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ただの猫 2026/05/31 (日) 08:32:56

 鄧小平の「改革開放政策」で中国は飛躍的に発展

1939年 中華民国の国民党政権・蔣介石と、共産党の毛沢東の「政権闘争」で毛沢東、勝利

ここから中国は、毛沢東の共産主義国(共産主義政府)になる
しかし 党員の鄧小平と毛沢東は 対立関係 毛沢東の「文化大革命」では中国経済は「疲弊」日本より貧しい国

毛沢東は独裁的で 対立していた鄧小平を迫害

排斥された鄧小平は、洞窟で生活 そして毛沢東、死亡

鄧小平が国家主席となり「改革開放政策」で資本主義に追い付け、追いこせで 毛沢東の共産主義に資本主義導入

中国は共産主義で 個人の財産所有は、原則認められず 全て「国有財産」

鄧小平はこの国有財産を 有能な党員に「分割供与」 こうして中国の大企業は 政府の息が掛かる半官半民の大企業が誕生

中国の世界的な大手通信技術のファーウエイの創始者も 共産党員の有能な通信技師が 創始者

ファーウエイは中国の半官半民の企業なので 外国ファンドから 株式買収により 乗っ取られないよう、株式を市場公開していない

こうして中国企業は 資本主義の米国・日本に 科学技術で 追い付き 追い抜こうとしている

 改革開放政策

文化大革命の終了の中国で、鄧小平の主導のもと、1978年に始まった本格的な経済近代化政策。経済特区の設置、市場経済の導入などにより、2000年代初頭まで中国経済の急激な成長をもたらした。

 中華人民共和国で文化大革命の末期の時期の1975年1月に周恩来は四つの現代化(近代化)を提唱したが、それは江青ら四人組の抵抗に遭い、激しい政争となって、実現できなかった。周恩来はすでに病身であったので、実際には鄧小平にその仕事は託されていたが、翌1976年に周恩来の死去を契機に天安門事件(第1次)が起きると、毛沢東は鄧小平に暴動の責任を取らせて解任した。

鄧小平政権の成立

 1976年10月、さらに毛沢東が死去すると、四人組の権力独占に対する不満が表面化し、四人組は逮捕されて毛沢東の後継者となった華国鋒によって文化大革命の終了が宣言され、1977年に再び「四つの近代化(現代化)」が掲げられるとともに、三度復権して鄧小平政権が成立した。

中国共産党第11期三中全会 鄧小平の主導することとなった中国共産党は、1978年1月の第5期全国人民代表会議(全人代)第1回会議で「近代化された社会主義」を目指す新憲法を採択した。ここで初めて、中国経済の全面的な発展を目指す改革開放路線が打ち出された。さらに、1978年12月18日、中国共産党第11期三中全会(中央委員会第3回総会)で華国鋒を批判し、代わって実質的に会議をリードした鄧小平は「改革開放政策」を実行に移し、建国以来の毛沢東以降の方向を転換させることをはかった。これは、新たな鄧小平時代の始まりであり、現代中国の「歴史的な転換」となった。

経済特区の建設 1978年末に鄧小平政権によって打ち出された「改革開放政策」とは四つの現代化の基礎となる経済体制を、全面的に改めることであり、それは対外貿易拡大、外資利用、先進技術・管理経験の吸収、合弁などを推進し、その対外開放の戦略的な地域として経済特区を設置することを柱とした方針であった。その方針に基づき、1980年5月から、深圳(シンセン)・珠海・汕頭(スワトウ)・厦門(アモイ)の四つの地区が経済特区(特区)として整備され、内外の企業を誘致するためにインフラの整備、税制面の優遇措置などの法的整備が進められた。それに応じて外国資本が積極的に算入し、経済特区は急速に発展した。
 あわせて国内の資本主義的生産の導入が進められ、1980年には中国の社会主義経済の柱であった人民公社に対して、その非生産性を批判して、1982年に「人民公社の解体」を断行した。人民公社に代わって地方行政の単位となった郷・鎮では、1984年に、民間企業として郷鎮企業

 一般的に改革開放は1978年の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)で提起されたことによって始まった、とされている。中国共産党の「正史」もそう定めており、それが通説になっている。しかしそれは後から形成されたストーリーであり、事実とは異なるという。共産党の機関紙『人民日報』に「改革開放」ということばが初めて現れるのは1984年5月のことで、その年はわずか2回しか掲載されていない。『鄧小平文選』に登場するのは86年3月の談話でのことで、87年に人民日報での登場回数が一気に501回に跳ね上がる。また78年以前にも対外貿易やプラント導入は始まっている。<高原明生・前田宏子『開発主義の時代へ』シリーズ中国近現代史⑤ 2014 岩波新書 p.3>
 つまり1978年に突然、改革開放に転換したのではなく、87年ごろに本格的になった、ということであろう。また同書は、改革開放は鄧小平の権威と権力を表す政治的なシンボルにほかならないとし、そこから1987年に始まったというストーリーが作られたのであり、そのような理念を表す歴史的名辞としては「改革開放」と表記し、実際の具体的な政策について述べるときは「改革・開放」(あるいは改革開放政策)とを分けて表記すべきと提唱している

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