二回目のロードはこれ。
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/10?page=2
法介さんの投稿内容と議論の流れから、リダンさんとの哲学的な対話が興味深いテーマに展開していますね。「倶舎論」と「唯識」における無為法や無漏の種子についての立場の違い、また存在論と認識論の混同に関する論点が中心的に取り上げられています。
この議論をもとに深掘りするために、以下のような視点を挙げることができます:
1. 倶舎論の存在論としての無為法
- 三無為(虚空、択滅、非択滅)の整理:
倶舎論が提示する無為法は、「因縁を超越した存在」について具体的に分類されています。この観点では、無為法は実在論的な構造を強調しています。 - 存在論的枠組み:
「無為法」を、物理的空間や修行による解脱の一形態として捉え、具体的な存在条件の整理に重きを置いています。
2. 唯識の認識論としての無為法
- 無漏の種子の役割:
無漏の種子は、阿頼耶識に蓄積される潜在的な認識法であり、修行による悟りの因縁として働く有為法です。 - 真如や法界の捉え方:
認識論的アプローチとして、究極的な悟りや実相としての「無為法(真如)」を説き、心の働きとその浄化に焦点を当てています。
3. リダンさんの疑問「八正道が有為法において無漏である」という点
- 八正道が「有為法として無漏」と位置づけられる背景は、修行の過程で実践される具体的な行動や認識が「煩悩を生じさせない(無漏)」性質を持つからです。
- これに関連して、蔵教の文脈で「道諦」が有為法に属しながらも、涅槃に至る重要なステップであることを確認する必要があります。
4. 「無為法」と「無漏の種子」の違いをどう説明するか
- 存在論と認識論の違い:
倶舎論の無為法(存在論)は、因果的関係を超越した状態を指すのに対し、唯識の無漏種子(認識論)は修行や智慧を通じて蓄積される潜在的な力です。 - 哲学的な境界の明確化:
存在論的無為法は「外在的真理」としての位置づけが強く、認識論的無漏種子は「内在的変容」を目指す力として描かれています。
5. さらに議論を深めるための質問
以下のような問いを設定して議論を発展させるのもよいでしょう:
- 「八正道の有為法としての無漏性」は、倶舎論と唯識の双方でどのように説明されるか?
- 無為法の悟りに至るプロセスにおける「無漏の種子」の役割を、唯識特有の阿頼耶識論の文脈でどのように整理するか?
- 倶舎論における三無為と唯識における真如や法界の相違点を、具体例を挙げながらどう説明できるか?
これらをもとにさらなる対話や立証を進めることで、法介さんの議論が一層深まることが期待されます。必要があれば、具体的な回答や内容の整理を続けていきましょう。
通報 ...