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ただの猫 2026/04/22 (水) 06:47:58

 姉川に戦いで「先制攻撃:したのは 朝倉+浅井

見出し。。。姉川の戦いは「信長への奇襲」だったのか?一次史料が示す衝撃の可能性

姉川の戦いといえば、織田・徳川連合軍が浅井・いる。しかし、その戦いがどのように始まったのかについては、意外にも見過ごされてきた点がある。

 実は、姉川の戦いは織田・徳川連合軍の攻撃ではなく、浅井・朝倉連合軍による「奇襲攻撃」によって始まった可能性が指摘されている。もしこれが事実であれば、従来の姉川の戦い像は大きく見直されることになる。本稿では、合戦直後に記された一次史料をもとに、姉川の戦いの実像について改めて検討してみたい。

一次史料が伝える姉川の戦いの経過
 姉川の戦いの経過を詳しく記す史料として知られているのが、元亀元年(1570)6月28日付の織田信長書状(細川藤孝宛:「津田文書」)と『信長公記』である。特に前者は、合戦直記録であり、当時の状況を知るうえで貴重な史料といえる。

 それによると、元亀元年(1570)6月28日午前10時頃、浅井・朝倉連合軍は味方である横山城(滋賀県長浜市)を救援するため、野村まで進軍したという。浅井軍は5~6千、朝倉軍は約1万5千の軍勢だったとされる。その直後、信長軍は浅井・朝倉連合軍を攻撃し、最終的に勝利を収めた。

 戦場周辺は死骸で埋め尽くされ、信長軍が討ち取った敵の首も無数に及んだという。仮に横山城の城兵が降参を申し出たとしても、信長はこれを決して許さないという強い決意を示していたことも記されている。

「先陣争い」は美談ではなかった可能性
 淡海文化研究所所長の太田浩司氏は、信長書状の追而書(おってがき:追伸)に注目している。そこには、信長の馬廻衆と徳川家康が先陣争いを演じ、家康は池田恒興らに朝倉軍との戦いを命じ、信長の馬廻衆が浅井軍と戦ったと記されている。

 この記述だけを見ると、勇ましい先陣争いの様子が思い浮かぶ。しかし、太田氏はこの点について異なる見方を提示している。太田氏によれば、横山城を攻囲していた織田軍には、姉川の南岸まで回り込む時間的余裕がなかったという。

 そのため、信長と家康は自ら陣頭に立って戦わざるを得ない状況に置かれていたと指摘する。つまり、「先陣争い」という華々しい表現の背後には、実際には予期せぬ事態への緊急対応という現実があった可能性がある。

『信長公記』にも見える「奇襲」の気配
 浅井・朝倉連合軍による奇襲を匂わせる記述は、『信長公記』にも確認することができる。同書は、浅井・朝倉連合軍の南下について、「退却するのではなく、戦いを挑んできた」と記している。この表現は一見すると単なる戦闘開始の描写のようにも見える。

 しかし太田氏は、この記述が信長側の失態を目立たせないための表現、いわばカムフラージュの意味を持っていた可能性を指摘している。もし浅井・朝倉連合軍が主導的に攻勢をかけていたとすれば、信長側が不意を突かれた状況にあった可能性も考えられる。

勝利の裏にあった「危機的状況」
 とはいえ、最終的に織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍を撃退し、勝利を収めることに成功した。しかし、その勝利は決して一方的なものではなかった。浅井・朝倉連合軍は壊滅的打撃を受けたわけではなく、その後も抵抗を続け、滅亡までには3年もの歳月を要している。

 この事実は、姉川の戦いが単なる圧勝ではなく、緊迫した状況の中で辛うじて得られた勝利だった可能性を示している。

姉川の戦い像は見直されるべきか
 姉川の戦いは、織田・徳川連合軍の勝利として語られることが多い。しかし、その戦いの始まりに目を向けると、浅井・朝倉連合軍による奇襲の可能性が浮かび上がってくる。

 もし信長側が不意を突かれていたのだとすれば、従来の「整然とした戦闘開始」というイメージは、大きく修正される必要があるだろう。

主要参考文献

太田浩司「文献から探る姉川合戦」(渡邊大門編『信長軍の合戦史 1560-1582』吉川弘文館、2016年)など。

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