ダルマ太郎
shumi
2024/04/26 (金) 22:28:55
ダルマ太郎さん
2024/4/25 18:38
摩訶般若波羅蜜經習應品第三
仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、応に是の如く思惟すべし、菩薩は但だ字有るのみ、仏も亦た但だ字有るのみ、般若波羅蜜も亦た但だ字有るのみ、色は但だ字有るのみ、受想行識も亦た但だ字有るのみ、と。舎利弗、我れに、但だ字のみ有るが如く、一切の我は、常に不可得なり。衆生、寿者、命者、生者、養育、衆数、人、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者、是の一切は皆、不可得なり。不可得なれば空なるが故に、但だ名字を以って説く。菩薩摩訶薩も亦た是の如く般若波羅蜜を行ずるも、我を見ず、衆生を見ず、乃至知者、見者を見ず。所説の名字も亦た見るべからず。
と、このように説かれています。すべては言葉によって認識されるので、真理を観察する時には、言葉を見るなと説いています。
> ダルマ太郎さんは「概念として有れば非無です」といいながら、一方で「事実としては」それらが存在しないと見なしているのです。ダルマ太郎さんがいう「非無」というのはただ言葉の上でのことであり、一言でいえば詭弁なのです。
事実として輪廻が有るならば、そのことの根拠を示し、証明する必要があります。誰も死後の世界については知りませんので、根拠はありませんよね。経典に書いてあるといっても、理証や現証がなければ、証明としては不足しています。理証とは、道理にかなっていることによる証明です。現証は、現実に起こったことによる証明です。釈尊が、嘘をついていると言っているのではなく、人々を救うための方便として、業・輪廻・解脱を説いているのでしょう。
「概念として有れば非無です」という説を受け入れるのも、受け入れないのも、あなた次第です。
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