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ただの猫 2026/06/10 (水) 16:36:58

 淀君

ある識者が 豊臣秀吉の側室だった「淀君」について3ページ解説

淀君とは何者か? 次の投稿で分かりやすく説明

見出し・・【毒婦の日本史】「好色」「傲慢」ゆえに豊臣家を滅亡させた!? 「蛇女」扱いされた淀殿の“真実”

淀殿と大野治長が駆け落ち!?
淀殿の生涯は波乱の連続であり、略歴だけ見れば悲劇のヒロインそのものだ。それがなぜ毒婦のレッテルを貼られたかといえば、詰まるところ豊臣秀頼は本当に秀吉の子だったのかという疑念に尽きる。秀頼の実の父は秀吉ではなく、淀殿は不貞を働いて子を産み、その子を天下人・秀吉の後継とすることに首尾よく成功した、というのである。

実際、秀吉は長らく子宝に恵まれなかったのに、淀殿は側室になるや、ほどなくして身ごもった。鶴松と名付けられた第1子は3歳で夭折するが、2年後には秀頼が誕生する。秀吉には若い頃から連れ添った妻・寧々(のちの北政所)に加えて側室も大勢いたのに、淀殿だけが2人も子を授かるのはおかしいというわけだ。

だが、秀吉には長浜城主だった時代(1573年〜)に、母親は不明だが「秀勝」(幼名・石松丸)という男児が誕生し、天正4年(1576)に死去したという伝承がある。滋賀県長浜市の妙法寺には、羽柴秀勝像とされる法要用掛け軸の古写真が残っている(掛け軸の原本は焼失)。

もっとも秀勝が実在したのか、実在したにせよ秀吉の実子だったかは、歴史研究者によって意見も分かれ、真相は不明だ。だが、戦国期は幼児の死亡率が高かったであろうから、秀勝のほかに記録に残らず死亡した落とし胤(おとしだね)がいたとしても、とくに不思議とは思えない。

さて、話を淀殿に戻そう。

毛利家に伝わる古文書『萩藩閥閲録』が、淀殿の乱行を伝えている。日付は慶長4年(1599)12月2日。

「大野修理(治長)という御前のおぼえもよい人がお拾様(秀頼)の御袋様(淀殿)と密通するという事件が起き、修理を討ち果たそうとしたけれども、その後、宇喜多家に引き取られた」

淀殿と、大野治長が男女の関係にあったため罰せられたというのだ。

確かに治長は同年10月、他家に預けられている。ただし、問題視されたのは家康を暗殺しようと企てた罪によるもので、預けられたのも家康の子・結城秀康が治める下総国(千葉県北部と茨城県南西部)の結城藩である。この文書には家康暗殺未遂が密通に、結城が宇喜多にすり替わるという明らかな誤認があり、とても信用できる代物ではない。

淀殿と治長の密通の噂が流布していた形跡は、他にもある。例えば奈良・興福寺の塔頭(たっちゅう)多聞院に残る『多聞院日記』。

「秀吉は遺言で家康と淀殿が夫婦になるよう命じていたが、治長が淀殿を連れて駆け落ちした」

これなどは、風聞を書き留めただけの可能性が高いと考えられるだろう。重要なのは、こうした記載がもとになって後世、「秀頼の実父は治長」という噂がまことしやかに流れてしまったことだ。それが冒頭の「好色」説につながっていく。

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