問題の「核心」が分からない日本人識者
4ページにも及ぶ ぐだぐだ解説
見出し・・4ページの1ページ目・・信長は比叡山に突然キレたわけではない…「焼き討ち」前年、8人の子を遺して宇佐山城を死守した忠臣の名前
森可成が織田信治の遺体を背負って戦う様子を描いた、落合芳幾画「太平記英勇伝 七十六:森三左エ門可成」(東京都立図書館所蔵)
「豊臣兄弟!」(NHK)で描かれる信長最大の暴挙ともいわれる「比叡山焼き討ち」。古城探訪家の今泉慎一さんは「その前年、比叡山と組んだ浅井・朝倉軍を食い止めるため、信長の家臣が30分の1の兵力で立ち向かい、戦死したという事件が起きた」という――。
【図表をみる】宇佐山城・比叡山延暦寺の位置
■信長vs比叡山、最前線の山城
第10回:宇佐山城(滋賀県大津市)
「豊臣兄弟!」(NHK)で姉川の戦いに勝利した織田信長(小栗旬)だったが、浅井・朝倉連合軍との争いはまだまだ続く。というより、むしろそこから争いが本格化していったと言っても過言ではない。
姉川の戦いが1570(元亀元)年6月、同年の9月から約3カ月間、「志賀の陣」が始まる。姉川は琵琶湖の東岸だったが、今度は同じ近江国でも西岸。浅井・朝倉と手を結んだ比叡山延暦寺(図表1①滋賀県大津市坂本本町4220)が、この争乱の中心となる。
対する織田家の最前線かつ最重要拠点が宇佐山城(図表1②滋賀県大津市宇佐山町)だ。延暦寺から南へ直線距離で5km弱。この城を任されたのが森(もり)可成(よしなり)。信長の小姓であり本能寺の変で共に死すことになる森蘭丸(成利)の父で、織田家でも有数の猛将として知られていた男だ。最前線でのその戦いぶりはいかなるものだったのか。宇佐山城の遺構を訪ねつつ探ってみたい。
■山そのものが険しい城塞
近江神宮の背後にそびえる宇佐山一帯の山頂が宇佐山城で、麓からの比高は180mとなかなかに険しい。近江神宮の南側にある登山道から見てとれる急峻さだけで、難攻不落の山城だということがよくわかる。
登山口から10分ほどで宇佐八幡宮。ここから先、登りが本格化する。
■森可成が防御を固めた宇佐山城
道はここまでの参道と一転し、神社の本殿裏を回りこんだ先から本格的な山道に。勾配も全く異なる。宇佐山城ははるか頭上で、どのぐらい先にあるのかさえ不明。急勾配なので、つづら折りに何度も向きを変えながら、ひたすら進む。道幅は徐々に狭くなってくる。崖っぷちのわずかにつけられた山道だけが頼り。
これらは全て自然地形のままと思われるが、どこに城を築くかも築城者の腕の見せどころ。というか、山城ではそれが最重要といってもよいかもしれない。急造される場合が多い陣城(戦場に築かれた前線基地)なら尚更。この場所を選んだのは信長か可成か。いずれにしろ慧眼といえる。