「織田信長」は「癇癪もち」の精神疾患者だった
常軌を逸した行動が多い 報道では織田信長が、討ち取った 武田勝頼の首を愚弄したと説明されているが、これは事実だろう
これ以外にも、織田信長は、討ち取った朝倉義景と浅井長政の 生首から頭蓋骨を造り 金粉を塗り 朝倉・浅井の頭蓋骨を「肴」にして酒を飲んだという 普通の精神ではなかった
室町時代 天下取りで 武田信玄と 織田信長が「天下分け目の戦い」
この最中 武田信玄は持病の「労咳(肺結核)」が重症化 大量の喀血
臨終の床に伏し 息子の「武田勝頼」に 以下のように「遺言」
「向こう3年、動いてはならぬ、困った事あれば上杉謙信を頼れ」
・・意味は「父親の武田信玄」と「織田信長」は「天下分け目の戦い」
父親の信玄が死去すれば、息子の武田勝頼は「織田信長+徳川家康」に攻められ「武田家が滅亡」してしまう もし窮地に陥れば 越後の上杉謙信を頼るよう遺言
上杉謙信と武田信玄は「互いに宿敵」だったが上杉謙信は本来「僧侶」で慈悲深い大名で「敵にも塩を送った」と言う程の慈悲深い大名
そのため武田信玄は、息子の武田勝頼に 上杉謙信を「頼るよう遺言」する
そして死去 この信玄の訃報を聞いた上杉謙信は、落涙したと上杉年譜に書き残されている
信玄と 謙信は「互いに宿敵」だったが、互いに相手を「敵ながらあっぱれな武将」として認めていた
しかし息子の武田勝頼は、父親の遺言を無視 動いてしまい 織田信長+徳川家康の連合軍に攻められ自害してしまう
こうして武田家は滅亡してしまう そして勝利した織田信長は 討ち取った武田勝頼の首を愚弄したと言う
この織田信長の「癇癪もち」の精神疾患が原因で 愚弄された家臣の明智光秀から攻められ本能寺の変で 自害してしまう
自分の癇癪持ちが 命取りになった織田信長
見出し・・敵将・武田勝頼の首を前にした織田信長の苛烈な態度とは?
武田信玄の後継者となったのはその子・武田勝頼ですが、勝頼は天正10年(1582)2月、織田信長・徳川家康により攻められて、その翌月に滅亡してしまいます。信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記『信長公記』には、武田家滅亡の様が詳細に描かれています。勝頼はその嫡男・信勝らと共に「討死」して果てるのですが『信長公記』は武田家3代(信虎・信玄・勝頼)がこれまで多くの人々(数千人)を殺してきたと書いています。「国主」(大名)に生まれた人は他国を奪い取ろうとして人を殺すことは「常の習」。そしてそれは武田家も例外ではなかった。その「因果」が巡ってきたと言うのです。同書は「哀れなる勝頼哉」と記しますが、人を多く殺してきたということでは信長も同じです。武田家滅亡と同じ年に信長もまた京都の本能寺で果てますが『信長公記』の筆法をもってするならばそれもまた「因果」なのかもしれません。
『信長公記』によると、勝頼の首は織田の将・滝川一益より、織田信忠(信長の嫡男・後継者)に進上されます。その後に信長に「御進上」とあります。勝頼の首にまつわる逸話が『常山紀談』(江戸時代中期に成立した逸話集。著者は儒学者の湯浅常山)に掲載されています。
それによると、信長は勝頼の首を見た時、次のように語ったとのこと。「汝の父(信玄)、非義道なりし故に、天の責めを逃れ難く、今、このようになった。信玄は1度、都に赴こうと志したと聞く。汝が首を都に送り、女童に見せよう」と。つまり、勝頼の父・信玄が非義(道理に外れたこと)であったので、天誅が下って、勝頼は滅亡したというのです。ちなみに同書はこの信長の言行を「罵り」とありますので、信長の口調は勝頼を軽侮するものだったのでしょう。
同書には「一説」として、勝頼の首を前にした信長の苛烈な態度も記述しています。それによると、信長は勝頼の首を前に様々な罵りの言葉を吐いたのみならず、杖で二回も勝頼の首を突いて、足蹴にしたというのです。それを見ていたのは、勝頼の首を持参した滝川荘左衛門。荘左衛門は「織田家の運命は尽き果てた」と呟いたとのこと。敵将の首に悪罵を投げ付け、足蹴にする信長に未来はないことを荘左衛門は見抜いたのです