遣隋使の小野妹子(おののいもこ)男性
中国は「隋王朝」の時代 皇帝は「煬帝」で 日本は「飛鳥時代」
この飛鳥時代 日本で最初の女天皇になった「推古天皇」に 20歳前後の厩戸皇子(うまやどのおうじ)が「摂政」となり「聖徳太子」になる
摂政(せっしょう)とは 天皇をサポートする役職で天皇に次ぐ地位
平安時代「摂政」が「関白(かんぱく)に変更される
安土桃山時代 豊臣秀吉は 天皇をサポートする「関白(摂政)」の地位になり、天皇に次ぐ地位で 関白秀吉と呼ばれた
そして朝廷が遣隋使として小野妹子に 隋の皇帝(煬帝)に宛てた書簡を持たせる
この書簡には「陽いずる処の天子 陽ぼっする処の天子に致す、つつがなきや」
意味は・・太陽が昇る東の国(日本)の天子(推古天皇)が 太陽が沈む西の隋の天子(皇帝)に書簡を送る つつがなきや(問題ないか)・・という意味
これは日本の推古天皇が、隋の皇帝だった煬帝を「見下した書簡」
当然 隋の煬帝は「激高」
そのため激高した隋の煬帝は 小野妹子に 推古天皇を「罵倒する書簡」を持たせ 日本に帰国させる
しかし この煬帝の返書は 推古天皇を「罵倒する書簡」だった為 小野妹子はこの罵倒する返書を 推古天皇に献上すれば 推古天皇や摂政の聖徳太子から
「遣隋使の役目を果たしていない」として 推古天皇や聖徳太子から、またも罵倒されるため
小野妹子は、煬帝の返書を「握り潰し」 言い訳として朝鮮半島の百済人から返書を「奪われた」と言い訳する
小野妹子は、利口な男 推古天皇と聖徳太子は「他者の感情も分からないアホ」
このように日本の要人は「他者が気分を害する事」も分からないバカ
この他者の感情が分からず 中国政府を 激高させたのが高市総理
見出し・・小野妹子は国書を紛失、高向玄理は帰国できず...海を渡り中国に学んだ日本人
航海すること自体が命懸けだった古代において、海を渡って中国に向かい、国づくりに尽力した人々がいた。国書を紛失した者、大化の改新に貢献した者、異国の土となった者......。ここでは前後編に分け、七人の男たちを取り上げ、果たした役割とその足跡をたどる。
小野妹子――煬帝から文書を授かるも...
中国へ渡った古代の人物というと、小野妹子が、真っ先に脳裏に浮かぶのではないだろうか。
『日本書紀』には、推古天皇15年(607)、「大礼(だいらい)」小野臣妹子が大唐(隋)に遣わされたことが記されている。
「大礼」とは位階で、冠位十二階のなかの第五位にあたる。この時点で妹子の位階は、特別に高いわけではなかった。 妹子は有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」ではじまる国書を携えて、隋に渡った。
この国書を見た隋の第二代皇帝・煬帝は、「蛮夷の書、無礼なる者有り」と怒りをあらわにしたという(『隋書倭国伝』)。
翌推古16年(608)、妹子は隋からの返答使・裴世清(はいせいせい)を伴い、帰国した。 妹子は帰国にあたり、煬帝から文書を授かっていたが、百済国を通った際に、その文書を百済人に奪われてしまったため、届けることができないと奏上した。文書を紛失した妹子を群臣は、流刑に処すべきだとしたが、推古天皇は赦(ゆる)した。
この妹子の文書紛失に関しては諸説あるが、倭国に不都合な内容が記されていたため、妹子が握りつぶしたともいわれる。
同年9月、裴世清を送るため、妹子は再び、隋に派遣された。このとき、後述する南淵請安(みなぶちのしょうあん)、旻(みん)、高向玄理(たかむこのげんり)らも、随行している。彼らは、隋の滅亡と唐の興隆を目の当たりにしながら中国で学び続けることになる。一方の妹子は、翌推古17年(609)9月に帰国した。
帰国後の妹子に関しては、よくわかっていない。だが、大礼から、冠位十二階の最高位である「大徳(だいとく)」に昇進したようなので、しばらくは朝廷で任につき、高い評価を得ていたのではないだろうか。
妹子の没年は不明である。政界を引退してからは、故郷の近江国滋賀郡小野村(滋賀県大津市)で過ごしたともいわれる。穏やかな晩年を送れたのだろうか