歴史マニア識者が まだまだ続ける歴史者
この識者、脳髄まで、歴史漬者の・・たくあん になっている
またもや「姉川の戦い歴史物」で 2人の猛将が対決した歴史
「織田信長+徳川家康」軍の「猛将」 と「浅井+朝倉」軍の「猛将」が「姉川の戦い」で 一騎打ちで戦ったと言う
これは 中国も同じ 秦王朝の猛将軍の「章郭(しょうかく)」と 楚の猛将軍の項梁(こうりょう)が「戦場で一騎打ち」
「楚の猛将軍だった項梁」が敗れ戦死 そのため 甥の項羽が、大将軍になり、叔父の復讐を誓い 秦の猛将軍・章郭を滅ぼす
見出し・・・身長210cmの巨漢武将・真柄直隆が本多忠勝に挑んだ!姉川の戦い「伝説の一騎打ち」の真相とは?
戦国時代には数多くの猛将が登場するが、その中でもひときわ異彩を放つ存在がいる。身の丈2メートルを超える巨体を誇り、巨大な大太刀を振るったと伝わる武将――朝倉氏家臣・真柄直隆である。
さらに彼は、徳川家康家臣団最強の猛将として名高い本多忠勝と一騎打ちを行ったとも伝えられている。果たしてこの逸話はどこまで史実なのか。そして直隆は、どのような最期を遂げたのだろうか。姉川の戦いに残された記録を手がかりに、その実像に迫ってみたい。
新史料の発見で見えてきた真柄氏の実像
越前真柄(福井県丹生郡越前町)は真柄氏の出身地であり、現在も真柄直隆の碑が建立されている。近年になって、真柄氏に関する新史料「真柄氏家記覚書」(福井県立歴史博物館所蔵)が紹介された。同史料は、17世紀頃に成立したとされている。
天文5年(1536)、直隆は家正の子として誕生した。長らく父の名は不明とされてきたが、「真柄氏家記覚書」などによって家正の名が伝えられるようになった。弟が直澄である。
巨体と大太刀――「太郎太刀」「次郎太刀」の伝説
真柄直隆・直澄兄弟は朝倉氏の家臣として仕え、「太郎太刀」「次郎太刀」という巨大な大太刀を操った武将として知られている。直隆の身長は約210cmほどあったと伝えられており、当時としては規格外の大男であった。黒鹿毛の馬に乗り、武芸に優れていたという。
将軍・足利義昭が一乗谷(福井市)に滞在した際、直隆は2本の大太刀を十数回も頭上で振り回し、その武芸を披露したと伝えられている。義昭が大いに驚いたとされるのも、無理からぬことであろう。
現在、熱田神宮が所蔵する「太郎太刀」は、全長303cm、刃長7尺3寸(約221cm)という巨大なものである。重量は約4.5kgに及ぶ。熱田神宮には弟・直澄所用と伝わる「次郎太刀」も伝来しており、刃長は5尺5寸(約166cm)とやや短いが、それでも大太刀としては破格の大きさである。
姉川の戦い――本多忠勝との一騎打ちはあったのか
元亀元年(1570)6月、織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍は、姉川(滋賀県長浜市)で激突した。いわゆる姉川の戦いである。この戦いにおいて、直隆は弟・直澄、子の隆基とともに出陣した。
その際、直隆は「太郎太刀」を携えて徳川方の本多忠勝と一騎打ちに及んだとされている。忠勝は名槍「蜻蛉切」を振るう猛将として知られており、戦国最強クラスの武勇を誇った人物である。
しかし、戦いの途中で徳川方の攻撃が激しくなったため、直隆は忠勝との戦闘を中断して撤退したと伝えられており、両者の勝敗はつかなかったという。ただし、この一騎打ちの詳細については記述が乏しく、実際にどの程度の戦闘が行われたのかについては不明な点が多い。
向坂三兄弟との戦闘――壮絶な最期の真相
その直後、直隆は徳川方の向坂三兄弟に討たれたとされる。このとき直隆は、「我頸を御家の誉れにせよ」と言い残したという伝承が残されている。弟・直澄、子の隆基もこの戦いで命を落としたとされる。なお、直隆を討った刀は「真柄斬り」と称されたともいわれている。
しかし一方で、向坂三兄弟に討たれたのは父・家正であったとする説も存在する。このように、真柄氏に関する一次史料は多くなく、記録には少なからぬ混乱が見られるのが実情だ。
伝説と史実のはざまで――真柄直隆像をどう見るか
真柄直隆は、巨大な体躯と大太刀を操る豪勇の武将として広く知られている。しかし、その武勇譚の多くは軍記物や後世の伝承に依拠しており、史実として確認できる内容は決して多くない。本多忠勝との一騎打ちもまた、戦国ロマンを象徴する逸話の一つではあるが、詳細はなお謎に包まれている。