天下人・豊臣秀吉の「遺言状」
見出し・・秀吉の遺言、越前北庄城主の任命状を発見 五大老が連署「誰に」判明
豊臣家五大老連署状=福井県立歴史博物館提供
豊臣秀吉の遺言で前田利家や徳川家康ら五大老が、越前の北庄(きたのしょう)城主を任命した連署状が新たに見つかった。写しによって内容だけがわかっていたが、原本の発見で「いつ」「誰を」任命した書状かが判明したという。
北庄城は、福井市にある福井城の前身。連署状は福井県外の古書店で見つかり、県立歴史博物館が購入した。縦22・6センチ、横56・8センチで、秀吉の死後に豊臣政権を支えた五大老の毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、前田利家、徳川家康の直筆の花押が記されている。
北庄城と20万石の領地を秀吉の遺言に従って給付するという内容は、毛利家文書に残った写しで判明していた。だが、宛先は「羽柴北庄侍従殿」としか書かれていない。
北庄城は1575年に柴田勝家が築城して以後、1601年に家康の次男の結城秀康が今の県庁がある場所で再築を始めるまでの間に、城主がめまぐるしく交代している。そのため、この五大老の書状が誰を任命したものかは、写しではわからなかった。
■「謎」解く鍵は原本に記された……
だが、今回見つかった原本には慶長4(1599)年2月5日という日付の記載があった。そこから、秀吉のいとこで直臣だった青木重吉宛ての書状だと判明したという。
同館の大河内勇介学芸員は、秀吉亡き後の一族の配置は「越前が豊臣政権にとって日本海流通の重要拠点ととらえられていたことを示す」と話す。そして、「秀吉の幼なじみの利家が、最晩年に家康の暴走を食い止め、秀吉の遺言を実行したことを伝える貴重な史料」とも言う。
秀吉が死去したのは1598年。利家もその8カ月後に亡くなっており、この書状が送られたのは利家が亡くなるわずか2カ月前だった。利家を含めた五大老の連署で所領を給付する文書の原本が確認されたのは、3例目だという。
連署状は、5月15日~7月7日に同館のミニ展示「秀吉と越前の武将たち ~新収蔵古文書を中心に~」で公開される
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天下人・豊臣秀吉の「遺言状」
見出し・・秀吉の遺言、越前北庄城主の任命状を発見 五大老が連署「誰に」判明
豊臣家五大老連署状=福井県立歴史博物館提供
豊臣秀吉の遺言で前田利家や徳川家康ら五大老が、越前の北庄(きたのしょう)城主を任命した連署状が新たに見つかった。写しによって内容だけがわかっていたが、原本の発見で「いつ」「誰を」任命した書状かが判明したという。
北庄城は、福井市にある福井城の前身。連署状は福井県外の古書店で見つかり、県立歴史博物館が購入した。縦22・6センチ、横56・8センチで、秀吉の死後に豊臣政権を支えた五大老の毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、前田利家、徳川家康の直筆の花押が記されている。
北庄城と20万石の領地を秀吉の遺言に従って給付するという内容は、毛利家文書に残った写しで判明していた。だが、宛先は「羽柴北庄侍従殿」としか書かれていない。
北庄城は1575年に柴田勝家が築城して以後、1601年に家康の次男の結城秀康が今の県庁がある場所で再築を始めるまでの間に、城主がめまぐるしく交代している。そのため、この五大老の書状が誰を任命したものかは、写しではわからなかった。
■「謎」解く鍵は原本に記された……
だが、今回見つかった原本には慶長4(1599)年2月5日という日付の記載があった。そこから、秀吉のいとこで直臣だった青木重吉宛ての書状だと判明したという。
同館の大河内勇介学芸員は、秀吉亡き後の一族の配置は「越前が豊臣政権にとって日本海流通の重要拠点ととらえられていたことを示す」と話す。そして、「秀吉の幼なじみの利家が、最晩年に家康の暴走を食い止め、秀吉の遺言を実行したことを伝える貴重な史料」とも言う。
秀吉が死去したのは1598年。利家もその8カ月後に亡くなっており、この書状が送られたのは利家が亡くなるわずか2カ月前だった。利家を含めた五大老の連署で所領を給付する文書の原本が確認されたのは、3例目だという。
連署状は、5月15日~7月7日に同館のミニ展示「秀吉と越前の武将たち ~新収蔵古文書を中心に~」で公開される