なぜ織田信長が 浅井長政と朝倉義景を 滅ぼすことができたのか
ある識者が 延々と理由を解説しているが 次の投稿で 理由を簡単に説明
見出し・・信長は、なぜ浅井・朝倉を滅ぼせたのか?裏切りと悲劇が招いた「二大勢力」の最期とは?
天正元年(1573)8月から9月にかけて、織田信長は長年にわたり対峙してきた浅井氏・朝倉氏という二大勢力を相次いで滅ぼした。両氏は信長包囲網の中核を担った存在であり、その滅亡は戦国の勢力図を大きく塗り替える転機となった。
では、なぜ浅井氏と朝倉氏は、短期間のうちに相次いで崩壊することになったのか。その背景には、信長の迅速な軍事行動だけでなく、重臣や一族の裏切りが大きく影響していた。本稿では、浅井・朝倉滅亡に至る一連の戦いの経緯を追っていきたい。
湖西から攻勢開始――木戸・田中両城を攻略
天正元年(1573)7月26日、京都を発った信長は、巨大船に乗って近江高島郡へ出陣した。近江高島郡は、江北の浅井氏と越前から南下する朝倉氏の合流地点にあたる重要な地域だった。
信長は陸路からも軍勢を差し向け、木戸城(滋賀県大津市)、田中城(同高島市)を次々と落とした。木戸・田中の両城は、明智光秀に与えられた。この勝利により、湖西方面において織田方は優位な立場を確立したのである。
相次ぐ寝返り――浅井方内部の動揺
同年8月になると、浅井氏の配下にあった阿閉氏、浅見氏が相次いで信長方へ寝返ったので、朝倉・浅井連合軍は不利な状況に傾いた。同じ頃、越前の朝倉氏は余呉、木之本(以上、滋賀県長浜市)まで出陣し、信長軍と交戦したが、信長は自ら出陣して朝倉軍を蹴散らすと、そのまま逃げる敵を追撃した。
織田軍は越前へ退却する朝倉軍を追い続け、敦賀(福井県敦賀市)付近に至るまで戦闘を繰り広げた。この戦いで朝倉軍は約3000の兵を失い、一族や重臣にも多くの死者が出たと伝えられている。朝倉氏にとって、極めて大きな打撃となったのである。
一乗谷放棄――名門朝倉氏の崩壊
同年8月、織田軍が敦賀から越前国内へと攻め込むと、義景は本拠である一乗谷(福井市)を捨て、賢松寺(福井県大野市)へ逃亡した。一乗谷に住んでいた武士や町人たちも織田軍を恐れ、散り散りになって逃げ出した。
8月20日には、朝倉景鏡(義景の従弟)が織田方へ寝返るという決定的な出来事が起こる。これにより義景は完全に孤立し、最終的に自害して果てた。こうして、越前の名門・朝倉氏はここに滅亡したのである。
次なる標的は浅井氏――小谷城への総攻撃
朝倉氏を討った信長が次に矛先を向けたのは、かつて同盟関係にあった浅井氏である。8月26日、越前を発した信長は、浅井氏の居城・小谷城に近い虎御前山(以上、滋賀県長浜市)に陣を敷き、総攻撃の準備を整えた。
翌8月27日、羽柴(豊臣)秀吉が小谷城の京極丸に攻め込むと、戦況は一気に動いた。その翌日には、長政の父・久政が自害に追い込まれたのである。この時点で、浅井氏の命運はすでに尽きかけていた。そして9月1日、小谷城はついに落城し、当主・長政も自害して果てた。
長政の妻であるお市(信長の妹)と娘3人(茶々、初、江)は辛うじて城を脱出することに成功した。しかし、嫡男でわずか10歳の万福丸は織田軍に捕らえられ、関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)において磔刑に処せられたという。3人の娘はその後、信長のもとに引き取られたが、これにより浅井氏は完全に滅亡したのである。
二大名門の滅亡がもたらした歴史の転換点
こうして天正元年(1573)、越前の朝倉氏と江北の浅井氏という二大勢力は、わずか1か月余りの間に相次いで滅亡した。この戦いで大きな軍功を挙げた羽柴秀吉には、浅井氏の旧領が与えられた。
のちに天下人へと成長していく秀吉にとって、この時の活躍は重要な転機となったといえるだろう。そして、浅井・朝倉という信長包囲網の中核勢力を失ったことで、信長の天下統一への道は大きく開かれていくことになったのである。
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