長篠の戦い
ある識者が 長篠の戦いで 武田勢の「騎馬軍団」も織田信長の「鉄砲軍団」も創作だったと言う
報道・・武田勝頼の「騎馬軍団」も信長の「三段撃ち」も創作だった…最新の研究で分かった長篠の戦いの「本当の姿」
1575年、武田勝頼は織田・徳川連合軍と長篠の戦いを行い、敗戦する。歴史学者の渡邊大門氏は「小説や映画で描かれるような戦いが行われたかは非常に疑わしい。そもそもこの戦いの実像を示す一次史料は極端に乏しい」という――。(第3回)
【画像をみる】武田勝頼(1546~1582)の肖像画(部分)
※本稿は、渡邊大門『信長包囲網の真相』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
■「三段撃ち」も「騎馬軍団」もなかった
織田・徳川連合軍が向かった場所は、長篠城の手前にある設楽原(愛知県新城市)である。設楽原は平野ではなく、丘陵地が沢や小川に沿って南北に連なっている地形だった。武田方と織田・徳川連合軍は連吾(れんご)川を挟んで陣を置き、川を自然の堀として防御線を築いた。
織田・徳川連合軍は、丘陵地ゆえに相手陣を奥深くまで見渡せないという地形を利用し、馬防柵(ばぼうさく)を築くなどして万全の体制を敷いた。なお、武田方の率いた軍勢の数よりも、織田・徳川軍のほうが圧倒的に多かったといわれている。
天正3年(1575)5月21日、長篠の戦いの前哨戦として、鳶ケ巣(とびがす)山砦(愛知県新城市)において攻防が繰り広げられた。鳶ケ巣山砦は、武田方が長篠城を攻略する際の付城として築かれたものである。
織田・徳川連合軍は奇襲戦で鳶ケ巣山砦を攻略すると、武田方の退路を断つことに成功した。これにより、織田・徳川連合軍が自軍の士気を大いに高め、当初から戦いを有利に進めたのである。
天正3年(1575)5月21日、両軍は長篠の戦いに突入したが、この戦いで避けて通れない問題は、織田・徳川連合軍の軍事革命といわれる戦法である。織田・徳川連合軍は、戦国最強とされた武田氏の騎馬軍団を3000丁もの鉄砲で撃破したと長く語られてきた。
■熟練した射手が3000人もいたのか
とりわけ鉄砲の「三段撃ち」は軍事革命と称されてきたが、近年はその評価の見直しが進んでいる。それは、武田の騎馬軍団も同じである。では、この通説はどこに問題があったのか考えてみたい。
鉄砲の「三段撃ち」や武田の騎馬軍団の根拠史料となったのは、17世紀初頭に成立した小瀬甫庵の『信長記』(織田信長の一代記)である。その後、参謀本部編『日本戦史 長篠役』(元真社、1903年)がこの説を採った。軍事の専門家である参謀本部の影響力は大きく、「鉄砲の三段撃ち」対「武田の騎馬軍団」という構図は長らく通説とされてきたのである。
しかし、甫庵の『信長記』の内容は、同じ二次史料の太田牛一の『信長公記』を参考とし、おもしろおかしく創作・脚色したものである。
牛一の『信長公記』は二次史料とはいえ、客観性に富んでいるが、甫庵の『信長記』は歴史小説にすぎず、歴史史料としては適さない。したがって、今となっては甫庵の『信長記』を根拠とした、「鉄砲の三段撃ち」や「武田の騎馬軍団」は否定されている。
以下、もう少し「鉄砲の三段撃ち」や「武田の騎馬軍団」について考えてみよう。まず、鉄砲隊が三列に並び、1000丁ずつ交代射撃を行うのは極めて困難だったことが指摘されている。熟練した射手を3000人揃えるのも難しかったに違いない。
■馬から降りて戦っていた
また、実際の戦いでは武田の騎馬軍団が突撃したのではなく、下馬して戦った可能性が高いといわれている。別の合戦の例になるが、戦闘の際には馬から降りて戦ったという記録がある。
その一方で、馬上で槍を振るって戦った事例も報告されているが、それは馬で突撃したわけではない。馬は高価で貴重だったので、失うことが懸念されたと考えられる。
その後の研究では反論も示されたが、なかなか決定打が出ていないのが現状である。このように、近年の研究は従来説を鵜呑みにせず、長篠の戦いの実像を丁寧に再検討している。以下、さらに具体的に確認していきたい。
まず、織田方が3000丁もの鉄砲を準備し、1000丁の鉄砲を代わる代わる撃つ「三段撃ち」を行ったのかという点を考えてみたい。
信長は若い頃から橋本一巴(いっぱ)に鉄砲の扱いを学んでおり、鉄砲の重要性を深く理解していた。また、弾の原材料である鉛や、火薬原料の硝石(しょうせき)を確保するため奔走したことも事実である