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ただの猫 2026/04/29 (水) 06:42:26

 思いやりがない日本識者 杜撰な解説

解説文に登場する「天台座主の曼殊院覚怨」とは何か 読めるよう、ふりがな もない

『甲陽軍鑑』とは何か 簡単な説明もない

自分に分かっていても「他者には分からない事すら」分からないバカ識者

なぜ織田信長が「比叡山焼き討ち」したのか 原因を説明してない

見出し・・・織田信長を「天魔」と断じた武田信玄――比叡山焼き討ち後に取った“意外な行動”とは?

 織田信長による比叡山焼き討ちは、当時の人々に計り知れない衝撃を与えた。

 では、この出来事を知った武田信玄は、いったいどのように受け止め、どのような行動を取ったのだろうか。信長を「天魔」とまで非難した信玄の反応と、その後の動きを史料から探ってみたい。

比叡山焼き討ちがもたらした大きな衝撃
 元亀2年(1571)9月12日、織田信長は比叡山を焼き討ちにした。焼き討ちにより、根本中堂ほかの建物は焼失し、僧侶や山下に住む老若男女も殺害された。その死者の数は史料にもよるが、1,500から4000人と記録されている。

 山科言継は比叡山焼き討ちについて、自身の日記『言継卿記』の中で「仏法破滅」と記している。当時の公家がこの出来事をどれほど重大視していたかがうかがえる記述である。ところで、この比叡山焼き討ちを知った武田信玄は、どのように思ったのだろうか。その後の対応も含めて見ていこう。

信長を「天魔」と非難した武田信玄
 元亀4年(1573)1月11日、信玄は上野中務大夫に書状を送った(「京都御所東山御文庫記録」)。その中で信玄は、信長の比叡山焼き討ちについて「仏法王法破滅」と記し、信長は天魔の変化(へんげ)であると称した。

 天魔とは仏道修行を妨げる悪魔のことで、第六天魔王とも呼ばれる存在である。つまり信玄は、信長の行為を仏法を破壊する悪魔の所業と見なしていたことになる。

 このように信長を悪魔のように形容した史料は、ほかにも見られる。「続常陸遺文」は比叡山焼き討ちの出来事を記し、信長を指す「上総守(原文ママ)」の脇に「信長ト云鬼也」と注記している。比叡山の建物を焼き払っただけでなく、人々を大量に殺害した信長を「鬼」と表現したのである。

延暦寺が頼ったのは武田信玄だった
 元亀3年(1572)1月、延暦寺の僧侶は越前国一乗寺で、堂塔の再興について話し合った。しかし、再興には莫大な経費がかかることは明らかだった。そこで延暦寺が頼りにしたのが、ほかならぬ武田信玄である。

 同年3月17日、延暦寺の衆徒は天台座主の曼殊院覚怨に書状を送った(「曼殊院文書」)。その内容は、再興のための費用について信玄に依頼してほしいという要請だった。畿内やその周辺はすでに信長の勢力が及んでいたため、遠方であり、なおかつ信長に敵対する信玄を頼ろうとしたのである。

信玄が構想した「もう一つの比叡山」計画
 これに関連して、『甲陽軍鑑』は興味深い記事を記している。信玄は比叡山焼き討ちの後、日蓮宗の身延山に比叡山を再興しようとしたという。その際には、大規模な寺院を建てる計画があったとされる。

 身延山の僧侶は、日蓮上人の御影の前で籤を引いたが、許可する旨の籤を引くことはなかったと伝えられている。この結果によって、再興計画は実現しなかったというのである。ただし、信玄が身延山に比叡山を再興しようとしたという話については、ほかに裏付けとなる確かな史料は確認されていない。

信玄の急死によって消えた可能性
 翌元亀4年(1573)4月12日、信玄は信濃国駒場で急死した。信長の比叡山焼き討ちが、武田信玄に強い衝撃を与えたことは疑いない。

 信長を「天魔」とまで非難したその反応は、当時の宗教観や価値観を知るうえでも、きわめて重要な意味を持つといえるだろう。

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