仏教のお話

Rの会:方便品第二(後半) / 40

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ダルマ太郎 2024/05/07 (火) 20:52:48

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正直捨方便 但説無上道
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太郎論:「正直に方便を捨てて ただ無上道を説く」というこの文は、日蓮系では有名です。無量義経の「四十余年未顕真実」と「正直捨方便但説無上道」を合わせて、「釈尊は、説法を始めてから四十余年、方便の教えしか説いておらず、真実を顕していない。今、この法華経の説法においては、正直に方便を捨てて無上の道を説く」というように解釈しています。つまり、法華経以前の教えは方便であって、真実は説いていなかった。しかし、今、この法華経において真実を説きましょう、というように解釈をしています。このように解釈をし、自分のところの宗派や教団内で噛み締めるのは問題はありませんが、この解釈を他宗・他教団にぶつけて、「法華経以外は方便である」とマウントをとるのはやめたほうがいいでしょう。

方便品を最初からきちんと読めば分かりますが、釈尊がこれまで妙法について説かなかったのは、人々の機根が高まっていなかったからです。「舎利弗 当に知るべし 鈍根小智の人 著相憍慢の者は この法を信ずること能わず」とあるように、機根が鈍い人、智慧が小さい人、執着の強い人、驕り高ぶり、思いあがっている人は、この教えを説いても信じることができないだろうと言います。それだから、機根を高め、智慧を深め、執着から離れさせ、おごり高ぶりを無くすことが先決です。そのために、分かりやすい教えから順に説いてきました。小学生にいきなり相対性理論を説いても分かりません。最初は、数字を覚え、足し算・引き算を覚えて、徐々にレベルを上げていかないとついてこれません。仏教もそれと同じです。

方便品の最初で、釈尊は説法をためらいました。それは、聞く人が受け入れきれず、驚き怖れ疑うことになるからだと言います。また、増上慢の人は、地獄に堕ちることになるからだとも言います。譬諭品第三には、「おごり高ぶっている高慢な者たちやすぐに怠けて修行を続けられない者たち、自己中心的な者たちにはこの教えを説かないでください」と告げます。教えを拒否する人に説いてもいいことがありませんから、慈悲があるのなら説かないようにしなさいと告げています。今、この会には、教えを受けるのに相応しい者たちが集まっていますから、釈尊は、「如来出でたる所以は 仏慧を説かんが為の故なり 今正しく これその時なり」とおっしゃり、ついに機が熟したことを悦んで無上道を説かれるのです。
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サンスクリット本では、次のように書いています。
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viśāradaś cāhu tadā prahṛṣṭaḥ
saṃlīyanāṃ sarva vivarjayitvā|
bhāṣāmi madhye sugat'ātmajānāṃ
tāṃś caiva bodhāya samādapemi ||132||

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また その時
すべての臆する心から離れ
躊躇せず 愉快であり
仏子の中で説き
彼らを覚りへと教化します

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このように、サンスクリット本には、方便と訳される言葉はありません。捨てるのは、「臆する心」です。人々の鈍根・小智・執着・慢心の状態を観て、妙法を話しても大丈夫だと思ったから、躊躇せず、悦んで説法をするのです。
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説法はすべて方便
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「法華経以前の教えは方便であり、法華経において初めて真実が明かされる」という解釈がよく為されています。仏教用語の真実とは、「絶対の真理」のことです。よって、真実とは、真諦・第一義諦・勝義諦・妙法と同義です。真諦は、言葉では表現できない絶対の真理ですから、言葉によって説かれている経典には、真実は書いていません。法華経も言葉ですので、真実は書かれていません。方便品を読めば分かりますが、真実を覚った釈尊は、言葉では伝えることのできない真実をあえて言葉で説こうとしました。それが方便です。方便とは、「近づける」という意味であり、仏教の場合は、「真実に近づける方法」という意味で使われます。釈尊は、真実そのものを説こうとしたのではなく、方便によって、人々を真実に近づけさせようとしたのです。それは、釈尊が真実を覚っているからできることです。
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正直捨方便 但説無上道
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