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ただの猫 2026/06/17 (水) 11:40:52

・・続く

・・秀吉は 自分の血が繋がった後継ぎが誕生 豊臣鶴松を自分の「跡継ぎ」にする

ところが不運にも 豊臣鶴松は 幼少の3歳で「病死」してしまう

こうして 豊臣秀吉は「跡継ぎを喪う」この当時 秀吉は高齢で 男性機能を失い 後継ぎを作れない体だったので 姉の息子(秀吉の甥)を「豊臣秀次」として「跡継ぎ」にする

ところが 豊臣秀次は 秀吉の言いなりにならなかったので 豊臣秀次み 坊主になるよう「出家」を命じる

そのため出家を命じられた豊臣秀次は「自害」してしまい、秀吉は またも後継ぎを失う

そのため 秀吉は 後継ぎを作るため「側室の淀君」と「家臣の大野治長」との間に子供を作らせ「後継ぎ」にしたのが「豊臣秀頼」

ところが秀吉は「高齢」で豊臣秀頼を 自分の「孫」のように「大事に可愛がり」家臣たちに 豊臣秀頼を「跡継ぎとして認めるよう懇願」した と言う

しかし 秀吉の家臣だった加藤清正 伊達政宗は 豊臣秀頼は 淀君と大野治長の子供で、主君・秀吉の血筋ではなく 後継ぎには「認めなかった」

当時の「後継ぎ」は 中国 朝鮮。日本でも「同じ」で「主君と正室」の間に生まれた「長男」が、後継ぎになれる「皇太子」だと決められていた

だから「主人と女房」の間にできた「長男」が 後継ぎになる「家督相続」になった

しかし豊臣秀吉は 正室だった北政所(寧々)との間に 後継ぎの子供が「できなかった」ため 側室の淀君との間に後継ぎの豊臣鶴松を作り、自分の後継ぎにする

しかし 不運にも 後継ぎの豊臣鶴松は3歳で「病死」

こうして 秀吉は 正室の北政所(ねね)とは 後継ぎが出来なかったので上述したように「側室の淀君」と「家臣の大野治長」の間に 子供を作らせ「豊臣秀頼」として後継ぎにする

しかし 豊臣秀頼は、主君・秀吉の血筋を引いていない「他人」なので 加藤清正 伊達政宗は、後継ぎとは「認めなかった」

しかし「石田三成」は 豊臣秀頼を「跡継ぎとして認め忠誠を誓っていた」

こうして 秀吉は「臨終の床」に伏し 主君・織田信長が全幅の信頼を置いていた「徳川家康」と 後継ぎの「豊臣秀頼」と その母親「淀君」を 臨終の床に 呼び寄せ

徳川家康に 次のように遺言する

「豊臣秀頼を後継ぎとして認め 末長く 秀頼を守るよう遺言」する

しかし 徳川家康は 秀頼は 秀吉の子供ではなく 側室の淀君と大野治長の子供だったので 家康は 秀頼を後継ぎとは認めなかった

そのため 秀頼を後継ぎとして認め忠誠を誓っていた「石田三成」と 後継ぎとは認めない「徳川家康」が 秀吉の後継ぎを巡り「関ケ原の戦い」

「関ケ原の戦い」とは、徳川家康が「天下人」になるための戦い

徳川家康が 関ケ原の戦いで「勝利」

しかし 後継ぎの豊臣秀頼と その母親・淀君は 秀吉の「大阪城」に居城していたので

徳川家康は「大阪夏の陣」で大阪城を攻める

大阪城に居城していた豊臣秀頼と その母親・淀君は「自害」してしまう

こうして豊臣家は 2代目 豊臣秀頼で 豊臣家が「滅亡」してしまい 徳川家康が、天下人になり 徳川幕府を築く

以上が 豊臣家が 2代目で滅亡した歴史経緯

そのため秀吉は、天下人に成り、天皇に次ぐ「関白」にまで出生したが 自分の後継ぎがいなかった豊臣秀吉は 自分の儚い人生を、辞世の句で詠んでいる

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速の事は 夢のまた夢」

吾輩にも 後継ぎがいないので 豊臣秀吉の気持ちが 分かり過ぎるほど分かる

他人の子供でも後継ぎにしたくなる これは創造主が課した「種の保存」

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