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ただの猫 2026/05/02 (土) 06:10:21

 邪馬台国は、佐賀の「吉野ケ里」

日本人は世界一頭が鈍感・理解力がない

見出し・・・卑弥呼の墓か?吉野ヶ里遺跡「謎のエリア」発掘で何が分かったのか

邪馬台国への入口
相当昔のことになるが、大学で歴史学を学んでいた筆者は、自他ともに認める異端児だった。

文献史学を専攻しながらアルバイトで金がたまると、授業そっちのけで奈良県明日香村へ通い詰めていた。
民宿に宿をとり、一度行くと最低でも2週間は帰ってこない。

何をしているのかというと、山林に分け入って、終末期古墳を探していたのだった。
私にとって歴史とは、そこに登場する人物に対しての一種の謎解きゲームのようなものだった。

だから、定説を素直に受け入れる気などさらさらなかった。
「分からないなら自分で確かめればいい」、飛鳥時代の人物を知るには、その奥津城を見るのが一番早いと思ったからだ。

そして、ジジイと呼ばれる年代になったいまも、暇ができれば、奈良県内を彷徨っている。
特にここ十年は、邪馬台国畿内説の中枢ともいえる纏向(まきむく)遺跡に足を運ぶことが多い。

画像:吉野ヶ里遺跡 南内郭
だが実を言えば、邪馬台国に興味を持ち始めた当初、筆者は九州説に強く惹かれていた。
その流れで、何度も佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡を訪れている。

ところがいつの間にか自分の中で「邪馬台国は纏向である」という考えが当たり前になっていった。

そんな筆者の目には、2023年(令和5年)春のあの報道は、少しばかり複雑に映った。

それは「ついに卑弥呼の墓か?」とまで騒がれた、吉野ヶ里の石棺墓発見のニュースである。

発掘できなかった「謎のエリア」がついに動く

画像:吉野ヶ里遺跡 謎のエリア(佐賀県 文化課文化財保護・活用室HP)
2022年(令和4年)、佐賀県の吉野ヶ里遺跡において「謎のエリア」と呼ばれる場所の発掘調査が開始された。

この場所は、同遺跡の中でも高台にあり、かねてから注目されていた場所であったが、江戸時代創建の日吉神社が鎮座していたため発掘調査ができない状態にあった。

しかし神社が移転したため、念願の調査が行えるようになったのだ。

調査開始とともに、現場からは弥生時代の甕棺(かめかん)が次々に出土した。
だが、棺の中に残されていた弥生人の足の骨は、卑弥呼の時代より古いものであった。

そもそも吉野ヶ里遺跡が邪馬台国かという論争においては、「3世紀中頃にはすでに衰退に向かっていた」という見解が有力である。
当初の調査結果を受けて、「やはりそうか」と感じた人も多かったのではないだろうか。

しかし、佐賀県は調査を継続した。

そして2023年4月下旬、事態は急展開を迎えたのである。

山口知事の会見が呼んだ「卑弥呼フィーバー」

画像:吉野ヶ里遺跡で発掘された石棺墓(佐賀県吉野ヶ里町)
「謎のエリア」の丘陵頂部で、弥生時代後期とみられる石棺墓が発見されたのである。

これを受け、佐賀県知事の 山口祥義 は内部調査前に緊急記者会見を開いた。
内容は主に次の通りである。

・石棺墓は、見晴らしのいい丘陵部の頂上部にある。
・墓壙(穴)が通常よりも大きい。
・弥生後半から終末期の有力者の墓の可能性が高い。

吉野ヶ里遺跡は、1989年にも大規模な発掘成果をきっかけに「邪馬台国ではないか」と大きく報じられ、全国的なブームを巻き起こしたことがある。

今回の記者会見を受けて、当時の熱気を思わせるようにマスコミによる報道が相次ぐことになった。

「卑弥呼の墓ではないか」
「邪馬台国=吉野ヶ里か」

ワイドショーやニュースまでが、この話題で連日持ちきりとなった。

見方によっては、やや異常ともいえる報道合戦が展開されたのである。

石棺の中から見えてきた、本当に重要なこと

画像:石棺墓を慎重に型取りし、成形したレプリカ(吉野ヶ里遺跡展示室)
今回の吉野ヶ里での石棺墓の発見は、たしかに歴史ファンだけでなく、普段歴史に馴染みのない人の興味を掻き立てるものである。

そのような中、出土した石棺墓の蓋が持ち上げられ、内部の調査が始まった。
棺内は土砂で埋まっており、調査チームは、それを一日数センチずつ一週間かけて掘り下げていった。

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