~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

外観と内観から読み解く般若の智慧

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https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13318289758

空を説く『般若心経』の中で、内観(内縁起)と外観(外縁起)とが説かれている事に気づかれている方居られますか?

法介
作成: 2025/08/05 (火) 08:32:10
最終更新: 2025/08/11 (月) 05:45:12
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法介 2025/08/06 (水) 11:35:57

『般若心経』の「不生不滅 不垢不浄 不増不減」について

ここで登場する有名な偈文、
不生不滅・不垢不浄・不増不減」は、仏教における「三種の空(縁起観)」を示しています。

偈文縁起の見方空の分類
不生不滅析空(しゃっくう)客観的存在を細分化して「空」と見る
不垢不浄体空(たいくう)主観的評価の二元性を離れて「空」と見る
不増不減法空(ほうくう)法(存在そのもの)の実体性を否定して「空」と見る

そしてこの三種の「空」は、龍樹の教えの中でさらに体系的に説かれていきます。
龍樹は、仏の説法を4つのレベルに分類しました。これが「四悉檀(ししつだん)」です。

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法介 2025/08/06 (水) 11:37:33

龍樹の四悉檀

① 世界悉檀(せかいしつだん)
世間一般の常識や知識(科学・哲学など)と同じ次元で説かれる教え。
縁起によって「ものごとがどう成り立っているか」を解き明かす世間的真理。これは仏教における俗諦(ぞくたい)にあたります。

② 為人悉檀(いにんしつだん)
教化される人の立場に応じて、その人の理解や性質に合わせて説かれる教え。
聞く人によっては、まったく逆の意味にも聞こえる柔軟な方便の教え。

③ 対治悉檀(たいじしつだん)
煩悩(貪・瞋・癡)を取り除くための具体的な対処として説かれる教え。
病に薬を与えるように、それぞれの執着や苦悩に応じて説かれる。

④ 第一義悉檀(だいいちぎしつだん)
仏が悟った究極の真理そのものを、ストレートに説いた教え。
相対や概念を超えた「真実そのもの」が語られる。

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法介 2025/08/06 (水) 11:38:18 修正

三種の不の最初の「不生不滅」──これは析空(しゃっくう)にあたります。

よくある誤解として、この句をもって
「仏は永遠不滅である」といった解釈がなされることがあります。
しかし、『般若心経』がここで説いているのは、そうした実体的な永遠性のことではありません。

たとえば、「テーブル」というモノを考えてみましょう。
テーブルは、天板と脚などの部品が組み合わさってできています。
その部品をバラバラにすれば、テーブルという形(色)は消えますが、
部品そのものは消滅していません。

つまり、何かが生まれたわけでも、滅びたわけでもないのです。
因縁が和合すれば「テーブル」という姿が顕れ、因縁が離れればその姿が消える。
このように、「生じた」「滅した」と見るのは、私たちの主観による捉え方であり、
実際には、何も本質的には生じても滅してもいない──これが「析空」の見方です。

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法介 2025/08/06 (水) 11:38:41 修正

この析空の教えは、世界悉檀=俗諦としての真理、つまり物理学や科学でも通用する「客観的な縁起」の視点であり、初期仏教では『阿含経』、アビダルマ仏教では『倶舎論』などに詳しく説かれました。

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法介 2025/08/06 (水) 11:39:34 修正

龍樹は、このような客観的世界の縁起を「此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)」とし、それとは別に、主観的世界の縁起を「相依性縁起(そうえしょうえんぎ)」として説いています。

龍樹の二諦論内容
俗諦客観世界の因果的な縁起(此縁性縁起)
真諦(第一義諦)主観を含めた相互依存的な縁起(相依性縁起)

つまり──

  • 客観の世界は、「此縁性縁起」によって成り立ち、
  • 主観の世界は、「相依性縁起」によって成り立つということです。

そして『般若心経』の「不生不滅」は、まさにこの客観の姿が“空である”ということを明らかにしているのです。


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法介 2025/08/06 (水) 11:41:59 修正

 ここまでの流れをまとめておきます。

  • 「不生不滅」は、テーブルの例のように、物の姿が因縁によって現れたり消えたりするだけで、本質的には「生じても滅してもいない」と見る析空の見方。
  • それは物理的な因果関係の世界(俗諦)の理解にあたり、世界悉檀として説かれる。
  • 龍樹はこのような縁起を「此縁性縁起」と呼び、主観の縁起とは別に分けて説いた。
  • こうした視点で『般若心経』を読むと、「空」の教えが実に多層的に広がっていることがわかる。
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法介 2025/08/06 (水) 11:43:04 修正

次に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」のうち、二番目の「不垢不浄」について説明します。ここで言う「不垢不浄」とは、直訳すれば「汚れてもおらず、清らかでもない」という意味です。つまり、「清い」「汚い」といった価値判断は、事物そのものの性質(客観)に備わった絶対的なものではなく、むしろ私たちの心のはたらき(主観)によって生じるものである、ということを示しています。

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法介 2025/08/08 (金) 08:37:44 修正

長い・短い、汚い・綺麗といった区別は、物としてそこに固定的に存在しているわけではありません。これらは人の心が、そのときの条件によって作り出す相対的なものであり、仏教でいう「縁起」のはたらきに属します。ここで、主観で起こる縁起を「相依性縁起」、客観側の時間的な因果関係を「此縁性縁起」と呼び、両者を対比して理解します。

・主観 = 相依性縁起(心のはたらきによって成立する縁起)

・客観 = 此縁性縁起(因と結果が時間軸で現れる縁起)

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法介 2025/08/08 (金) 08:38:53 修正

【此縁性縁起】

此縁性縁起とは、因と果の必然的な関係を示す縁起のことです。典型的な表現は次の通りです。

「此(これ)があれば彼(あれ)があり、此がなければ彼はない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼も滅する。」

要点を整理すると:

此縁(しえん):直接的・近接的な因や条件。例として「種子」があれば「芽」が生じる関係。

性縁起(しょうえんぎ):因と果の本性上の必然性。種子はその性質として芽を生じさせる力を持つ、という理解。

此縁性縁起の特徴は、事物の変化が時間の経過の中で起こることに依拠している点です。自然現象や物理的変化はまさにこのタイプの縁起で説明できます。言い換えれば、「時間」そのものが重要な条件(縁)となっているのです。

【相依性縁起】

これに対して相依性縁起は、物事の存在や意味が「他との相互依存」によって成り立つことを示します。ここでは時間的な因果よりも、「関係性」そのものが核心です。

例えば、人が「美しい」と感じる花は、花そのものが絶対的に美しいわけではありません。その色合いや形、香り、そしてそれを見る人の経験や感情、文化的背景などが相互に作用する条件の中で、「美しい」という意味が立ち上がります。

同じ花でも、心が沈んでいるときは美しく感じられず、喜びの中ではより輝いて見える――これが相依性縁起のはたらきです。つまり、心の状態や関係性のネットワークによって主観が形成されるのです。

・此縁性縁起:時間軸上の因果の連鎖(客観的な成立)

・相依性縁起:相互依存的な関係性からの成立(主観的な成立)

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法介 2025/08/08 (金) 08:39:09 修正

【具体例:小川の場合】

自然界に「小川」があるとしましょう。雨が大地に降り注ぎ、水が集まって川となって流れる――私たちはそれを「小川」と呼びます。しかし「小川」という名称や概念は、人間の言語や認識によって付与されたものであり、幼児や言語を持たない存在が同じ光景を見ても、そこに「小川」という概念はありません。

ここで私たちが見ているのは、雨が降る → 土を伝って水が集まる → 流れができる、という時間的因果の連鎖(此縁性縁起)の結果として現れた姿(色)です。これは外から観察する外観のレベルであり、「色即是空(色はすなわち縁起である)」の感覚です。

では次に、同じ小川を内観の視点から見てみましょう。あなたがその小川を「美しい」と感じるとき、それは水や光の物理現象だけで生じているわけではありません。そこには、次のような条件が関わっています。

・過去の思い出(子供の頃に遊んだ川の記憶)
・季節や天気(春の柔らかな日差し)
・心の状態(穏やかな気分か、悲しい気分か)
・文化的背景(童謡や文学作品に描かれた川のイメージ)

これらの条件が相互に依存し合い、「これは小川だ」「美しい」「懐かしい」といった主観が立ち上がります。もし心が沈んでいれば、小川は寂しく冷たい場所に見えるかもしれません。これが相依性縁起であり、内側からの観察=内観の領域です。

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法介 2025/08/08 (金) 08:40:59 修正

【唯識による外観から内観への変換プロセス】

唯識では、この外観(客観)から内観(主観)が生じる過程を、次のように説明します。

1.外境(例:小川)が此縁性縁起により現れる —(色)〔外観〕

2.眼識による認識情報が阿頼耶識に薫習される —(受)〔外観から内観への入口〕
(↑これが「色即是空」)
(↓ここから「空即是色」)

3.薫習された種子を因として空即是色の縁起が起こる —(想)〔内観〕

4.阿頼耶識の種子が因となって末那識(第七識)を縁に「種子生現行」が起こる —(行)〔内観の深層構造〕

5.第六識(意識)でその現行が具体的に顕現し、これが主観となって再び阿頼耶識に上書き保存される —(識)〔内観の表層〕

このように、順観(外境 → 阿頼耶識への薫習)と逆観(阿頼耶識の種子 → 主観の顕現)が循環することで、私たちの「主観と客観」という二重構造の世界観が成立します。
この全体的なシステムこそが、仏教で説かれる五蘊(色・受・想・行・識)
の働きであり、私たちが見ている世界(仮観)は、外観と内観の相互作用によって立ち上がっているのです。

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法介 2025/08/10 (日) 12:38:09 修正

この二番目の「不垢不浄」を龍樹の四悉檀の為人悉檀(衆生の根性・立場に応じて説く教え)で読み解くと、まさに相依性縁起の構造が浮かび上がります。

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法介 2025/08/11 (月) 05:10:58

例えば、

「垢」とは、私たちが主観的に“汚れ”と見なす状態

「浄」とは、主観的に“清らか”と見なす状態

これらは固定的な実体として存在するのではなく、私たちの価値観・経験・心の状態・文化的背景など、さまざまな条件が相互依存して立ち上がる評価です。
同じ対象でも、ある人には「汚れている」と映り、別の人には「清らか」と映るのは、この相依性によるものです。

為人悉檀では、このように相手の世界観に合わせて「垢」「浄」を相対化して説くことで、固定観念からの解放を促します。
これにより「垢も浄も、条件によって変わる空なるもの」と理解でき、相依性縁起が実感としてつかめます。

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法介 2025/08/11 (月) 05:11:56

「垢」とは汚れ、「浄」とは清らかさを意味しますが、これは絶対的・固定的な実体ではありません。
同じ対象でも、ある人には「汚れている」と映り、別の人には「清らか」と映るのは、私たちの価値観・経験・文化的背景・心の状態といった条件が相互に依存して生じるためです。
このように、評価や意味づけが相互依存によって立ち上がる構造を相依性縁起といいます。為人悉檀では、衆生の立場や認識枠組みに合わせて「垢」「浄」の相対性を説き、固定観念から解放へ導きます。

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法介 2025/08/11 (月) 05:12:35

此縁性縁起の視点から見ると、「汚れ」や「清らかさ」の評価が付く前の対象は、ただ条件がそろって現れた現象にすぎません。

雨が降り、川が流れるという物理的プロセスのように、因と縁が結びついて現れた“現象そのもの”です。そこには「垢」も「浄」も刻印されていません。

しかし、その現象が私たちの心に触れたとき、相依性縁起のはたらきによって「汚い」「美しい」といった主観的評価が生じます。

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法介 2025/08/11 (月) 05:13:18

このように、「不垢不浄」は

・此縁性縁起…対象が因と縁によって現れる客観的な姿(評価が付く前)

・相依性縁起…その対象が心の条件によって意味づけられた主観的な姿

の両方を通して理解することで、より立体的に捉えられます。

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法介 2025/08/11 (月) 05:14:30

では、「不垢不浄」を先ほどの小川の例に組み込み、

為人悉檀で解きつつ、

此縁性縁起 → 相依性縁起の流れで説明するとどうなるか。

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法介 2025/08/11 (月) 05:15:45

小川で読み解く「不垢不浄」
例えば、山間に小川が流れているとします。
雨が降り、大地を伝って水が集まり、谷間を流れ下る――この物理的プロセスは、因と縁が整った結果として現れた現象です。
此縁性縁起の立場では、そこに「汚い」も「清らか」もありません。ただ、縁によって現れた水の流れがあるだけです。これが評価が付く前の客観的姿です。

ところが、その小川を見たときのあなたの心はどうでしょうか。
ある人は「透き通って美しい」と感じ、またある人は「濁って汚い」と思うかもしれません。
この評価は、水の性質そのものだけで生まれるのではなく、以下のような条件の相互依存によって形づくられます。

・過去の記憶(子供の頃に遊んだ清流の思い出)
・心の状態(穏やかなときか、苛立っているときか)
・文化的背景(絵画や文学で描かれた川のイメージ)
・直前の経験(濁流を見たばかりか、静かな泉を見た後か)

こうした条件が重なって、「美しい」「汚い」という評価が立ち上がる。これが相依性縁起の働きです。

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法介 2025/08/11 (月) 05:16:25 修正

為人悉檀の観点
為人悉檀では、衆生が抱くそれぞれの立場・感受性に合わせて法を説きます。
小川が「不浄」に見える人には、その見え方が自分の心の条件と縁起していることを説き、
「浄」に見える人にも、同じくそれが条件によって成立していることを示します。
この理解は、「垢」と「浄」を絶対視せず、どちらも縁起の仮の姿であると気づかせ、執着や嫌悪を超える方向へ導きます。

つまり「不垢不浄」とは、

此縁性縁起…現象はただ因縁によって現れる(評価が付く前の姿)

相依性縁起…その現象は心の条件に依存して評価や意味づけが生まれる
という二重の縁起構造を理解させ、価値判断の相対性を見抜く教えです。

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法介 2025/08/11 (月) 05:19:24

では、小川の例を使って「不垢不浄」を五蘊の流れ+唯識構造まで落とし込んでみましょう。

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法介 2025/08/11 (月) 05:21:39

小川で読み解く「不垢不浄」と五蘊の働き

1. 此縁性縁起(客観の成立)
山間に小川が流れているとします。
雨が降り、大地を伝い、水が集まり、谷間を流れ下る――この物理的な流れは、因と縁が整って生じた現象です。
ここには「美しい」も「汚い」もなく、ただ条件に応じた色(物質的現象)が現れているだけです。

五蘊で言えば 色 の段階。
唯識で言えば「外境」としての現象が成立している状態。

2. 外境が心に入る(受)
その小川の姿は、眼識によって認識され、阿頼耶識に薫習されます。
ここでも、まだ「美しい/汚い」という評価はありません。
ただ、外の現象が心に入力されるだけです。

五蘊で言えば 受(感受作用)
ここまでは「色即是空」――現象はただ縁起として現れた空なるもの。

3. 阿頼耶識から主観が立ち上がる(想・行)
薫習された情報は阿頼耶識の種子となり、ある条件(天気、体調、過去の記憶、文化的背景など)と縁起して再び現行します。
ここで「清らかで美しい川だ」とか「濁って汚い川だ」という想(イメージ形成)が起こります。
その評価に伴って「もっと近くで見たい」「離れたい」という行(意志作用)
も動き出します。

この段階は「空即是色」――心の条件が形を与えた主観的世界が立ち上がる。

4. 主観が確定し、再び記憶へ(識)
第六識(意識)が「美しい」「汚い」と判断した内容は再び阿頼耶識に保存されます。
この記憶は次に似た状況に出会ったとき、新たな評価や感情を生む因となります。

五蘊で言えば 識(認識作用)
ここまでが一周すると、また次の因縁のサイクルが始まる。

為人悉檀での「不垢不浄」解釈
小川が「汚い」と見える人にも、「清らか」と見える人にも、その評価は固定的な実体ではなく、心の条件と外の条件の縁起によって立ち上がっていると説く。

これにより「垢」や「浄」への執着や嫌悪から離れ、どちらも相対的で仮の現れにすぎないと気づかせる。

この気づきが、心を自由にし、柔らかくする。

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法介 2025/08/11 (月) 05:30:43

では、「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の最後の〝不増不減〟を

四悉檀の第三悉檀の「対治悉檀」で読み解くと何が観えてくるかと言いますと

「法空」が読み取れて来ます。

唯識教学で言うところの第七末那識に潜む〝根本自我〟の退治です。

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法介 2025/08/11 (月) 05:32:23 修正

不増不減 × 対治悉檀 × 法空

「不増不減」は、存在や真理が増えることも減ることもない――つまり、現象界の変化に関わらず、その背後にある法性は不変であるという教えです。

第三悉檀(対治悉檀)は、衆生の執着や偏見に応じて、それを打ち破る方便を説く段階です。ここでは「増減」という相対的見方にとらわれる心を直接に破します。

・このとき現れてくるのが法空の視点です。法空は、すべての法(存在・現象)が自性をもたないことを意味し、「多い」「少ない」「増えた」「減った」という相対評価自体が、空性の前では成立しないことを悟らせます。

ここでのポイントは、〝時間〟という法が自然界に備わる常住不変の法ではなく、人間の五蘊が造り出している錯覚であると見破る〝空観〟です。

その話はまた別の機会に詳しくお話しましょう。

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法介 2025/08/11 (月) 05:36:56

唯識的に言うと

第七末那識は常に第八阿頼耶識を所縁として「我」を執する根本自我のはたらきを持ちます。

この根本自我は「ある/ない」「得た/失った」という増減の価値基準を基盤に、恒常的に自分を守ろうとします。

対治悉檀としての「不増不減」は、この根本自我の錯覚を打ち破り、法空の智慧を照らし入れる方便です。

ここで「法空」を観じることにより、末那識の我執が緩み、相対的な増減から解放されます。

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法介 2025/08/11 (月) 05:39:16

「不生不滅 不垢不浄 不増不減」を四悉檀で読み解く

(唯識・縁起の視点から)

① 不生不滅 — 第一悉檀「世界悉檀」
・意味:諸法は本来、生まれることも滅することもない。現象は縁によって一時的に現れ、縁が尽きれば形を変えていく。

・縁起との関係:これは此縁性縁起に通じる。あらゆる現象は因と縁の集まりであり、それ自体に固定的な「生」も「滅」もない。

・唯識的説明:外境があって認識が起こるという「色即是空」の領域。事物が「ある」ように見えても、それは縁起の結果に過ぎない。

② 不垢不浄 — 第二悉檀「為人悉檀」
・意味:清らか(浄)と汚れ(垢)という区別は、衆生の心の働きによって立ち上がる相対的なもの。

・縁起との関係:これは相依性縁起に通じる。対象(外観)そのものは垢でも浄でもないが、見る者の内面(内観)の条件によって評価が変わる。

・唯識的説明:第六識の認識に文化的背景・記憶・感情が作用して、「垢」「浄」というラベルが貼られる。これは「空即是色」の領域であり、主観が世界を彩る。

③ 不増不減 — 第三悉檀「対治悉檀」
・意味:法性は増えることも減ることもない。得た/失った、多い/少ないという評価は相対的錯覚にすぎない。

・縁起との関係:増減という二元的評価を破ることで、現象の背後にある法空が明らかになる。

・唯識的説明:第七末那識が抱える根本自我は、常に「私が得る/失う」という増減評価に執着する。この執着を対治する方便が「不増不減」である。法空の智慧によって、末那識の我執が退き、相対評価から自由になる。

総合
この三句は、それぞれ四悉檀の方便と唯識の八識構造を通して読むことで、

客観的縁起(此縁性縁起)=「不生不滅」

主観的縁起(相依性縁起)=「不垢不浄」

自我執滅尽の法空(末那識の対治)=「不増不減」
という三段階の悟りへの道筋を示していると理解できます。