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ただの猫 2026/04/21 (火) 19:04:53

  豊臣秀吉が 天下統一で 快進撃

ある識者の解説を 次の投稿で分かりやすく説明

とは 言っても戦国時代 無数の武将たちが「複雑に絡まり合い」説明も難しい

見出し・・【四国戦国史】巨大権力の介入を撥ね退けろ!長宗我部元親、執念の第二次十河城の戦い

中央からの刺客撃退と、苛烈な焦土作戦

第一次十河城の戦いでの泥沼の撤退から年が明けた1583年、ついに中央の覇者・羽柴秀吉が本格的な介入を開始します。

仙石秀久や小西行長といった有力な配下を讃岐へ派遣しましたが、長宗我部軍は水際で反撃し、これを幾度も撃退しました。

同時に、元親の本隊は阿波から讃岐へ侵攻し、十河存保が籠る虎丸城へ総攻撃を仕掛けます。

存保の激しい抵抗に遭うと、元親は再び周辺の農作物を刈り取る麦薙(むぎなぎ)による兵糧攻めを決行。

さらに、引田城に入った仙石秀久の軍を引田の戦いで見事に打ち破り、淡路国へと敗走させました。

劣勢を悟った存保は虎丸城を放棄し、かつて元親を苦しめたあの難攻不落の十河城へと再び籠城することになります。

巨大ネットワークのジレンマと足元の敵
この頃、中央では秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が激突する小牧・長久手の戦いが勃発していました。

家康は、巨大な反秀吉ネットワークの一員である元親に対し、「淡路国へ進軍して秀吉の背後を脅かしてほしい」と強い要請を送ります。

しかし、元親はこの魅力的な広域戦略に即座に乗ることができませんでした。

伊予国での毛利氏の脅威に加え、足元である讃岐に十河城という強力な敵対拠点が未だ健在だったからです。

目の前の十河氏を完全に排除しなければ、淡路への進出は自身の領土の崩壊を招く致命的なリスクを孕んでいました。

巧みな切り崩しと、執念の落城劇
四国の完全平定を急ぐ元親は、単純な力押しではなく調略いう外交カードを切ります。

十河軍の強力な傘下であった寒川氏や由佐氏を寝返らせることに成功し、雨滝城をはじめとする十河城の支城(防衛網)を次々と陥落させていきました。

そして1584年

孤立無援となった十河城は、ついに長宗我部軍の前に陥落し、第二次十河城の戦いは終結します。

しかし、総大将の存保とその重臣たちは落城前夜に密かに城を脱出しており、堺へと逃れて秀吉の配下に収まりました。

完全な討ち取りこそ逃したものの、この勝利に同盟相手である織田信雄は大いに歓喜し、元親の弟に祝着の書状を送っています。

中央の巨大権力による介入を跳ね除け、大局的な誘惑(家康からの出兵要請)に焦ることなく、着実に足元の敵を切り崩して讃岐平定という悲願を達成した元親。

その冷徹でブレない戦略眼が、長宗我部氏を四国最大の勢力へと押し上げたのです。

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