法身仏の説法
善男子、是の義を以ての故に、一切の諸仏は二言あることなく、能く一音を以て普く衆の声に応じ、能く一身を以て百千万億那由他無量無数恒河沙の身を示し、一一の身の中に又若干百千万億那由他阿僧祇恒河沙種種の類形を示し、一一の形の中に又若干百千万億那由他阿僧祇恒河沙の形を示す。善男子、是れ則ち諸仏の不可思議甚深の境界なり。二乗の知る所に非ず、亦十地の菩薩の及ぶ所に非ず、唯仏と仏とのみ乃し能く究了したまえり。
善男子よ。一切の諸仏が説く『真理』は、二つはありません。ただ一つだけです。しかし、その『真理』を多くの人々に説くためには、仏は様々な説き方、現わし方をするのです。ですから『仏の本体はただ一つですが、その一つの身が無数の身に変わり、無数のはたらきという〈変化〉として現れる』のです。このことは、声聞や縁覚の境地の人には理解することができません。いや、たとえ菩薩のなかの最高の境地の菩薩であっても、このことは分からないでしょう。ただ仏だけが本当に知り得るものです。
善男子よ。このことから、一切の諸仏は二言あることなく、よく一音によって衆生の声に応じ、よく一身をもって、無量の身を示し、それぞれの身の中にまた無量の種種の類形を示し、それぞれの形の中にまた無量の形を示します。このことは、諸仏の不可思議で甚深の境界です。声聞・縁覚の知る所ではなく、また十地の菩薩の及ぶ所ではありません。ただ仏と仏とのみが、よく究了しています。
~いよいよ難しいことになってきました。仏の本体は「ただ一つの宇宙の大真理・大生命」であり、その分身がいろいろ様々な形をとって現われ、いろいろ様々なはたらきや、形式によって、我々を教え、導き、救っていてくださるのだということも、静かに思いをこらしてみると、確かにそうだ、と解ってきます。特にここで大切なのは、仏がいろいろ様々な身となり、いろいろ様々なはたらきや形式で人を導かれるということです。(仏は常に仏の形や、宗教家の形をとって世の中に現われるとは限りません。その現われは千差万別なのです。)
~仏の本体は「ただ一つの宇宙の大真理・大生命」である、という表現には違和感があります。仏の本体は真理(法)なのでしょうが、それを大生命というと違うように思えます。仏教では、無我や空を説いて、一切の実体を否定しているのに、大生命という言葉を使うことによって、そこに実体を見ることになりそうだからです。この表現だと、宇宙には仏という超人的な存在がおり、人々を救い教化していると考える人が出てくるのではないでしょうか? まるで、神のような存在です。仏は神ではありませんので、このような表現はしないほうがいいでしょう。
~ここでは、真理を体とする仏である「法身仏」のことが説かれています。現象は、真理によって展開しますので、現象としての応身仏と真理としての法身仏は一体です。法身仏は、一人一人の衆生に応じて、教化・救済のために、相応しい現象を起こしていると観ます。現象こそが法身仏の説法なのです。これまで、「仏は方便(言葉)によって真理へと導く」とお伝えしてきましたが、ここでは、「本仏は現象によって真理へと導く」と説かれています。方便とは、言葉だけではなく、現象のことでもあります。仏菩薩が、相手に相応しく示現して教化・救済することを「普門示現」といいます。法華経の観世音菩薩普門品第二十五では、普門示現が詳しく説かれています。このことは、諸仏の不可思議甚深の境界であり、声聞・縁覚・十地の菩薩には分からないことです。ただ仏と仏とが知っています。
~仏は、苦・空・無常・無我・非真・非仮・非大・非小・本来生ぜず今亦滅せず、一相・無相・法相・法性・不来・不去、しかも諸々の衆生四相に変化すると説いてきました。それは、俗諦であり、最高の真理へと導くための教えです。ここでは、そのことを無量に展開する教えというテーマで説いています。仏は一音によって衆生を救います。一音とは、一つの真理のことです。その一つの真理は、もとは一つの身であっても、無量の衆生を救うために無量の身を示し、またその身の中に無量の類形を示し、それぞれの形の中にまた無量の形を示します。つまり、無量の衆生を救い教化するために、真理は無量の現象を示すのです。それが善い内容であっても、悪い内容であっても、その現象を通して私たちを学ばせようとしています。