脳がボケた識者
太平記について解説しているが。何を言いたいのか趣意が不明
見出し・・・後醍醐天皇による「公家一統の政」が始まる しかし『太平記』に記される新たな波乱の予兆とは?
軍記物語『太平記』には元弘3年(1333)、「四海九州の朝敵」(日本全土の朝敵)は残らず滅びたと記されています。鎌倉幕府が滅び、都に還幸された後醍醐天皇は「正慶」の年号は「廃帝」(鎌倉幕府に擁立されていた光厳天皇)による改元ということで、もとの「元弘」に戻されました。賞罰・法令は悉く「公家一統の政(まつりごと)」、つまり朝廷の統一された政治体制から出されたことにより、諸国の民は朝廷の徳風(仁徳の感化の及ぶ様)に従ったともあります。
しかし同書には早くも新たな波乱の予兆が記されています。同年6月3日、護良親王(後醍醐天皇の皇子)が信貴(奈良県生駒郡の信貴山)の毘沙門堂にお出になるとの風聞があったので、畿内・近国の軍勢は言うまでもなく、京中や遠国の者までもが馳せ集まってきたとのこと。それは「天下の大半」の軍勢かと思われるほど夥しいものだったようです。護良親王は同月13日に入洛する予定でしたが、延引となりました。護良親王が諸国の兵を招集され、楯を作らせ鏃を砥いで「合戦の御用意あり」との聞こえがあったので、京中の武士の胸中は穏やかならぬものがあったと言います。
この不穏な有様をご覧になって、行動を起こしたのが後醍醐天皇でした。天皇は側近の坊門清忠を勅使として派遣。護良親王に「天下は既に鎮まったというのに、なお武器を取り、士卒を集めているのは何の必要があってのことぞ。世の中が静謐となったからには、急ぎ剃髪して、座主を相続されよ」と出家することを勧めるのです。護良親王は倒幕闘争に参与するまでは天台座主(比叡山延暦寺の住職)でした。後醍醐天皇は我が子に再び天台座主となるように促したのです。
・・・太平記とは「鎌倉時代」 朝廷は「後醍醐天皇」で、足利高氏(あしかがたかうじ)は 後醍醐天皇から 足利尊氏(足利尊氏)の名前を授けられる
他方 新田義貞と 足利尊氏は、ともに「八幡太郎義家(源義家)」の子孫で「足利家と新田家」が「権力闘争」
この「八幡太郎義家(源義家)」の子孫が 鎌倉時代を築いた有名な「源頼朝」足利家も新田義貞も 源頼朝と同じように 源義家(八万太郎義家)の子孫
そのため足利尊氏と新田義貞は どっちが「優位な地位」か 政権闘争
これが鎌倉時代に描かれた軍記物の「太平記」
ところがこの鎌倉時代の「前」は「平安時代」で 朝廷は「宇多天皇「でこの宇多天皇の息子(皇太子)が さらに「醍醐天皇」になり 菅原道真を大宰府に左遷
そして次は「鎌倉時代」になり 朝廷は「後醍醐天皇」で 足利尊氏は 自分の世を築くため「光明天皇」を祭り上げ 後醍醐天皇を京都の平安京から追放
追放された後醍醐天皇は 奈良の吉野に逃れ「南の朝廷(南朝)」を築き
足利尊氏が祭り上げた光明天皇は 京都の平安京の朝廷「北朝」となり「南北朝」時代になり南朝の後醍醐天皇に忠誠を誓う新田義貞・楠木正成 と北朝の足利尊氏が権力闘争
しかし足利尊氏が、北朝の光明天皇から「征夷大将軍」の地位を授けられ新田義貞 楠木正成を滅ぼし 次の室町幕府を築く
以上が 太平記
この足利尊氏が築いた室町時代から 朝廷の天皇は 北朝になり 江戸時代 倒幕派が 幕府を倒し、明治政府を築き
長州藩の伊藤博文が 江戸時代 朝廷の天皇・孝明天皇は「北朝」で正統な天皇の系統ではないとして 後醍醐天皇の子孫こそが 正統な天皇と主張
長州藩の後醍醐天皇の子孫である「大室寅之佑」を明治天皇にした説がある