仏教のお話

Rの会:方便品第二(前半) / 10

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ダルマ太郎 2024/04/28 (日) 02:35:52 修正

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諸法実相
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R論:宇宙のすべてのもののありのままの真実の相(すがた)。これを大きく分ければ、➊『すべてのものごとの、現象として現れている相(すがた)をありのままに観る』。➋『すべてのものごとの本質の相(すがた)を観る』の二つになります。
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『すべてのものごとの、本質の相(すがた)をみながら、現象として現われている相(すがた)をも、ありのままにみる』ことになります。~ 仏の立場からすると、すべては「大調和の世界(涅槃)」なのです。仏はそれを見極めて、われわれに示して下さいました。凡夫であるわれわれがそのように見ることができずに大調和しないのは、人間たちが小さな「我」をもってものごとを見、考え、行動するからであって、全ての人が「我」に執着する心を捨てて、ありのまま(如是)の心をもってすべてを見、考え、行動すれば、この世はこのまま涅槃の相になるのだと教えられているのです。
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太郎論:実相とは、真実無相の略だと解説されています。よって、諸法実相とは、事物・現象が真実としては、特徴が無い、ということです。これまでは、「無量の教えは一つの真理から生じる」「一つの真理を無量の方便にして教える」、というように、教え(方便)と真理のことを説いていましたが、ここでは、「無量の現象は一つの真理から生じる」「一つの真理を無量の現象(方便)にして教える」、というように、現象(方便)と真理のことを説いています。このことは、如来寿量品で詳しく説かれますが、方便品の最初にこのことが説かれていることが興味深いです。
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縁起観
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R論:全ての存在やそのはたらきは、因縁所生(因と縁があって生ずる所)のものであり、縁起(因が縁にあって起こる)であるということができます。これがお釈迦さまのさとりの一大根本であり、すべての教えはここからでているといっても過言ではありますまい。これを「縁起観」といいますが、《諸法実相》の教えもこの「縁起観」が根本になっていることは、言うまでもありません。
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太郎論:縁起とは、プラティーティヤ・サムトパーダ pratītya-samutpāda の訳です。プラティーティヤが「縁」、サムトパーダが「生起」なので、「縁って起こる」という意味です。縁起は、仏教の根本教義であり、初期仏教の経典から密教の経典まで、すべての教えの土台になっています。一切を苦と観るのは、ものごとが縁起によるからです。自力だけでなく、他との関係によってものごとは起こりますから、自分の力ではコントロールはできません。老いるのも、病も、死も、医療によって少しは抵抗できますが、いずれは老化し、病気が悪化し、死んでいきます。自分の思い通りにならないことを、思い通りにしようとするから苦なのです。無常は、縁が変わるから、因も変わります。縁起は、因+縁という単純なものではなく、無数の事象との関係によって起こりますので、縁によって生じるものは無常です。無我は、縁によって起こるものは、仮の存在であって実体は有りませんから、無我といいます。このように教義のベースには、必ず縁起という教義があります。
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諸法実相の教義も「因縁果報」という言葉が出てきますので、縁起がベースにあります。しかし、十如是の場合は、あるものの因縁果報を見るわけですから、因はこれ、縁はあれというように分けるのではなく、因としてのこれ、縁としてのこれ、というように観ます。このことは、後に十如是の解釈をするときに、詳しく説明いたします。
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一念三千
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R論:すべての人間は「平等な存在」であることは、『無量義経 説法品』でのべました。ところが、現実の相として現われているものは、賢い人・愚かな人・心美しい人・心いやしい人等々、じつに千差万別であり~ はなはだしい上下の相違があります。そこで、「人間本来平等」であるということも真実ではあるけれども、現実のあらわれにおいて『不平等』であるということも真実であります。したがって人間をみるときには、この『平等』・『不平等』の両面からみなければ、その本質はつかめないわけです。ところが、もっと深く考えてゆきますと、その『不平等』というのは決して固定したものではなく、つねに流動しているものだということがわかってきます。~ある条件(縁)にあえば、心いやしい人も心美しい人に変わることができ、逆に、不善の心や行為という因が、ある縁にあえば、幸福に満ちた人がたちまち苦悩のどん底に落ち込むこともありえます。~ 心の持ち方さえ変えれば、どの世界へも行くことができるのです。そういう可能性を、人間は平等に持っているのです。ですから、目の前に見る『不平等』は、決して固定した『不平等』ではなく、自由に流動させることのできる『不平等』です。つまり、〈『不平等』をどうにでもつくることのできる可能性を、みんなが等しく持っているところに『人間の平等さがある』〉と言うこともできるわけです。
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太郎論:一念三千は、天台大師智顗が提案した止観の一つです。止観とは、精神を統一させ、観察することです。一つの心に三千の世間(諸法)が具わっていることをいいます。刹那の一心に十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)があり、その十界のそれぞれに十界が具わって百界となり、さらに十如是が具わって千如是となり、それに三世間(衆生・五陰・国土)が具わって三千世間となります。ほんの刹那の一心に、三千世間が具わっていることを観察します。
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諸法実相
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