神道と仏教
ある識者が 神道と仏教について解説しているが「核心」が分かってないので
4ページに及ぶ ぐだぐだ解説
見出し・・4ページの1ページ目・・聖典も教えもない神道が仏教と共存できた驚きの理由【世界ではほぼあり得ない】
キリスト教とイスラム教の対立のように、世界では宗教観の違いが争いの火種になることが珍しくない。しかし日本では、神道と仏教という大きく異なる宗教が共存してきた。日本人特有の宗教観の謎を専門家が解き明かす。※本稿は、宗教学者の島田裕巳『大乗仏教はなぜ日本人を魅了したのか』(扶桑社)の一部を抜粋・編集したものです。
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● どの宗教の分類にも 当てはめられない神道
宗教の分類の仕方としては、様々なものがある。
「世界宗教」と「民族宗教」という分け方がある。民族宗教が、1つの民族において信仰され、その外側には広がっていかないのに対して、世界宗教は、民族の枠を超え、広い地域で信者を獲得していく。
神道は、日本でのみ信仰されているので、民族宗教の1つになる。他に、中国の道教や儒教、インドのヒンドゥー教、それにユダヤ教などが民族宗教に分類される。一方で、仏教、キリスト教、イスラム教は世界宗教としてとらえられる。
それとは別に、「創唱宗教」と「自然宗教」という分け方もある。
自然宗教は、それぞれの民族において自然発生した宗教をさし、民族宗教ともおおむね重なる。それに対して創唱宗教は、特定の創唱者、つまりは教祖、開祖が存在する宗教のことをさしている。
世界宗教はすべて創唱宗教になるが、道教や儒教においても、老子や孔子といった開祖がいる。その点で、この中国生まれの宗教は民族宗教でありつつ創唱宗教であることになる。神道には創唱者に相当する人物はいないが、ユダヤ教でも、モーセは神から十戒を授かっており、その点では創唱者にかなり近い。
こうした分類の仕方は、宗教学の世界で広く用いられているものだが、私は、神道については「ない宗教」としてとらえられるのではないかと考えている。その方が、神道の性格をより正しく理解できるように思えるからである。
神道は意外に説明するのが難しく、果たして宗教なのかどうかからして問題になるのだが、「ない宗教」という形でとらえると、とたんに見通しがよくなってくる。
神道の場合、誰か特定の創唱者がいるわけではない。後には、仏教の影響を受けて、様々な神道の流派が生まれ、そこでは創唱者にあたる人物も現れる。だが、神道全体に特定の創唱者はいない。
創唱者がいないということは、教えがないということである。「神道の教えは何だろうか」と考えたとき、私たちが、その具体的な内容を思い起こすことができないのも、それが関係する。
● 神道には聖典もなければ 創唱者も聖職者もいない
教えがなければ、それを記した聖典も生まれようがない。仏教には仏典、キリスト教には聖書、そしてイスラム教にはコーランがあるが、神道にはそれに相当するものがないのだ。
そうしたこととも関連するが、神道には聖職者にあたるような人物もいない。現在では神主と呼ばれる人たちがいて、彼らは神社で祭祀を行っており、それを専門としている。
けれども、歴史を遡ってみるとプロの神主は存在しなかった。いたとしてもその数は少なく、役割もさほど重要ではなかった。仏教と一体化していた時代には、僧侶が神社を管理運営していた。
その点は、天皇家が営む「皇室祭祀」のことを考えればいいだろう。神を祀る役割を果たすのは天皇であり、天皇は専門の神主というわけではない。村で行われる神社の祭祀でも、昔は村人が当番制であたるのが一般的だった。現在でも、そうした伝統が守られている地域はいくらでもある。
宗教の本質として救いを与える、救済の手段を提供するということが言われることは多い。だが、神道には、救いの手立てもない。人々は神に対して祈願はするものの、それが救済に結びつくとは考えられていない。
このように、神道の本質は「ない宗教」ということにある