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ただの猫 2026/03/28 (土) 22:20:04

  今夜ラストは感動大作

 「わが指のオーケストラ」

これは 大正時代の実話で 聴覚障害で 音が聞こえず しゃべれない「聾唖児童」たちは 

世間から「不通とは違う児童」として 偏見され 除け者扱いされていた

他方 音楽家を目指していた若者・高橋潔は、音楽の道を捨て 大阪市立聾唖学校の教師になる

そして 聾唖学校の校長は 高橋潔が音楽を目指していたので 高橋教師に 聾唖児童に

「音楽を聴かせて欲しい」と要請 しかし 高橋教師は 音が聞こえない聾唖児童に音楽を どうやって教えればいいのか?

一生 掛けて 手話で 音が聞こえない 聾唖児童に音楽を聞かせる

だから「わが指のオーケストラ」・・意味は「わが指」とは 高橋潔の手話 

手話で 聾唖児童に音楽を聴かせたので タイトルが「わが指のオーケストラ」

ものすごい感動物・・しかし 如何に言葉 巧みに説明しても 感動が分からないだろう

「百聞は 一見にしかず」で 山本おさむの「わが指のオーケストラ」を見れば 必ず感涙するだろう

生涯をかけて聾唖児童に音を聴かせ 手話で会話できるよう聾唖児童に尽くした 高橋潔

  高橋潔・・参考

高橋 潔(たかはし きよし、1890年3月17日[1] - 1958年1月9日[2][3])は、日本の教育者。

大阪市立聾学校長として、口話法全盛の時代に手話法の孤塁を守り、後の日本のろう者社会およびろう教育に大きな影響を与えた。

 経歴

仙台藩の下級武士の家の次男として仙台市五十人町に生まれる。
1905年に仙台市立南材木町尋常高等小学校を卒業し、東北学院普通科入学するが、1908年に東北中学校第4学年に入学。

1910年に同校を卒業[4]し、東北学院専門部英文科に進学[3]し、英語を学んだ。東北学院在学中に接した西洋音楽に夢中になり、ヨーロッパへの留学を望んだが、家計の苦しさからこれを断念。終生、恩師として慕った、東北学院院長である、D・B・シュネーダーの示唆により、ろう教育者の道を志した[5]。

1913年に東北学院を卒業[3]し、東北中学校教諭に採用される[3]も、翌1914年、シュネーダーに依頼され、大阪市立大阪盲唖学校助教諭となる[4]。同年中に舎監も兼任した。1917年には教諭に昇任し、1924年に大阪市立聾唖学校校長に就任[6]。

1929年、東北学院の後輩で大阪市立聾学校教諭であった大曽根源助をアメリカ視察に向かわせる[7]。この年、醜と再婚。

1932年、全国盲啞学校長会議において鳩山一郎文相による口話法推進の訓辞が示されたが、高橋はこの席で手話法の必要性を説く演説を行う[8]。

また、高橋原作による、ろう者を主人公とした映画「声なき唄」が公開された。1952年、大阪市立聾学校を退職。

高橋は生前より「聾唖者の師父」として日本のろう者社会から絶大な尊敬を受け[9][10]、

その生涯は『わが指のオーケストラ』(山本おさむ、1991-1993年、秋田書店)として漫画にもなった。死去にあたり、従四位に叙せられ、勲四等瑞宝章受勲[11]。

手話法

ろう教育には大きく分けて口話法と手話法が存在するが、この二つの手法のどちらを重視するかは時代や地域により大きな差異がある。日本においては明治時代から大正時代にかけてのろう学校創成期に手話法が一般的に用いられていたが、世界的にはこの時代、口話法に注目が集まっていたこともあり、口話法を手話法より優れた手法とする意見が増えていった。

そうした中、高橋はろう者にとっての手話の重要性をいち早く認識し、口話法に向く者には口話法を、手話法に向く者には手話法を用いる「適性教育」を主張し、口話法を支持する教育者たちとの間に激しい論争を繰り広げた。高橋が大阪市立聾学校で用いた「適性教育」はORAシステムと名付けられた。

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