二万五千頌般若経の抜粋によって編纂された経典。『二十五頌般若経』。
shumi
ダルマ太郎
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般若波羅蜜多心経
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唐三藏法師玄奘譯
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経:觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不増不減。是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。眞實不虚故。説般若波羅蜜多咒
即説咒曰
掲帝掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶
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般若波羅蜜多心經
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般若波羅蜜多心経の訳
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觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
観自在菩薩は、深く智慧の完成の道を行じた時、この世界を構成する要素には実体が無いと見極め、一切の苦厄から離れた。
舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
シャーリプトラよ。事物は、空と離れていない。空は、事物と離れていない。事物、それは即ち空である。空、それは即ち事物である。感じること・想うこと・決めること・認識も同様である。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不増不減。
シャーリプトラよ。このように、すべての事象は空であり、特徴が無いことから、生じることは無く、滅することは無い。汚れることは無く、浄いということは無い。増えることは無く、減ることは無い。
是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。
このことから、空においては、事物は否定され、感じること・想うこと・決めること・認識は否定される。外界を感受する眼・耳・鼻・舌・肌・心は否定され、感受の対象である現象・音・香り・味・触れるもの・想うことは否定され、感受によって生じる眼界は否定され、ないし意識界は否定される。
無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得。
無明は否定され、無明を滅尽することは否定され、ないし老死は否定され、老死を滅尽することは否定される。苦集滅道は否定され、智慧は否定され、智慧を得ることは否定される。よって、得るところは否定される。
故菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
このことから、菩薩は智慧の完成によって、心には何の執着も無い。執着が無いので恐怖は無い。すべての誤った思想や妄想から遠く離れている。そして、究竟して涅槃に入っている。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
過去・未来・現在の諸仏は、智慧の完成によって、最高の覚りを得ている。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。眞實不虚故。説般若波羅蜜多咒
このことから、般若波羅蜜多は大いなる真言であると知る。これは大いなる智慧の真言であり、この上のない真言であり、他と比べることのできない真言であり、よく一切の苦を除く。真実にして、偽りがない。このことから、般若波羅蜜多の真言を説く。
即説咒曰 掲帝掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶
では、真言を説こう。
羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。
ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー ハラソーギャーテー ボージーソワカ
般若波羅蜜多心經
智慧の完成の要約についての教え
般若波羅蜜多心経の解釈-1
タイトルの意味
般若とは、サンスクリットのプラジュニャー prajñā の音写です。「教訓、判断、識別、知能、知恵、智慧、目的、決心」などの意味があります。仏教で般若というときは、「智慧」を意味することが多いです。しかし、プラジュニャーの音写が般若だというのは合点がいきません。もしかしたら、パーリ語のパンニャー paññā からの音写かも知れません。
智慧とは、事象の背後にある真理を見極める能力のことです。この真理は、眼耳鼻舌身によって知りえるものではなく、思考によっても分からないことです。不可思議であり、言語道断ですから、言葉によって伝えることもできませんから、普通の人では見極めることは難しいとされます。
波羅蜜多とは、パーラミター pāramitā の音写です。「完成・到彼岸・度」などの意味があります。般若波羅蜜多で、「智慧の完成」を意味します。
心とは、フリダヤ hṛdaya の訳です。「心臓・肝要・中心・核心・本質・最良の部分」などの意味があります。よって、般若波羅蜜多心で、「智慧の完成の肝要」という意味です。フリダヤには、「呪文」の意味があるともいわれます。
サンスクリット経典では、プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ prajñā-pāramitā-hṛdaya ですので、経にあたるスートラ sūtra がありませんが、日本では、般若波羅蜜多心経というように、経をつけてタイトルにしています。
サンスクリットの般若心経
Prajñāpāramitā-hṛdaya
プラジュニャーパーラミター・フリダヤ
oṃ namo bhagavatyai ārya prajñāpāramitāyai!
オーン ナモー バガヴァトヤイ アーリヤ プラジュニャーパーラミターヤイ!
ārya-avalokiteśvaro bodhisattvo gambhīrāṃ prajñāpāramitā caryāṃ caramāṇo vyavalokayati sma:
panca-skandhās tāṃś ca svabhava śūnyān paśyati sma.
アーリヤ・アヴァロキテーシュヴァロー ボディサットヴォ ガンビーラーン プラジュニャーパーラミター チャリヤーン チャラマーノ ヴィヤヴァローカヤティ スマ:
パンチャー・スカンダース ターンシュ チャ スヴァーバーヴァ シューニャーン パシュヤティ スマ.
iha śāriputra: rūpaṃ śūnyatā śūnyataiva rūpaṃ; rūpān na pṛthak śūnyatā śunyatāyā na pṛthag rūpaṃ; yad rūpaṃ sā śūnyatā; ya śūnyatā tad rūpaṃ. evam eva vedanā saṃjñā saṃskāra vijñānaṃ.
イハ シャーリプトラ: ルーパン シュニャター シュニャタイヴァ ルーパン: ルーパン ナ プリタック シューニャター シュニャターヤー ナ プリタッグ ルーパン: ヤド ルーパン サー シューニャター: ヤ シューニャター タド ルパン. エヴァン エヴァ ヴェダナー サンジュニャー サンスカーラ ヴィジュニャーナン.
iha śāriputra: sarva-dharmāḥ śūnyatā-lakṣaṇā, anutpannā aniruddhā, amalā avimalā, anūnā aparipūrṇāḥ.
イハ シャーリプトラ: サルヴァ・ダルマーハ シューニャター・ラクシャナー, アヌトパンナー アニルッダー, アマラー アヴィマラー, アヌーナー アパリプールナーハ.
tasmāc chāriputra śūnyatayāṃ na rūpaṃ na vedanā na saṃjñā na saṃskārāḥ na vijñānam. na cakṣuḥ-śrotra-ghrāna-jihvā-kāya-manāṃsi. na rūpa-śabda-gandha-rasa-spraṣṭavaya-dharmāh. Na cakṣūr-dhātur. yāvan na manovijñāna-dhātuḥ. na-avidyā na-avidyā-kṣayo. yāvan na jarā-maraṇam na jarā-maraṇa-kṣayo. na duhkha-samudaya-nirodha-margā. Na jñānam, na prāptir na-aprāptiḥ.
タスマーチャ・チャーリプトラ シューニャタヤーン ナ ルーパン ナ ヴェダナー ナ サンジュニャー ナ サンスカーラーハ ナ ヴィジュニャーナン. ナ チャクシュフ・シュロトラ・グラーナ・ジフヴァー・カーヤ・マナーンシ. ナ ルーパ・シャブダ・ガンダ・ラサ・スプラシュタヴァヤ・ダルマーハ. ナ チャクシュール・ダーツル. ヤーヴァン ナ マノヴィジュニャー・ダーツフ. ナ・アヴィドヤー ナ・アヴィドヤー・クシャヨ. ヤーヴァン ナ ジャラー・マラナン ナ ジャラー・マラナ・クシャヨ. ナ ドゥクハ・サムダヤ・ニローダ・マルガー. ナ ジュニャーナン, ナ プラープティル ナ・アプラープティヒ.
tasmāc chāriputra aprāptitvād bodhisattvasya prajñāpāramitām āśritya viharatyacittāvaraṇaḥ. cittāvaraṇa-nāstitvād atrastro viparyāsa-atikrānto niṣṭhā-nirvāṇa-prāptaḥ.
タスマーチャーリプトラ アプラープティトヴァード ボディサットヴァスヤ プラジュニャーパーラミターン アーシュリトヤ ヴィハラトヤチッターヴァラナーハ. チッターヴァラナー・ナスティトヴァード アトラストロ ヴィパルヤーサ・アティクラーント ニシュッター・ニルヴァーナ・プラープターハ.
tryadhva-vyavasthitāḥ sarva-buddhāḥ prajñāpāramitām āśrityā-anuttarāṃ samyaksambodhim abhisambuddhāḥ.
トゥルヤダヴァ・ヴィヤヴァスティターハ サルヴァ・ブッダーハ プラジュニャーパーラミターン アーシュリトヤー・アヌッタラーン サンヤクサンボディン アビサンブッダーハ.
tasmāj jñātavyam: prajñāpāramitā mahā-mantro mahā-vidyā mantro 'nuttara-mantro samasama-mantraḥ, sarva duḥkha praśamanaḥ, satyam amithyatāt. prajñāpāramitāyām ukto mantraḥ.
タスマージ ジュニャータヴィヤン: プラジュニャーパーラミター マハー・マントロ マハー・ヴィドヤー・マントロ アヌッタラ・マントロ サマサマ・マントラハ, サルヴァ ドゥクハ プラシャマナハ, サトヤン アミットヤタート. プラジュニャーパーラミターヤン ウークト マントラハ.
tadyathā:
gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā.
タドヤッター:
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スワーハー.
iti prajñāpāramitā-hṛdayam samāptam.
イテ プラジュニャーパーラミター・フリダヤン サマープタン
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サンスクリットの般若心経
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鳩摩羅什訳の般若心経
般若心経は、玄奘の訳が有名ですが、玄奘よりも先に鳩摩羅什が翻訳しています。『摩訶般若波羅蜜大明咒經』というタイトルです。短い経典ですから、紹介します。
摩訶般若波羅蜜大明呪経
姚秦天竺三藏鳩摩羅什訳
觀世音菩薩。行深般若波羅蜜時。照見五陰空。度一切苦厄。舍利弗色空故無惱壞相。受空故無受相。想空故無知相。行空故無作相。識空故無覺相。何以故。舍利弗非色異空。非空異色。色即是空。空即是色。受想行識亦如是。舍利弗是諸法空相。不生不滅。不垢不淨。不増不減。是空法。非過去非未來非現在。是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界乃至無意識界。無無明亦無無明盡。乃至無老死無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。菩薩依般若波羅蜜故。心無罣礙。無罣礙故無有恐怖。離一切顛倒夢想苦惱。究竟涅槃。三世諸佛依般若波羅蜜故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜是大明呪。無上明呪。無等等明呪。能除一切苦眞實不虚故説般若波羅蜜呪
即説呪曰 竭帝竭帝 波羅竭帝 波羅僧竭帝 菩提 僧莎呵
摩訶般若波羅蜜大明呪經
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二万五千頌般若経の抜粋
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般若心経は、二万五千頌般若経(摩訶般若波羅蜜経)の抜粋です。二十七巻という比較的長い経典をわずか260文字にまとめています。よって、要点だけを抜粋しているため、初心者には難解な内容です。ある程度、仏教を学んでいる人でも、般若心経だけを読んで理解できる人は少ないでしょう。二万五千頌般若経を読んだ者にしか理解できません。本屋に並んでいる般若心経の解釈本のほとんどは、二万五千頌般若経を読まずに解釈しているため、的を射たものは少ないです。ましてや、ネット上で公開されている解釈本は、とんちんかんなものがほとんどです。そういうものを読むことは、あまりおすすできません。
二万五千頌般若経を龍樹が解釈したのが大智度論です。大智度論は、100巻もある大作ですから、一般人で読んでいる人は少ないでしょう。二万五千頌般若経にしろ、大智度論にしろ、入手が困難なので、図書館などで読むしかありません。私は、国訳大蔵経全31巻を持っていますから、二万五千頌般若経・大智度論ともに、読むことができます。しかし、長すぎるので、全部を読むのには時間がかかります。
般若心経の最初の「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄」と、最後の「羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶」という呪文は、二万五千頌般若経にはありません。それ以外は、あります。有名な「色即是空。空即是色」という言葉は、5回も出てきます。二万五千頌般若経だと、詳しく「色即是空。空即是色」のことが説かれていますが、般若心経は、「色即是空。空即是色」とだけ書かれていますので意味が分かりにくいです。
「色即是空。空即是色」は、般若心経の核となる教義ですから、じっくりとお伝えしていきます。
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二万五千頌般若経の抜粋
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色即是空・空即是色-1
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摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二より
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経:舍利弗白佛言。菩薩摩訶薩云何應行般若波羅蜜。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見菩薩不見菩薩字。不見般若波羅蜜亦不見我行般若波羅蜜。亦不見我不行般若波羅蜜。何以故。菩薩菩薩字性空。空中無色無受想行識。離色亦無空。離受想行識亦無空。色即是空。空即是色。受想行識即是空。空即是識。何以故。舍利弗。但有名字故謂爲菩提。但有名字故謂爲菩薩。但有名字故謂爲空。所以者何。諸法實性。無生無滅無垢無淨故。菩薩摩訶薩如是行。亦不見生亦不見滅。亦不見垢亦不見淨。何以故。名字是因縁和合作法。但分別憶想假名説。是故菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見一切名字。不見故不著
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太郎訳:舎利弗は釈尊に言いました。
「菩薩摩訶薩は、どのようにして智慧の完成の行を行じるのですか?」
釈尊は、舎利弗に告げました。
「菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を行じる時、菩薩を見てはいけません。また、菩薩という字を見てはいけません。智慧の完成を見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていると見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていないと見てはいけません。なぜならば、菩薩・菩薩という字の性は、空だからです。空においては、事物現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。事物現象を離れて空は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用を離れて空はありません。事物現象、それは空であり、空、それは事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は、即ち空であり、空は、即ち認識作用です。なぜならば、舎利弗よ。ただ名と字が有るから、菩提というのです。ただ名と字が有るから菩薩というのです。ただ名と字が有るから空というのです。そのことが、何故言えるのかというと、諸々の真実の性は、生じることが無く、滅することが無く、垢が無く、浄くはありません。そのことから、菩薩摩訶薩は、このように行じて、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。なぜならば、名と字は因縁が和合することによって作られるからです。ただ、分けてみて、推測して想像することによって、仮に名を用いて説きます。これによって、菩薩摩訶薩は、智慧の完成の行を行じる時は、一切の名と字を見ず、見ないことによって執着しません」
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色即是空・空即是色-1
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色即是空・空即是色について
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色とは、ルーパ rūpa の訳です。「物質・形・色」の意味です。初期仏教では、肉体の意味で使われていましたが、部派仏教時代に物質的現象の意味で使われるようになりました。大乗仏教でも、物質的現象の意味で用いられます。
空とは、シューニャター śūnyatā の訳です。「欠如」という意味です。空瓶といえば、中身の入っていない瓶のこと、空席とは、誰も坐っていない席というように、あるべきものが欠如している状態を空といいます。大乗仏教になると、欠如しているのは、自性だとされました。自性とは、個の原理であり、主体であり、実体のことです。
色即是空は、「物質的現象、それは空である」と訳されます。つまり、すべての物質的現象には実体が無いという意味です。空をエネルギーのこと、霊界のこと、眼に見えないこと、などと解釈する人がいますが、いずれも空の意味から外れています。知恵袋などのネットでは、確信を持ってそのように説く人がいますが、それは空の意味ではありません。
物質的現象は、因縁和合によって生じます。決して、それだけの力で生じるのではなく、他の力だけで生じるのではありません。多くの因縁が和合することによって有るのですから、個々の物事には実体は無く、因縁の結果として生じている物事にも実体は有りません。もし、個々に実体が有るのなら、木は木のままですので、それを加工することはできません。実体が無いので、椅子や机や台などに加工できますが、ずっと木のままなら、それを加工できません。実体が有るのなら、種は種のままですから、発芽しないし、花が咲くこともありません。赤ちゃんは、いつまでも赤ちゃんのままです。実体が有れば、自然現象は、何の変化もなくなってしまいます。
色とは、五蘊の一つです。五蘊とは、世界を構成する五つの要素のことです。それは、色受想行識であり、物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用のことです。たとえば、そこにリンゴが有り、それを見て、リンゴだと想起し、食べたいと思えば、それをリンゴだと認識します。色が認識の対象であり、受想行識は心の働きです。世界を構成する五つのうち、四つが心だというのは仏教らしいですね。これは、仏教では、世界というのは、認識されてはじめて存在すると見るからです。たとえ、リンゴがそこに有っても、見なければ認識されませんので、無いのと同じです。
五蘊が縁起することで、私たちは世界を認識します。物質的現象を感受し、想起し、意志を持つことで認識作用が起こります。五蘊が縁起しなければ認識できません。因縁によるもの、それは空であり、仮であり、中だと龍樹は論じました。五蘊は縁起ですので、それぞれの要素は空です。よって、物質的現象は空であり、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は空です。このことからも、色即是空だといえます。また、受想行識即是空だといえます。
ところで、私たちは、はたして外部のものをあるがままに感受しているのでしょうか? 答えは否です。あるがままに感受できる機能を持っていないので、外部をあるがままに感受することはできません。眼は、光を感受し、それを信号にして脳に送り、脳で仮設しています。そして、その仮設した世界を私たちは事実だと思い、それを感受し、想起し、意志を持ち、認識しています。つまり、私たちが認識しているのは、仮の世界であって事実ではありません。よって、色即是仮だといえます。また、受想行識即是仮だといえます。このように、五蘊のすべては、心によって構成されています。
仏教では、あるがままの世界を真実だと言います。五感によっては真実を見ることはできません。真実を見ることができるのは、智慧のはたらきによります。智慧は、煩悩によって塞がっているために、まずは、煩悩を滅することが必要です。そのために八正道や六波羅蜜という行が重視されます。大乗仏教では、六波羅蜜の行が特に勧められます。六波羅蜜の六番目にある智慧を完成させること、つまり般若波羅蜜によって真実を観察できるからです。
色即是空を理解するためには、智慧が必要です。世界が仮であり、空であると知るには、一般的な知識や思考では無理です。瞑想に入り、深く思惟しなければ分かりません。一般人がいきなり瞑想をしても、雑念ばかりが沸き起こり、精神統一ができません。よって、瞑想に入る準備として、善行を為し(布施)、悪行を為さず(持戒)、心を浄化させます(忍辱)。つまり、六波羅蜜の実践が大事です。
色即是空は、比較的分かりやすいけれど、空即是色は難解です。意味は、「空、それは物質的現象である」と言われてもピンときません。どういう意味なのでしょう? このことは、般若心経だけを読んでも分かりません。二万五千頌般若経などの般若経を勉強する必要があります。八千頌般若経・金剛般若経でもいいです。
般若経には、「菩薩は菩薩ではない。よって菩薩という」というような意味不明な文がよく出てきます。これは、「菩薩には菩薩という固定した名は無い。よって、菩薩という名を仮につけることができる」ということです。名称のすべては、人類が仮に名付けたのですから、もともと事象には名称はありません。しかし、人は名があるために、そこに実体を見てしまい、執着します。すべては空なのですから、名は無く、字は無いので、執着の対象はありません。
空即是色というのは、一切が空だから、因縁和合が可能であって、仮に物質的現象をつくることが可能だということです。つまり、空即是色は、空の作用について述べています。
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色即是空・空即是色について
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摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二の解釈
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舎利弗が釈尊に、「菩薩摩訶薩は、どのようにして智慧の完成の行を行じるのですか?」と質問をします。菩薩とは、菩提(覚り)を求める人のこと、摩訶薩は、大いなる人ということです。大乗の菩薩のことです。
その質問に対し、釈尊が答えました。
「菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を行じる時、菩薩を見てはいけません。また、菩薩という字を見てはいけません。智慧の完成を見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていると見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていないと見てはいけません。なぜならば、菩薩・菩薩という字の性は、空だからです」
このように、釈尊は、菩薩が智慧の完成の修行をするのなら、菩薩を見ず、菩薩という字を見ず、智慧の完成を見ず、智慧の完成のための修行をしていると見ず、智慧の完成のための修行をしていないと、見てはいけないといいます。なぜなら、それらは、すべて空だからです。すべては空なのですが、人々は名があると、それには実体が有ると思ってしまいます。リンゴという名があれば、リンゴというものが有ると思ってしまいます。しかし、リンゴというのは、人がそのように名付けただけですから、それにはリンゴという名はありません。名が有ることで、実体が有ると思い込むことを釈尊は指摘しているわけです。言葉への不信は、仏教での大きなテーマの一つです。
「空においては、事物現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。事物現象を離れて空は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用を離れて空はありません」。普通の人は、空を通してものを見ませんが、ここでは、空を通して観察した場合を説いています。空を通して観れば、物質現象はありません。因縁によって仮に有る世界は、鏡に映った像のようなものですから、実体を見ることはできません。脳に仮設された世界は、テレビに映った世界のようなものですから、実体は無いのです。カメラが追う世界は実像ですが、それを私たちは感受できません。私たちは、鏡に映った世界、テレビに映った世界を見ていますので、そこに事物現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同様です。また、事物現象を観察することで空を知ることができますから、事物現象と空は離れていません。現象は空によって有り、空は現象によって有ります。
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「事物現象、それは空であり、空、それは事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は、即ち空であり、空は、即ち認識作用です。なぜならば、舎利弗よ。ただ名と字が有るから、菩提というのです。ただ名と字が有るから菩薩というのです。ただ名と字が有るから空というのです」。
事物現象だと思って見ているものは、実は自分の脳で仮設された世界ですので空です。実体は有りません。実体がないものが、私たちにとっての事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同様です。実体の無いものが認識作用です。なぜなら、実体が無くても、名称と字が有るから、菩提というのであり、菩薩というのであり、空と言います。
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「そのことが、何故言えるのかというと、諸々の真実の性は、生じることが無く、滅することが無く、垢が無く、浄くはありません。そのことから、菩薩摩訶薩は、このように行じて、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。なぜならば、名と字は因縁が和合することによって作られるからです」。
事物現象の真実の本性は、生じず、滅せず、垢が無く、浄くはありません。あらゆる特徴はありません。特徴とは、他との比較によってあるのですから、そのものだけでは、特徴は無いのです。特徴が無いので、菩薩は、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。名称と字は、因縁和合によって作られるのですから、実体は有りません。実体が無いものが、生滅することはありえません。
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「ただ、分けてみて、推測して想像することによって、仮に名を用いて説きます。これによって、菩薩摩訶薩は、智慧の完成の行を行じる時は、一切の名と字を見ず、見ないことによって執着しません」。
人が名称を付ける時、まわりとそれを分けます。ここに幾つかの果物が有る場合、それぞれの形や大きさ、色や香りで分類し、同じ種類のものに、リンゴ・バナナ・ミカンというように名をつけます。そして、まわりの人たちとの合意によって、広く使うことになります。このように名称は仮なのですから、菩薩が智慧の完成の修行をする時は、一切の名称と字を見ず、見ないことによって執着しないようにします。
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摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二の解釈
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色即是空・空即是色-2
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摩訶般若波羅蜜經習應品第三より
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経:舍利弗。色空中無有色。受想行識空中無有識。舍利弗。色空故無惱壞相。受空故無受相。想空故無知相。行空故無作相。識空故無覺相。何以故。舍利弗。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦如是。舍利弗。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨。不増不減。是空法非過去非未來非現在。是故空中無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界乃至無意識界。亦無無明亦無無明盡。乃至亦無老死亦無老死盡。無苦集滅道。亦無智亦無得。亦無須陀洹。無須陀洹果。無斯陀含。無斯陀含果。無阿那含。無阿那含果。無阿羅漢。無阿羅漢果。無辟支佛無辟支佛道。無佛亦無佛道。舍利弗。菩薩摩訶薩如是習應。是名與般若波羅蜜相應。
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太郎訳:舎利弗よ。空においては、物質現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた、空においては、ありません。舎利弗よ。物質的現象は、空なので、傷つけることはありません。感受作用は、空なので、感受することはありません。想起作用は、空なので、知ることがありません。意志作用は、空なので、作ることはありません。認識作用は、空なので、覚ることはありません。なぜならば、舎利弗よ。物質的現象は空と異ならないし、空は物質的現象と異ならないからです。物質的現象は、即ち空であり、空は、即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同様です。
舎利弗よ。このように諸法は空であり、無相なので、生じることは無く、滅することは無く、垢は無く、浄いことは無く、増えることはなく、減ることはありません。この空においては、過去は否定され、未来は否定され、現在は否定されます。このことから、空においては、物質的現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。眼耳鼻舌身意という六根は無く、色・音・香・味・触・現象という六根の対象は無く、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意識界はありません。また、無明は無いし、無明を滅尽することもありません。また、老死は無いし、老死を滅尽することもありません。四諦の法門で説かれるところの、苦諦・集諦・滅諦・道諦は無いし、また智は無いし、また智を得ることもありません。また、須陀洹はおらず、須陀洹という果はありません。斯陀含はおらず、斯陀含という果はありません。阿那含はおらず、阿那含という果はありません。阿羅漢はおらず、阿羅漢という果はありません。縁覚はおらず、辟支仏の道というものはありません。仏はおらず、仏道はありません。舎利弗よ。菩薩は、このように習応します。これを智慧の完成と相応すると名付けます。
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色即是空・空即是色-2
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摩訶般若波羅蜜経習応品第三の解釈
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摩訶般若波羅蜜経で、「色即是空。空即是色」という言葉は、五回出てきます。一回目は、奉鉢品第二で、二回目は、習応品第三です。今回は、習応品第三の解釈をします。
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「舎利弗よ。空においては、物質的現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた、空においては、ありません」。
空という思想を土台にして観れば、物質的現象は否定されます。実体が無いのですから、それをそれとして観ることができません。つまり、物質的現象は無いということになります。空なる世界とは、仮設世界のことです。私たちが感受しているのは、実際の世界ではなく、脳内に仮設された世界です。仮設された世界には、実体は有りません。よって空なる世界です。言い方を変えれば、それは概念の世界です。言葉だけがあり、実体の無い世界です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても、空においては実体が有りません。
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「舎利弗よ。物質的現象は、空なので、傷つけることはありません。感受作用は空なので、感受することはありません。想起作用は、空なので、知ることがありません。意志作用は、空なので、作ることはありません。認識作用は、空なので、覚ることはありません」。
仮設された世界において、物質的現象には実体が無いために、実際に人を傷つけることはありません。何かの役に立ったり、邪魔をすることはありません。そういう働きは、脳内で作り出しています。感受作用は感受しないし、想起作用は想起せず、意志作用は意志はなく、認識作用は認識しません。空においては、色受想行識はありません。
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「なぜならば、舎利弗よ。物質的現象は空と異ならないし、空は物質的現象と異ならないからです。物質的現象は、即ち空であり、空は、即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同様です」。
物質的現象は、仮設世界と異ならないし、仮設世界は、物質的現象と異なりません。物質的現象は、即ち仮設世界だし、私たちにとっては仮設世界は、即ち物質的現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同じです。
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「舎利弗よ。このように諸法は空であり、無相なので、生じることは無く、滅することは無く、垢は無く、浄いことは無く、増えることはなく、減ることはありません」。
私たちにとっての世界は仮設世界です。なので、そこは空であり、無相です。無相とは、特徴が無いことです。概念の世界には、実体は無いし、特徴はありません。よって、生滅・垢浄・増減ということはありません。そのような認識があるだけです。
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「この空においては、過去は否定され、未来は否定され、現在は否定されます」。
時間もまた概念です。過去は、過ぎ去っていますから実在しないし、未来は、未だ来ていませんから実在しません。現在は、現に在ると書きますが、今という瞬間をとらえることはできません。とらえたと思っても、思った瞬間に過去になるからです。空間もまた概念です。時空には実体は有りません。
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「このことから、空においては、物質的現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。眼・耳・鼻・舌・身・意という六根は無く、色・音・香・味・触・現象という六根の対象は無く、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意識界はありません」。
五蘊・十二処・十八界とは、部派仏教の説一切有部における一切法のことです。つまり、説一切有部の教義です。人は、名称があると実体視しますが、それが教義だと、さらにその傾向は強くなります。説一切有部は、法有を説いていますので、法を実体視することを否定していません。大乗経典の般若経典では、これを否定しています。実体視すれば、執着につながりますから否定するのです。
この文は、般若心経にも出てきます。これを読んで、大乗は説一切有部を否定している、という方がいます。確かにその通りですが、単にそれだけではなく、言葉による実体視を指摘しています。
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「また、無明は無いし、無明を滅尽することもありません。また、老死は無いし、老死を滅尽することもありません。四諦の法門で説かれるところの、苦諦・集諦・滅諦・道諦は無いし、また智は無いし、また智を得ることもありません」。
ここでは、十二因縁と四諦の法門を否定しています。初期仏教の重要な教義ですが、空においては、それらも言葉だけが有るのであって実体は無いといいます。智慧も無いし、智慧を得ることもありません。
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「また、須陀洹はおらず、須陀洹という果はありません。斯陀含はおらず、斯陀含という果はありません。阿那含はおらず、阿那含という果はありません。阿羅漢はおらず、阿羅漢という果はありません。縁覚はおらず、辟支仏の道というものはありません。仏はおらず、仏道はありません」。
須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢とは、声聞における覚りの階位のことです。辟支仏・仏陀というのは、覚者の位です。空においては、そのような位もありません。
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「舎利弗よ。菩薩は、このように習応します。これを智慧の完成と相応すると名付けます」。
習応とは、繰り返し学び、応答することです。菩薩は、一切法は空なので、名称にとらわれず、言葉・概念にとらわれません。このことが、智慧の完成と心が一致します。
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摩訶般若波羅蜜経習応品第三の解釈
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色即是空・空即是色-3
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摩訶般若波羅蜜経集散品第九
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経:復次世尊。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。色中不應住。受想行識中不應住。眼耳鼻舌身意中不應住。色聲香味觸法中不應住。眼識乃至意識中不應住。眼觸乃至意觸中不應住。眼觸因縁生受。乃至意觸因縁生受中不應住。地種。水火風種空識種中不應住。無明乃至老死中不應住。何以故。世尊。色色相空。受想行識識相空。世尊。色空不名爲色。離空亦無色。色即是空。空即是色。受想行識。識空不名爲識。離空亦無識。識即是空。空即是識。乃至老死老死相空。世尊。老死空不名老死。離空亦無老死。老死即是空。空即是老死。世尊。以是因縁故。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。不應色中住。乃至老死中不應住。
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太郎訳:また次に世尊。菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲するならば、物質的現象の中に留まってはいけません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の中に留まってはいけません。眼耳鼻舌身意の中に留まってはいけません。色声香味触法の中に留まってはいけません。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の中に留まってはいけません。視覚的接触、ないし意の接触の中に留まってはいけません。視覚的接触の因縁によって生じる感受、ないし意の接触の因縁によって生じる感受の中に留まってはいけません。地の要素、水・火・風の要素、空間・意識の要素の中に留まってはいけません。無明ないし老死の中に留まってはいけません。
なぜならば、世尊。物質的現象の特徴は空であり、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の特徴は空だからです。世尊よ。物質的現象は、名称が無いので物質的現象です。空から離れれば、物質的現象ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた空であり、名称が無いので認識作用です。空から離れれば、認識作用ではありません。認識作用、それは即ち空であり、空、それは即ち認識作用です。ないし老死の特徴は空です。世尊。老死は空であり、名称が無いので老死です。空から離れれば、老死ではありません。老死、それは即ち空であり、空、それは即ち老死です。世尊。この因縁によって、菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲する時は、物質的現象の中に留まってはいけないし、ないし老死の中に留まってはいけません。
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色即是空・空即是色-3
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摩訶般若波羅蜜経集散品第九の解釈
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この章では、須菩提が釈尊に自分の領解を発表しています。須菩提は、十大弟子の一人で解空第一・無諍第一などと呼ばれます。空をよく理解しているので解空第一といわれ、言い争うことがないので無諍第一と呼ばれました。
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「また次に世尊。菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲するならば、物質的現象の中に留まってはいけません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の中に留まってはいけません」。
須菩提は、菩薩が智慧の完成の修行を求めるならば、物質的現象に執着してはいけないと言います。物質的現象は空なので、執着の対象ではありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同じです。このように五蘊は空だから、執着するなと言っています。
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「眼耳鼻舌身意の中に留まってはいけません。色声香味触法の中に留まってはいけません。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の中に留まってはいけません。視覚的接触、ないし意の接触の中に留まってはいけません。視覚的接触の因縁によって生じる感受、ないし意の接触の因縁によって生じる感受の中に留まってはいけません。地の要素、水・火・風の要素、空間・意識の要素の中に留まってはいけません。無明ないし老死の中に留まってはいけません」。
十二処・十八界なども空ですから、執着の対象ではありません。そういうものに執着しても、得るものは有りません。
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「なぜならば、世尊。物質的現象の特徴は空であり、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の特徴は空だからです。世尊よ。物質的現象は、名称が無いので物質的現象です。空から離れれば、物質的現象ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象です」。
物質的現象に執着してはいけない理由は、それが空だからです。空なるものに、執着することはできません。夢や幻に執着するようなものですから、利益がありません。私たちは、物質的現象の一つ一つに名称をつけていますが、物質的現象には名称がありません。すべての名称は人が便宜上付けただけですから仮です。名称が無いものが物質的現象なのです。空から離れて、物質的現象は有りません。物質的現象は、即ち空です。実体は有りません。空は、即ち物質的現象です。実体が無いから、因縁和合し、物質的現象が生じます。
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「感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた空であり、名称が無いので認識作用です。空から離れれば、認識作用ではありません。認識作用、それは即ち空であり、空、それは即ち認識作用です」。
五蘊のすべては空であり、名称が無いから認識作用です。空から離れて、認識作用はありません。認識作用、それは即ち空です。実体は有りません。空は、即ち認識作用です。実体が無いから、因縁和合して、認識作用が生じます。
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「ないし老死の特徴は空です。世尊。老死は空であり、名称が無いので老死です。空から離れれば、老死ではありません。老死、それは即ち空であり、空、それは即ち老死です」。
老死も空ですから、実体は有りません。名称が無いので老死であり、空から離れれば老死ではありません。老死、それは即ち空です。実体は有りません。空は、即ち老死です。実体が無いから、因縁和合して、老死が生じます。
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「世尊。この因縁によって、菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲する時は、物質的現象の中に留まってはいけないし、ないし老死の中に留まってはいけません」。
一切は空なのですから、一切への執着を捨てる必要があります。一切は空であり、空が一切を作っています。よって、あらゆるものに執着してはいけません。私たちが世界だと思っているのは、実は脳内で仮設した世界です。仮設された世界は、水に映った月のようなものですから実体は有りません。実体の無い仮設された世界に執着しても、得られるものは有りません。
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摩訶般若波羅蜜経集散品第九の解釈
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色即是空・空即是色-4
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摩訶般若波羅蜜経相行品第十
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経:舍利弗問須菩提。云何當知菩薩摩訶薩行般若波羅蜜有方便。須菩提語舍利弗。若菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜時。不行色不行受想行識。不行色相不行受想行識相。不行色受想行識常。不行色受想行識無常。不行色受想行識樂。不行色受想行識苦。不行色受想行識我。不行色受想行識無我。不行色受想行識空。不行色受想行識無相。不行色受想行識無作。不行色受想行識離。不行色受想行識寂滅。何以故。舍利弗。是色空爲非色。離空無色離色無空。色即是空空即是色。受想行識空爲非識。離空無識離識無空。空即是識識即是空。乃至十八不共法空。爲非十八不共法。離空無十八不共法。離十八不共法無空。空即是十八不共法。十八不共法即是空。如是舍利弗。當知是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜有方便。是菩薩摩訶薩如是行。般若波羅蜜。能得阿耨多羅三藐三菩提。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。行亦不受不行亦不受。行不行亦不受。非行非不行亦不受。不受亦不受。
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太郎訳:舎利弗は、須菩提に問いました。なぜ、菩薩は智慧の完成を行じるとき、方便が有ると知ることができるのですか? 須菩提は舎利弗に語りました。もし菩薩が、智慧の完成の行を欲するのなら、物質的現象を定義しません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用を定義しません。物質的現象の特徴を定義しません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の特徴を定義しません。五蘊(物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用)が常住だと定義しません。五蘊が無常だと定義しません。五蘊が楽だと定義しません。五蘊が苦だと定義しません。五蘊が我だと定義しません。五蘊が無我だと定義しません。五蘊が空だと定義しません。五蘊が無相だと定義しません。五蘊が無作だと定義しません。五蘊が離れていると定義しません。五蘊が寂滅だと定義しません。
なぜならば、舎利弗よ。これは、物質的現象が空なので、物質的現象ではないからです。空から離れて物質的現象は無く、物質的現象を離れて空はありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が空なので、認識作用ではありません。空から離れて認識作用はなく、認識作用を離れて空はありません。空は、即ち認識作用であり、認識作用は、即ち空です。ないし、十八不共法は空なので、十八不共法ではありません。空から離れて十八不共法はありません。十八不共法から離れて空はありません。空は、即ち十八不共法です。十八不共法は、即ち空です。
舎利弗よ。このことを、よく知っておいてください。この菩薩が、智慧の完成の修行をするとき、方便を用います。この菩薩が、このように行じれば、智慧は完成し、よく無上の覚りを得ることができます。この菩薩が、智慧の完成の行を行じる時、定義を受けるのではなく、定義をしないことを受けるのではありません。定義をすること、定義をしないことを受けません。定義を否定すること、定義をしないことを否定することを受けません。また、受けないことを受けません。
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色即是空・空即是色-4
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摩訶般若波羅蜜経相行品第十の解釈
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舎利弗が須菩提に、「菩薩が智慧の完成の行を行じる時、どのように方便を用いるのですか?」と質問し、それに須菩提が答えます。須菩提は、解空第一と呼ばれるほどに、空を理解している弟子です。多くの般若経で、釈尊と問答をしています。
須菩提は答えました。それは、あらゆることを定義しないことだといいます。五蘊(物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用)を定義しないし、五蘊の特徴を定義しません。また、五蘊が常だと定義しないし、無常だと定義しません。五蘊が楽だと定義しないし、苦だと定義しません。五蘊が我だと定義しないし、無我だと定義しません。五蘊が空・無相・無作だと定義しません。五蘊が離れていると定義しないし、寂滅(涅槃)だと定義しません。
なぜ定義しないのかというと五蘊が空だからです。実体が無いので定義はできません。しかし、説法の時、定義するのは方便です。よって、定義すること、定義しないことを受けません。
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摩訶般若波羅蜜経相行品第十の解釈
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色即是空-5
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摩訶般若波羅蜜経幻学品第十一より
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経:復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。如是思惟。不以空色故色空。色即是空空即是色。受想行識亦如是。不以空眼故眼空。眼即是空空即是眼。乃至意觸因縁生受。不以空受。故受空。受即是空空即是受。不以空四念處故。四念處空。四念處即是空。空即是四念處。乃至不以空十八不共法故。十八不共法空。十八不共法即是空。空即是十八不共法。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不驚不畏不怖。
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太郎訳:また次に須菩提よ。菩薩は智慧の完成の行を行じ、このように思惟します。物質的現象は空であるという見方によれば、物質的現象は空ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同じです。眼は空であるという見方によれば、眼は空ではありません。眼、それは即ち空であり、空、それは即ち眼だからです。ないし、意の接触という因縁で感受が生じると見るとき、感受は空であるという見方によれば、感受は空ではありません。感受、それは即ち空であり、空、それは即ち感受だからです。四念処は空であるという見方によれば、四念処は空ではありません。四念処、それは即ち空であり、空、それは即ち四念処だからです。ないし、十八不共法は空であるという見方によれば、十八不共法は空ではありません。十八不共法、それは即ち空であり、空、それは即ち十八不共法だからです。このように須菩提よ。菩薩は智慧の完成の行を行じるので、驚かず、畏れず、怖いと思いません。
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色即是空-5
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摩訶般若波羅蜜経幻学品第十一の解釈
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「また次に須菩提よ。菩薩は智慧の完成の行を行じ、このように思惟します。物質的現象は空であるという見方によれば、物質的現象は空ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同じです」。
ここは、釈尊が須菩提に説法をしています。「色は空である」という認識だと、色は空ではありません。「色即是空。空即是色」だと認識することが重要です。「即」という言葉が入ることで、色と空は、コインの裏表のように、離れていないことを表しています。一致しています。「色は空である」という見方だと、色と空を離して認識しているために、色に実体を見て、空に実体を見るという過ちを起してしまいます。色にも、空にも実体を見ないのなら、「色即是空。空即是色」と見る必要があります。
「眼は空である」「感受は空である」「四念処は空である」「十八不共法は空である」という認識よりも、「眼即是空。空即是眼」「受即是空。空即是受」「四念処即是空。空即是四念処」「十八不共法即是空。空即是十八不共法」と見ます。
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「須菩提よ。このように菩薩は智慧の完成の行を行じので、驚かず、畏れず、怖いと思いません」。
一切の事物・現象は、即空なので、個々の事象に実体を見ません。実体を見ないので、特徴を見ることが無く、よって驚くことは無く、畏れることは無く、怖いと思うことはありません。周りの変化に惑わされず不動です。
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摩訶般若波羅蜜経幻学品第十一の解釈
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色即是空 まとめ
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これまでに読んだように摩訶般若波羅蜜経には、「色即是空。空即是色」が5回も説かれています。般若心経だと説明がないので意味が分かりませんが、摩訶般若波羅蜜経の場合は説明があるので多少は理解できます。
奉鉢品第二では、菩薩は般若波羅蜜(智慧の完成)の行を行じる時、名称を見てはいけないと説きます。名称は人が付けたのであって、そのものに固有のものではありません。仮です。仮ですが、人は名称があるとそれに実体を見て、執着してしまいます。執着があると雑念から離れられなくなりますから修行の妨げです。無執着を目指すのなら、ものに実体をみないようにし、そのためには名称を見ないようにします。
そのことの根拠が、「色即是空。空即是色」です。物質的現象には実体が無く、実体が無いから物質的現象です。私たちが感知しているのは実際の世界ではなく、脳内で仮設した世界です。眼や耳で感受したものは、信号として脳に伝わり、脳で仮設されます。仮設された世界を私たちは、実際の世界だと思って感知しています。しかし、仮設された世界を感知しているのですから、一切の事象には実体は有りません。空です。
物質的現象、それは即ち空です。仮設世界の物質は、鏡に映った像、池に映った月と同じく、実像ではありませんので実体は有りません。空です。空、それは即ち物質的現象です。私たちにとって、空なる世界、すなわち仮設された世界が物質的現象です。そのことを知れば、あらゆるものに実体を見ないので執着することもなくなるでしょう。たとえば、業・輪廻・解脱も空です。実体は有りませんから、執着の対象はありません。
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習応品第三では、五蘊が空ならば、五蘊は無いと説いています。仮設世界の五蘊は、仮に有るので、存在していません。概念としては有りますが、事実としてはありません。よって、仮設世界は、夢のようなもの、幻のようなものです。
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集散品第九では、菩薩が智慧の完成の行を求めるのならば、一切の物事に執着してはいけないと説いています。なぜならば、「色即是空。空即是色」だからです。実体が無いのですから、執着の対象はありません。
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相行品第十では、事象について定義をしないことが説かれています。なぜならば、「色即是空。空即是色」だからです。実体が無いのですから、定義はできません。
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幻学品第十一では、「色は空である」と見るのではなく、「色即是空」と見るようにと説いています。色についてあれこれ考えるのではなく、「色、それは即空である」と見ます。
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色即是空 まとめ
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