 三河(愛知)の大名「織田信長」や
甲斐(山梨)の大名「武田信玄」や 遠江(静岡)の大名「徳川家康」は 室町幕府の足利征夷大将軍(上様)の「家臣」
この足利征夷大将軍(上様)の家臣が 越前の大名「朝倉義景」や越後の大名「上杉謙信」や 甲斐の大名「武田信玄」
これらの大名たちは 室町幕府の足利征夷大将軍(上様)に「忠誠を誓っていた大名」
ところが 三河の大名「織田信長」は 室町幕府の足利征夷大将軍(上様)に忠誠を誓わず 自分が天下人になろうとする
他方 室町幕府の「12代征夷大将軍・足利義信」には 長男の「足利義輝」と 次男の「足利義昭」がいて
長男の足利義輝が 13代足利征夷大将軍になり 次男の「足利義昭」は 征夷大将軍を継承する権利がなく、出家 僧侶になる
ところが三河の大名「織田信長」は自分が「天下人」になるためには「室町幕府」を支配せねば天下人に成れない為
僧侶になっていた「足利義昭」を15代征夷大将軍に「祭り上げる」
こうして織田信長は、室町幕府を「支配」
当然 室町幕府の 足利義昭・征夷大将軍(上様)は、家臣の大名「織田信長」から支配されていたので
上様の足利義昭・征夷大将軍は、家臣の大名・織田信長を「不届きなる不忠義者」として
室町幕府に忠誠を誓っていた越前の大名「朝倉義景」や 甲斐の大名「武田信玄」に
不忠義者の織田信長を「討ち取る」よう命じる
室町幕府は 足利尊氏が 京都の朝廷に 光明天皇を祭り上げ築いた幕府なので
室町幕府は「京都」にあり 織田信長が、京都の「室町幕府を支配」
その為「武田信玄」は 京都の室町幕府を「支配していた不届き者」の「織田信長」を 討つために
京都に上洛し 京都に「武田家の旗」を掲げようとした戦略が 甲斐(山梨)に対し、京都は、西にあるため「西上作戦」
ところが 織田信長には 遠江(静岡)の大名「徳川家康」が「盟友」で 徳川家康は織田信長の味方
そのため 武田信玄は、憎い織田信長を味方する遠江(静岡)の浜松城に居住していた「徳川家康」を成敗する
しかし この当時 武田信玄の「労咳」が 悪化していた為 息子の「武田勝頼」に徳川家康との闘いを「委ねている」
そのため 武田勝頼が 2万500~3万の軍勢を率い 徳川家康の居城・浜松城を「包囲」する
理由は 浜松城の城内には 限られた食料しかない 限られた兵士しかいない そのため 武田の軍勢が 浜松城を「包囲」して、攻める落す「兵糧攻め」
そのため徳川家康は 浜松城に「籠城を余儀なくされてしまう」
そのため 籠城を余儀された徳川家康は 籠城を続けても 城内には「限られた兵糧米」しかなく これが尽きれば 餓死するため
盟友の織田信長に「援軍」を要請 こうして 織田信長は 家臣の平手という武将を 浜松城の徳川家康に援軍として送る
こうして織田信長から援軍を得た徳川家康は 浜松城の城門を開け 徳川の軍勢を引き連れ 浜松城から「討って出る」
こうして静岡の 三方が原 という所で 武田勢 と 徳川勢が「三方が原の戦い」
・・いよいよ本番=!・・ちょっと休憩・・続く