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ただの猫 2026/05/28 (木) 04:31:26

  帝政ロシア時代の残忍な「農奴制」

これは 米国も日本も変わりない

見出し・・ロシア史上最悪級の「悪女」100人以上の農奴を拷問した伯爵夫人ダリヤの末路

今から250年ほど前、18世紀のロシア帝国を治めていたのは、後に大帝と称えられる女帝エカチェリーナ2世でした。

彼女はヨーロッパの進んだ考え方を取り入れ、国を近代化しようと志した知的な指導者です。

しかしその足元では、領主が自分の土地で働く農奴を私物化し、絶対的な権力で支配する歪んだ仕組みが根深く残っていました。

そんな時代に、貴族社会を震え上がらせる凄惨な事件が発覚します。

領主であるダリヤ・ニコライェヴナ・サルトゥイコヴァという女性が、支配下にある100人以上の農奴に対し、長期にわたって執拗な拷問と殺害を繰り返していたのです。

そのあまりの残虐さから、彼女は後世「鬼女、血塗られた女領主」などと呼ばれることになります。

ダリヤの罪が異常だったのは犠牲者の数だけではなく、訴えが何度も握りつぶされ、被害者が主人のもとへ送り返され、虐待が長年にわたって続いていたことにありました。

今回は、ロシア史に残る「悪女」ダリヤ・サルトゥイコヴァについて解説します。

恐怖の邸宅
ダリヤ・サルトゥイコヴァは1730年、名門貴族の家に生まれ、近衛軍の将校グレブ・サルトゥイコフと結婚しました。

その残虐性が顕著に表れるようになったのは、1755年に夫が亡くなり、広大な領地と多くの農奴を相続してからです。
彼女はモスクワの邸宅や、モスクワ近郊のトロイツコエ村を中心に、農奴たちを日常的に虐待したのです。

被害者の多くは10代後半から20代の若い女性や、まだ幼い少女たちでした。
後の裁判では138件の不審死が調査対象となり、そのうち38件についてダリヤの直接的な暴行による死亡責任が認定されました。

彼女の暴力には共通した傾向がありました。
それは些細な理由で、例えば洗濯物のすすぎ方が不十分であるとか、床の掃除が隅々まで行き届いていない、などといった理由で激昂したのです。

自ら丸太や熱湯を用いて農奴を打ち据え、髪の毛を素手でむしり取る、厳冬期に裸で屋外へ放置する、懐妊中の女性に容赦のない打撃を加えて流産に至らせるなど、その行為は常軌を逸していました。

沈黙を破った告発者たち
しかし農奴たちは、ダリヤの暴虐に対して無抵抗だったわけではありません。

記録によれば、何度も地方の役所やモスクワの当局に対して訴えを届け出ています。

しかしダリヤは有力な貴族家系との繋がりを持ち、役人たちに多額の賄賂を贈ることで、これらの告発を組織的に握りつぶしていました。
逆に訴え出た農奴たちが「主人に対する不敬」として処罰され、鞭打ちの刑に処された上で、再び彼女のもとへ送り返されるという事態が繰り返されていたのです

2人の農奴、サヴェーリーとエルモライが、決死の覚悟で当時のロシア帝国の首都サンクトペテルブルクへと逃亡し、即位したばかりのエカチェリーナ2世に直接訴状を届けることに成功したのです。

特にエルモライの訴えは悲痛なもので、彼はダリヤによって3人の妻を次々と殺害されており、その怒りと悲しみが女帝を動かしました。

新女帝エカチェリーナ2世は、自らを啓蒙主義的な理性に基づく統治者として位置づけており、法による秩序の確立を急いでいました。
彼女はこの訴えを重く受け止め、法務院に対して徹底的な調査を命じます。

これは、ロシア史上類を見ない貴族に対する大規模な司法介入の始まりとなりました。

法務院から派遣された捜査官ステパン・ヴォルコフらは、1762年から1768年までの6年をかけて、ダリヤの罪を裏づける証拠を集めていきました。

捜査官たちはダリヤの領地に入り、多くの証言を集める一方で、邸宅の会計帳簿や農奴の記録も徹底的に調べあげます。
ですが彼女は一貫して罪を認めず、捜査は証言や帳簿の記録を積み上げる形で進められました

法務院は最終的に、138件の不審死のうち38件について、ダリヤの直接的な暴行による死亡責任を認めました。
判決文は、その行為が懲戒の名目をはるかに逸脱した執拗な虐待であると断じています。

女帝の裁きと永劫の沈黙
1768年10月、エカチェリーナ2世はダリヤに対して最終的な判決を下します。

その内容は、当時の貴族社会において極めて異例なものでした。
ダリヤは貴族の身分を奪われ、名を名乗ることも禁じられ、判決文では「怪物」と呼ばれるほど厳しく断罪されたのです。

まず、モスクワの赤の広場において、首に「この女は拷問者であり殺人者である」という銘板を下げられ、1時間にわたり晒し台に繋がれる辱刑に処されました。
ダリヤはモスクワのイワノフスキー女子修道院に送られ、当初は光の差し込まない狭い地下独房に閉じ込められました。
食事は小さな窓から差し入れられるだけで、外部との接触も厳しく制限されたのです。

その後、小窓のある房へ移されたとも伝えられますが、ダリヤは33年間を獄中で過ごし、1801年に71歳で没しました。
晩年には、窓の外を通る参拝客に罵声を浴びせたり、鉄格子を掴んで叫んだりすることもあったと伝えられています。

遺体はドンスコイ修道院の墓地に埋葬されました。

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