仏教のお話

Rの会:法華経序品第一 / 4

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ダルマ太郎 2024/04/09 (火) 21:47:37

此土六瑞

爾の時に世尊、四衆に圍繞せられ、供養・恭敬・尊重・讃歎せられて、諸の菩薩の為に大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたもう。仏此の経を説き已って、結跏趺坐し無量義処三昧に入って身心動したまわず。是の時に天より曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華を雨らして、仏の上及び諸の大衆に散じ、普仏世界六種に震動す。爾の時に会中の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人非人及び諸の小王・転輪聖王、是の諸の大衆未曾有なることを得て、歓喜し合掌して一心に仏を観たてまつる。爾の時に仏眉間白毫相の光を放って、東方万八千の世界を照したもうに周遍せざることなし。下阿鼻地獄に至り、上阿迦尼吒天に至る。
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世尊は多くの菩薩たちに向けて、世を救い、人を救う教え、すなわち『無量義・教菩薩法・仏所護念』の教えを説かれたのでした。世尊はこの『無量義』の教えを説き終えると、諸法実相に全精神を集中する『無量義処三昧』という三昧に静かに入られました。すると天空から美しい花々が世尊のみ上に、そして、その座にいるすべての人たちにも等しく降りかかり、大地も感動して震え動きました。そのため、説法会にいるあらゆる人たち、修行者、バラモン教の神々、鬼神や国王、その家来たち、さらには動物をはじめ生きとし生けるものすべてが、かつてない深い感動を覚え、合掌して仏さまの尊いお顔を仰ぎ見るのでした。その時です。世尊の眉間から鮮やかな光がパッと放たれたのでした。その光は遥か東方の一万八千の国々、つまり、未来のすべての世界に及び、下は無限地獄(阿鼻地獄・あびじごく)、上は有頂天(阿迦尼吒天・あかにたてん)に至るまで、隅々に行きわたり、一斉に明るく照らし出されました。つまり、仏さまの智慧の光(眉間白毫相の光)によって、その人にとっての最低の状態(地獄)から最高の幸せの状態(有頂天)までを、つまびらかに明かされたのでした。
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その時に世尊は、人々に囲まれて、供養、恭敬、尊重、讃歎されて、多くの菩薩たちのために、大乗の「無量義」という教えを説かれました。この教えは、菩薩を教化する教えであり、諸仏が大切に護っている教えです。仏は、この教えを説き終えられると姿勢を調えて坐られ、無量義の教えを深く噛みしめる三昧に入られました。身も心も落ちつかれており、まったく動くことがありませんでした。この時に天上から、マンダーラヴァ、大マンダーラヴァ、マンジューシャカ、大マンジューシャカという珍しくも美しい花々が、仏と人々の上にふってきました。そして、大地は、揺れ、動き、震え、また広い範囲でも揺れ、動き、震えました。その時に、この集会では、男女の出家修行者、男女の在家修行者、天上界の神々、ナーガ、ヤクシャ、ガンバルヴァ、アスラ、ガルダ、キンナラ、マホーラガ、人、人でないもの、王族の者たち、これらの人々は、珍しくも不思議な体験をして、歓喜し、合掌して、一心に仏を仰ぎ見ました。その時に仏は、眉間の白い巻毛より光を放って、東方のあらゆる世界を隅々まで照らし出しました。下は阿鼻地獄にまで至り、上は有頂天に至りました。
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此土の六瑞

~➊『無量義経』が説かれる  ➋『無量義処三昧』に入る  ➌摩訶曼殊沙華が天空から降り注ぐ  ➍普仏世界六種震動  ➎大衆が未曽有の歓喜  ➏『仏眉間白毫相』の光を放つ
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供養、恭敬、尊重、讃歎

~供養とは、プージャー pūjā の訳です。利供養・敬供養・行供養などがありますが、ここでの供養は、恭敬、尊重、讃歎です。恭敬とは、つつしんで敬うこと。尊重とは、相手を尊い者として認めて大切にすること。讃歎とは、徳をほめたたえることです。この言葉は、法華経の経文中によく出てきます。人と交流する際に、供養・恭敬・尊重・讃歎が必要だということでしょう。釈尊は、説法の時に相手の名を呼ぶことが多いのですが、これはインドの習慣で、相手を敬う行為だそうです。弟子たちも、釈尊を敬って、「世尊よ」などと呼びかけをします。
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大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念

~釈尊は、菩薩たちのために、無量義・教菩薩法・仏所護念という名の大乗経をお説きになられました。この無量義を「無量義経」だとする解釈が多いようです。それだから、無量義経は法華経の開経だというわけです。しかし、それを否定する見解もあります。無量義というのは、「無量の教え」のことであり、法華経以前の大乗の教えのことだと言うのです。教菩薩法とは、「菩薩のための教え」のことで、仏所護念は、「仏が護り念じている教え」のことです。法華経以前に説かれた「般若波羅蜜経」は、声聞を菩薩に育てる教えですので教菩薩法とは言い難いのですが、そう呼ぶに相応しい教えがあるのかもしれません。
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東方

東をサンスクリット語では、プゥールヴァ pūrva といいます。東以外にも「以前の」「昔の」などの意味もあります。よって、東方というのは、「過去」のことを表しているのでしょう。太陽は東から出るので東を過去とし、西に沈むので西を未来だとしたようです。西のことをプラチヤチ pratyac といい、未来の意味もあります。阿弥陀如来は西方の仏だといわれますから、未来仏なのでしょう。
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