核心がハッキリ分かってない識者
明知光秀が「本当に善人だったのか?」 そんな事は学生時代に言うセリフ
見出し・・・明智光秀は本当に「善人」だったのか?比叡山焼き討ちに積極関与した証拠と
織田信長による比叡山焼き討ちは、戦国史の中でも特に衝撃的な出来事として知られている。一般には信長の苛烈な行動として語られることが多いが、その裏側では家臣たちも重要な役割を担っていた。その中でも注目すべき存在が、後に本能寺の変を起こす明智光秀である。
実は光秀は、この比叡山焼き討ちにおいて積極的な役割を果たしていた可能性が高い。いったい光秀はどのように関与していたのか。その経緯を史料からたどってみたい。
比叡山焼き討ちへと至る緊迫の情勢
元亀2年(1571)2月、浅井氏の家臣で佐和山城(滋賀県彦根市)を守備していた磯野員昌が、突如として織田方に寝返った。佐和山城は美濃と近江を結ぶ交通の要衝であり、この離反は浅井氏にとって大きな打撃となった。
信長は磯野氏の代わりとして、家臣の丹羽長秀を佐和山城に配置した。同年5月、信長は長島の一向一揆と戦ったものの、意外にも敗北を喫している。その一方で、顕如の子・教如と朝倉義景の娘との縁談が成立し、反信長勢力の結束は強まりつつあった。
同年8月、信長は浅井氏を攻めるため出陣し、さらに金森(滋賀県守山市)まで軍を進めた。ここは近江一向一揆の拠点であったが、最終的に一向一揆側は降参し、人質を差し出すこととなったのである。
和睦を拒み続けた比叡山の強硬姿勢
こうした情勢の中で、比叡山延暦寺もまた反信長の姿勢を鮮明にしていった。もともと比叡山は信長との和睦に消極的で、交渉への返答も滞りがちであった。交渉を担当していた二条晴良は憤慨し、信長自身も同様の不満を募らせていたと考えられる。
信長は比叡山が要請に応じないことに加え、いちおう和睦が成立したものの近江から撤退せざるを得なかった無念を晴らそうと考えた(『信長公記』)。こうして決断されたのが、後世に悪名高い比叡山焼き討ちであった。
光秀は裏方ではなかった―土豪調略という重要任務
比叡山焼き討ちに際し、明智光秀は単なる従軍者ではなかった。同年9月2日、光秀は和田秀純に宛てて書状を送っている(「和田家文書」)。和田氏は、宇佐山城からほど近い雄琴(滋賀県大津市)の土豪であった。
秀純は近隣の土豪である八木氏とともに光秀に味方することを約束し、鉄砲や弾薬の補給を受けたうえで仰木(同大津市)の攻略にあたることになった。これは、焼き討ち作戦の周辺地域を制圧するための重要な準備であったとみられる。
さらに信長は志村城(滋賀県東近江市)を攻略し、その後は長光寺(滋賀県近江八幡市)に全軍を結集する計画だったという。光秀は近江の土豪を調略する任務を担っており、この作戦の進行に深く関与していたのである。光秀が焼き討ちに積極的に関わっていた可能性は、こうした史料からも読み取ることができる。
焼き討ち後に待っていた光秀の大出世
比叡山焼き討ちが行われた後、信長はただちに家臣たちへ恩賞を与えた。光秀には志賀郡が与えられている。志賀郡は現在の大津市域の大部分を占め、比叡山の東麓に位置する重要な地域であった。
光秀が坂本城を築いたのも、この比叡山麓の坂本である。坂本は山中越えによって京都の白川へ至る交通の要衝であり、軍事・政治の両面で極めて重要な地点だった。つまり、この所領付与は単なる恩賞ではなく、信長からの厚い信任を示すものだったといえるだろう。