仏教のお話

Rの会:方便品第二(後半) / 8

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ダルマ太郎 2024/05/05 (日) 15:46:31 修正

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五濁-1
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経:もし 我 衆生に遇えば
(ことごと)く教うるに仏道を以てす
無智の者は錯乱し
迷惑して教を受けず
我知んぬ
この衆生は
未だかつて善本を修せず
堅く五欲に著して
痴愛の故に悩を生ず
諸欲の因縁を以て
三悪道に墜堕し
六趣の中に輪廻して 
つぶさに諸の苦毒を受く

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太郎訳:もし 私が人に会えば
誰に対しても 成仏の道を説いています
しかし 智慧のない者は この道を聞くと
迷い戸惑い 教えを受けることができません
私はこの因果をよく知っています
この人々は 過去 善行を修めず
見るもの 聞くものに心をうばわれ
愚かな執着のために苦悩を生じています
様々な欲望を持つことによって
地獄・餓鬼・畜生という悪の道に墜ち
六道の中から出ることがなく輪廻して
いつも様々な苦を受けています

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五濁-1
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    ダルマ太郎 2024/05/08 (水) 16:33:07 >> 8

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    輪廻説の正しい受け止め方
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    R論:この輪廻説を、まちがって受け取ると非常に消極的なものになってしまいます。〈私が現在苦しんでいるのは、過去の業があまりに悪いからで、今、何をしてもダメなのだ。あきらめるしかないのだ〉というふうに、この世における努力を一切放棄してしまう生き方です。さらに悪いのは、輪廻説で他人を裁いてしまうことです。〈お前が、現在そういった苦しい目にあうのは過去世になしたお前の業のせいなのだから、あきらめて、現在の生活に甘んじていろ〉などという発言や、発想は、仏教徒として、否、仏教徒であるかないかということより、人間として、してはならないことなのです。
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    太郎論:現世の苦しみの原因が、過去世における自分の悪業の結果だとすると、今の苦しみを解決する手段がありません。この人生をあきらめて、ひたすらに善業につとめ、来世に期待するしかありません。閻魔大王の鏡のように、過去を見ることができるのなら納得もいきますが、客観的な証拠もないのに、業報輪廻を信じることは難しいです。しかし、多くの人たちが輪廻を信じています。もともと日本にはない、インドの思想なのに、信じる人が多いことに驚きます。不思議ですね。

    如来寿量品第十六においては、輪廻は否定されます。はっきりとナ・サンサーラ na saṃsāra と書いています。これは、方便としては輪廻は有るけれど、真実としては、輪廻は否定されているのでしょう。ただし、鳩摩羅什はこれを訳していないので、漢訳の法華経だけを学んでいる人は知りません。釈尊は、輪廻を説いたのでしょうか? 縁起については積極的に説かれているけれど、輪廻については、そうでもありません。初期仏教を重視する人たちは、経典に書いているから輪廻は実在すると主張しますが、言葉で説かれることはすべて方便なので、輪廻を事実だと決定することはできません。

    インドでは、業報輪廻は広く受け入れられた思想です。輪廻する世界とは、苦の世界であり、迷いの世界ですので、輪廻している限り安楽の境地にはなれません。束の間の楽ならばあるのでしょうが、すぐに憂悲苦悩におちいります。輪廻を信じている限り、この世は苦なのですから、輪廻を信じなければいいのに、なぜか、輪廻を知らなかった日本人までもが輪廻を信じるようになっています。事実として無くても、概念として有るのなら、それは人を苦しめます。もし裏山に怪物がいたとしても、人がそれを知らず、信じていなければ、概念上はいないのと同じです。しかし、信じてしまうと記憶に刻み込まれるので、実在することと同様に恐怖を感じるようになります。輪廻は、存在しない怪物を怖がるようなものでしょう。

    幸いにも、日本人の場合は、輪廻を信じていても、それを苦の原因だと思っていないようです。信じることに何のメリットがあるのかが分かりません。デメリットばかりのように思えます。過去や未来に生きるよりも、今を生きたほうがいいのではないでしょうか?
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    輪廻説の正しい受け止め方
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