法介
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2025/01/11 (土) 06:41:04
『成唯識論』では、
「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず。」
とあります。リダンの主張の根拠はこれです。
有為で生じる業は、例えそれが善業であっても無漏の種子とは成り得ません。
が、
しかし
「無為の法」を使えば、無漏の種子が刻まれます。
この「無漏の法」が何なのか
ここが最大のポイントとなります。
それが修行できざまれれば
サティが言う
善業で無漏の種子は自身の阿頼耶識に薫習されます。
しかし〝修行〟って有漏ですよね。
縁起=有漏
ですから。
ここがリダンが解っていないところ。
無漏の修行法(無為法)が
どんな修行法か
という事。
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