☆曙橋ライブハウスコタン
だいぶ怪しい記憶を頼りに、お二人のお言葉集を。
違ってるところなどありましたら、ごめんなさい。
お二人で ⇒ 中牟田さんソロ ⇒ 山木さんソロ ⇒ 再びお二人で
1曲目は、以前に中牟田さんも歌われていた『蝉』山木さんのハモリ付き♪
中牟田さん「井上良介っていう、ふきのとうを北海道から東京へ連れて来た人で、僕も影響を受けた人。
久しぶりに会って、この人に作ってもらった歌を歌ってたら、歌詞が違ってるって怒られた。 50年も経って。(笑)
ふきのとうがデビューするっていう時に、シングル盤をどれにするかってことになって、デモテープ(?)を
いくつか聴いて、これだなって思ったのが『白い冬』だったんですよ。」
山木さん「東京に出て来た時、住むところは用意されていると聞いていたのに用意されてなくて。
富ヶ谷に連れて行かれて、海援隊がツアーでいない間は空いてるからって。(笑)
僕が寝た布団は、持ち主の足のニオイがすごくて。(笑)
デビューする時、(当時海援隊が所属していた)エレックレコードに、もう入りたくて入りたくて。
でも、エレックには入れなかったけど、ソニーは宣伝力がものすごくて、そのおかげて売れたんだと思います。」
海援隊『故郷未だ忘れ難き』
山木さん「デビューした頃、海援隊と一緒に回って、10分か15分くらいやってましたがね。
海援隊が歌っているのを舞台袖で聴いていて、いい味出してて、いいなーと思ったけど、
僕たちはデビューしたばっかりの頃で、海援隊みたいに、いい味が出せなかった。」
中牟田さん「山木と二人でしゃべってると、30秒か1分くらいで話が途絶えちゃうんじゃないかって。(笑)
でも今のところ大丈夫ですね。」(笑)
山木さん「では、ここで店長をお呼びして。」
中牟田さん「中牟田和久渡(わくと)です。」拍手の中店長さんご登場。
山木さん「(中牟田さんに向って)・・・それだけですか? 同じ名前ですけど。」
中牟田さん「いやあ、血統が同じで。。。」などなど、親子とか息子という言葉を使おうとしない中牟田お父さん。
和久渡さんは、ギター、ボックスドラム、歌、なんでもこなせるミュージシャンです。
休憩をはさんで、どちらからソロをやるかを決めるジャンケンの結果、確か中牟田さんチョキ、山木さんパーで、
中牟田さんが先にソロを。 その間山木さんは、切れてビローンってなってた弦の交換。
中牟田さん「休憩時間、二人で世間話してたんですが、縁側で将棋でも指してるような感じでしたね。」(笑)
中牟田さん親子の、素晴らしく息の合った歌と演奏を聴いて。
山木さん「フィ-リングがそっくりですねー。 遺伝子がそうさせるんですかね。 うらやましいくらいですね。
業界でも、あんまりいないですよね。 楽器やってるっていうのはあるけど、親子で一緒に歌ってるっていうのは。
デビューしたらいいんじゃないかって。」
『初夏』
山木さん「デビューしてからじゃなくて、アマチュア時代、札幌冬季オリンピック1972年22才の時に
創ってあった歌なんですが、《ふきのとうは、楽曲に悩んでるんじゃないか》って、記事に書かれて、
その時は憤慨しましたがね。 アマチュアの時に創った歌なんですが。」
山木さん「ふきのとうは、いつまで付いてまわるのかな? ずっと付いてまわってますが。
ずいぶん飛び出てるんだけど、飛び出しきれてないですね。」
山木さん「昔、フォークグループ全部ひとくくりで売れたらそれでいい、みたいの嫌でしたねー。」
『思えば遠くへ来たもんだ』
中牟田さん「この曲は、ヒットチャートに上がってないんですよ。 ヒット曲じゃないんですよ。
だけど、たくさんの人が知ってる。 ありがたいね。」
山木さん「ありがたいですねー。」
中牟田さん「(歌を作るにあたり)山木は、作ってないんですよね。 自然とそこにあるものを持って来れる。」
↑ 静かに語られたこのお言葉、一番印象に残りました。
50年ものお付き合いの中牟田さんからの最高の誉め言葉、よく見てくださっているんだなと、
本当にそうだなと、感激いたしました。
この他にも、お二人が語られるたくさんの思い出話、めったに聴けない『蝉』『思えば遠くへ来たもんだ』の
山木さんのハモリも聴けて、とってもとっても楽しいひとときでした。
8月生まれの方お一人とライブハウスコタンに『おめでとう乾杯♪』も。 やっぱり、ライブっていいなー。