猫の掲示板

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ただの猫 2026/04/17 (金) 05:12:33

  歴史の核心が分かってない識者

歴史資料を見て 歴史経緯を解説しているだけで「実態を理解できてない」

なぜ「越前」の「守護大名(殿様)」だった「朝倉義景」が 織田信長+徳川家康から「姉川に戦い」で滅ぼされたのか「一向宗」が原因 

次の投稿で 説明・・核心部分は 解説文に「 」している

見出し・・北陸の名門・朝倉義景はなぜ滅んだ?信長に敗れる前から起きていた内部抗争

「越前の守護大名」として勢力を築き上げた朝倉氏。

しかし朝倉義景の代になって、織田信長に攻め滅ぼされてしまいます。

織田に引けをとらない実力を有していたはずなのに、あっけなく滅ぼされてしまったのはなぜでしょうか。

史料や文献をひもとくと、朝倉一族の内部抗争がその発端となっていたようです。

朝倉景垙の「自決」

朝倉氏は義景の惣領家を、敦賀郡司家と大野郡司家の二大分家が支えていました。

敦賀郡司家は朝倉景紀(かげのり)、大野郡司家は朝倉景鏡(かげあきら。池内万作)が当主を務めていましたが、この両家はあまり仲がよくなかったそうです。

景紀は永禄元年(1558年)ごろに嫡男の朝倉景垙(かげみつ/かげみち)に家督を譲り、隠居しました。

永禄7年(1564年)に義景が加賀一向一揆の鎮圧に乗り出すと、景鏡と景垙で総大将の座を争ったと言います。

景垙はまだ若かったせいか、総大将としては認められず、結局は景鏡と朝倉景隆(かげたか)が総大将に任じられました。

後世の『朝倉始末記』などの軍記物では、これが禍根となって景垙と景鏡は陣中でも激しく口論したと伝えられています。
陣中で大将同士が対立する様子は、ほかの将兵にも少なからず動揺をもたらしたことでしょう。

そして9月2日、景鏡との対立が深まる中で、景垙はなんと自害してしまったのです。

いったい何を言い放ったらそこまで追い詰められたのか、口論の内容については詳しく伝わっていません。

いずれにしても、この一件が景垙と景鏡の対立を決定的なものにしたようです。

朝倉景恒の還俗

仏道に帰依していたが
ひとかどの大将が陣中で「自害」するという異常事態に、義景は急きょ自ら加賀へ出陣。何とか「一向一揆」の鎮圧に成功しました。

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