田中角栄は、他者を思う心があった
見出し・・なぜ田中角栄は「敵を作らない政治家」になれたのか?神楽坂の花街で磨いた“人たらしの極意”
田中角栄は、国会では雄弁な政治家として知られる一方、私生活では相手の話にじっくり耳を傾ける“聞き上手”だったという。その素顔を知るのが、花街・神楽坂で彼と交流した芸者たちだ。角栄の愛人の甥・山科薫と親交を持つ筆者が、その証言をもとに、相手を引き込む対人術の原点に迫る。
● 政界を夢見る若き田中角栄と 芸者・円弥が出会うまで
山科薫、本名山梨貢。1957年7月14日生まれ。俳優、声優、官能小説家といったさまざまな顔を持つ。
山科の父は都庁勤めの公務員で、和子という妹がいた。親が事業に失敗し、食うことさえままならなくなり、妹は面倒を見てくれる家を転々としてやっと辻家のやっかいになった。
辻家は神楽坂で芸者置屋、金満津を経営していた。本来なら、親が借金する際に子どもがそこで住み込みとして何年間か働く年季奉公というシステムがあるが、骨と皮ばかりの和子を見て哀れに思ったのか、辻家を仕切る辻むらという女将は和子を養女にした。
そのころ、神楽坂の隣、飯田橋の土建会社に若きころの田中角栄が入社した。政界進出を夢見る青年であり、天下国家を論じるのが好きな若者だった。
土建会社の社長には娘がいた。田中青年を気に入った社長は、病弱の娘と結婚することを熱望した。独立して田中土建を創業した田中青年は、社長の娘と結婚する。
土建業と政治は深い関係がある。政界に打って出てやると野心を抱きながら、田中角栄は仕事に励んだ。神楽坂にある料亭で芸者と交遊した。そのうちの1人に円弥という10代の半玉(編集部注/一人前の芸妓になるために修行中の15〜20歳前後の少女)がいた。山科の叔母、辻和子である。
円弥と田中角栄は互いに好意を寄せ合う。円弥――辻和子は田中青年がのちに内閣総理大臣になるなど夢にも思っていない。
● 田中角栄が羽を伸ばした 辻和子邸でのプライベート
山科薫は叔母、辻和子をとおして生身の田中角栄を知ることになり、田中角栄研究正史とは別にリアルな素顔の証言者となる。
「田中さんはね、記者会見や国会では立て板に水のようにしゃべるけど、プライベートではむしろ聞き役でしたよ」と山科が語る。
「朝から晩まで陳情が押しかける。すべてさばくにも短い時間で相手の話を聞かなければならないでしょ。だからなのか、聞き上手でした」
山科の父は都庁勤務だったこともあって、田中角栄は庶民の意見、反応を山科の父から得ていた。
目白の田中御殿とは別に、神楽坂の辻和子邸では角栄は田中派の重鎮とも距離を置き、プライベートな空間で羽を伸ばした。
のちに辻和子は女児と2人の男児を授かる。不幸にも女児は病死するが、2人の男児、京と祐は元気に育った。角栄は2人の男児に田中姓を名乗らせた。
長男・京は成長すると父親に似てきた。角栄も期することがあったのか、目白の本妻が産んだ眞紀子とは別に政界への道を想定していたふしがあった。
立候補して、選挙活動する際、新人なので選挙民に名前を覚えてもらう必要がある。そのために名前の入ったのぼりを何本も立てるのだが、“京”という名前は表からも裏からも同じ左右対称の一文字だから、覚えやすく、書きやすい。選挙対策をすでに頭の片隅に描いていたようだ。
・・・新米の新聞記者にも 椅子を勧めていた 人の感情を害する言動を行わなかった
極めつけは「日中国交正常化」
1950年の朝鮮戦争で 共産主義の「北朝鮮軍と中国軍」が 資本主義の米国が建国した「韓国」を共産主義化するため 一方的に侵略
他方、1945年 日本敗戦で 戦勝国の米国が 1945年から日本を支配していたため
米国は 共産主義勢力の「拡大を阻止」するため 日本列島に「米軍基地」を置くため
翌年1951年「サンフランシスコ講和条約」で 日米同盟 日米安全保障条約を締結、
この条約が翌年、1952年「実効」となり ここから日本は「資本主義の国家」になる・・それまでは 民主社会主義の日本だった
こうして日本は1952年から資本主義国となり共産主義の中国 北朝鮮 ソ連と敵対国となり「国交断絶」
つまり 日本と中国は「国交断絶」していた そのため田中総理は「日中国交正常化」するため訪中、中国の周恩来首相と会談 こうして日本と中国の国交は回復された
その後、田中総理は「ロッキード疑惑」で 日本人からパッシングされたが中国政府は 日中国交正常化した田中角栄が 死ぬまで「礼節を忘れなかった」:
中国は 日本との「友好を望んでいる」しかし日本は狭量が狭く、中国を嫌っている
中国は大陸人で 容量が大きい 日本は島国で、容量が小さい