猫の掲示板

ここで書き込めます / 1308

1313 コメント
views
1308
ただの猫 2026/06/22 (月) 17:21:35

  武田信玄の「騎馬軍団」と、織田信長の「鉄砲軍団」

歴史資料には「信憑性」がある歴史資料が 第1資料~第3資料で

信憑性がない「風説。伝聞 噂」などは 第4資料~第5資料として分類している

歴史では 武田信玄は「騎馬軍団」で兵士(武士)が 鎧・兜を身に着け馬に乗り、槍や刀で 敵兵を倒す兵隊が「騎馬軍団」

「鉄砲軍団」は、織田信長が 戦場で最初に鉄砲を用いたと言われ 当時の鉄砲は「火縄銃」で

銃口から 火薬と弾丸を入れ 火縄に火を点け 引き金を引くと 火縄の火が、火薬に点火 火薬が爆発 弾丸が発射されるのが火縄銃

つまり 連発銃ではなく「単発銃」

そのため 1発 弾丸を発射すると また銃口から火薬と弾丸を詰め込まねばならず これには「時間が掛かり」敵の矢でコロされてしまう

そのため織田信長は 単発銃(火縄銃)の兵士を「3列縦隊」に並ばせ

「1列目」の鉄砲隊が 弾丸を発射 すれば 次の火薬と弾丸を詰め込むため「時間がかる」ので

「2列目」の鉄砲隊が、すかさず発射 2列目の鉄砲隊が火薬と弾丸を詰め込むには「時間がかかる」ので 「3列目の鉄砲隊」が すかさず発砲

この間に「1列目」の鉄砲隊は 火薬と弾丸を詰め終わっているので すかさず発砲

織田信長は このように 単発銃を「連発銃」にして、敵と戦ったのが「鉄砲軍団」で 織田勢は「3000丁」の「鉄砲軍団」と言われている

こうして騎馬軍団を率いる「武田信玄」と 鉄砲軍団を率いる「織田信長の両者が「天下人」になるため武田信玄と織田信長の「天下分け目の戦い」

しかし 武田信玄は「天下分け目の戦い」の「最中」 持病の労咳(肺結核)が悪化 臨終の床に伏してしまう

武田信玄は、臨終の床で息子・武田勝頼に 以下のように「遺言」

これは武田家の日誌「甲陽軍鑑」に書き残されている

「向こう3年 動いてはならぬ 困った事あれば上杉謙信に頼れ」
 
「動いてはならぬ」という意味は 武田信玄は、織田信長と天下人を争うが、息子の武田勝頼は 織田信長とは「天下人を争うな」という意味で

父親の武田信玄は 息子の勝頼が 織田信長と戦っても「勝ち目がなかった」ため 向こう3年 動くなと遺言

これが「武田信玄の軍旗」になっている「風林火山」で‥「動かざること 山の如し」

不利になれば「上杉謙信」を頼るよう遺言

なぜ武田信玄は 息子の武田勝頼に「宿敵」だった上杉謙信を「頼るよう遺言」したのか

上杉謙信の研究家「井上鋭夫」は 次のように説明している

上杉謙信は、生涯 70戦するが 殆ど全ての戦いは 他の大名から「依頼」されて戦った「代理戦争」で 自分の戦いではなく 他の大名の為の戦い

さらに「武田信玄と上杉謙信」は「川中島の戦い」で 5回戦っていて 歴史家は、前半戦は「上杉謙信の勝利」 しかし 後半戦は「武田信玄の勝利」として「両者引き分け」にしている

こうして 信玄と謙信は「宿敵」となり お互いに「敵ながらあっぱれな武将」として認めあっていた

これは 中国も 米国も 日本も同じで、騎士道、武士道の理念により 立派な敵には「敬意を表していた」

だから 日米開戦でも 米軍ハワイのカネオエ基地に 自爆した飯野房太中尉を 米軍は「敵ながらあっぱれな日本軍人」と表し カネオエ基地に「飯田房太」の「顕彰の碑」を建てている

このように 武田信玄と上杉謙信は「宿敵」だったが 互いに「敵ながらあっぱれな武将」として称賛していた

だから 武田信玄は、息子の武田勝頼に「困った事態になれば上杉謙信」を頼るよう遺言

しかし 武田勝頼は 天下人を目指し 父親の「遺言」を無視 うごいたため「織田信長+徳川家康」の連合軍との「長篠の戦い」で 追い詰められ自害

こうして武田家は 滅亡してしまう もし勝頼が 父親の遺言を守っていれば 武田家は滅亡しなかったろう

通報 ...