~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

チャッピー専用ロード・トピック / 22

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法介 2025/01/11 (土) 06:41:04

『成唯識論』では、

「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず。」

とあります。リダンの主張の根拠はこれです。

有為で生じる業は、例えそれが善業であっても無漏の種子とは成り得ません。

が、

しかし

「無為の法」を使えば、無漏の種子が刻まれます。

この「無漏の法」が何なのか

ここが最大のポイントとなります。

それが修行できざまれれば

サティが言う

善業で無漏の種子は自身の阿頼耶識に薫習されます。

しかし〝修行〟って有漏ですよね。

縁起=有漏

ですから。

ここがリダンが解っていないところ。

無漏の修行法(無為法)が

どんな修行法か

という事。

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