密教・・最澄と空海
平安時代、桓武天皇が、西暦804年 最澄と空海を「遣唐使」として「唐に派遣」する
唐に入唐した最澄は「唐の天台山」の国清寺と龍興寺で「密教」を学び 翌年805年 日本に帰国
比叡山で「天台宗」を開く
他方 空海は 唐に残り「サンスクリット語の仏典」を 音写語で「漢字の仏典」に直していたインド人僧侶三蔵からサンスクリット語を学び 三蔵からサンスクリット語の仏典と中国語の仏典を授かる
さらに唐の都・長安の青龍寺で 密教の太祖・恵果から密教を学ぶ
恵果は 日本に密教を広める為、3か月で 密教の全てを空海に「伝授」する
こうして恵果から密教の全てを伝授された空海は西暦806年 日本に帰国 高野山で「真言密教」を開く
空海の真言密教とは「即身成仏」で「真言を唱える」ことにより大日如来と「一体化」できるという「即身成仏」の教えが、真言密教の本義
そのため最澄は、空海よりも7歳ほど年上だったが 年下の空海から「密教」を習うため145人の弟子たちを引き連れ
空海の「弟子」になり、西暦812年 阿闍梨の空海から「灌頂(かんじょう)」を受ける
灌頂とは 阿闍梨の空海が 弟子たちに密教を授けたという儀式のことで 空海が 密教を授けた僧侶の頭に「水を灌ぐ儀式」を灌頂と言う
しかし 空海は最澄に 密教の全てを伝授しなかったので 最澄は空海に「何時になれば密教」を伝授してくれるのか尋ねる
空海は3年掛かる というので 最澄は3年間も天台宗の弟子たちを放って空海に3年間も弟子入りできないので
最澄は、弟子の「秦範(たいはん)」を空海に預け 比叡山に帰る
ところが 最澄の弟子だった「秦範」は 2度と最澄の元には「戻らなかった」
そのため「秦範」を巡り 最澄と空海は「対立関係」に陥る
人道的には、最澄の方が空海よりも年上だったので「常識性」では 最澄の方が優れていた
だから後の朝廷や幕府は「天台宗」を「擁護」していた
これが室町時代 天下取りを狙う織田信長の「比叡山焼き討ちの令」に繋がる