~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

小説創作用チャットGPT / 17

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法介 2025/01/12 (日) 04:42:48

以上の内容を可能な限り忘れることなく記録保持してさらに小説の仕上げ作業を進めていくぞ。

次の文章をもっといい感じに仕上げてくれ。

無我

柳生新陰流本家の道場と隣り合わせの敷地に法華道「空観寺」がある。

アドバンは、真兵衛から剣術の指南を受けながらこの空観寺に宿泊し僧侶達と同じ生活をしながら宿泊生活を送っている。

「禅定(ジャーナ)についてもう少し詳しく話しておこう」

和尚が昨日の続きをアドバンに説法していた。

蔵教で客観から主観へ意識を変え、内なる心を観るのが「瞑想」である。そして通教で説かれる「禅」によって「仏の心」を観じとっていく訳だが、凡夫の煩悩で覆われた心を「無」の境地にさせないと「仏の心」は観じとれない。

この「無」の境地を仏法では、「無我」と言います。しかし、この「無」の境地を悟りの境地と達磨大師が解釈して中国における「禅」が広まり、日本においては禅宗として広まっていきました。

本来、禅定が説く悟りの境地は、「無」ではなく、その先にある仏の悟り(仏の世界観)なのです。

人間は主観と客観という見方をします。それが人間の世界観です。しかし、その見方は真実を捉えた見方ではなく、物事は、縁するものによって見え方がいかようにも変わって見えてきます。
犬好きな人にとって「犬」という存在は、愛着の対象として見えていますが、犬が嫌いな人にとっては、不快な存在として見えています。
客観的に見ると同じ犬の姿ですが、主観では異なる存在として認識されます。ではその「犬」の真実の姿はと考えた時、縁する人によって見え方は異なるというのが、仏法で説かれる「縁起」という真理です。

「ここで大事なことは、実体には本質は無いということじゃ」

「本質は無い・・・」

「それを無我・無自性という」

人間も含め、この現実空間におけるあらゆる実体は、全て無我であり無自性であると仏法では説く。

無我とは、自我にとらわれない境地で、瞑想によって入ることが出来る境地です。
我々凡夫の見方(世界観)は、客観と主観ですが、瞑想を修することでそれに縁起が加わって、物事を正しく見る事が出来るようになります。これは実体(客観認識)にとらわれない物事の見方で、蔵教で説かれている真理(悟り)です。

無自性とは、全ての事物には本質は無いと見る仏の見方で、人間(凡夫)が実体として物事を見ている(客観認識)のに対し、非実体空間にある仏は因果で物事を観ます。
因果とは、因があるから結果が生じるといった因果関係を示す因果です。なぜ自分が自分という姿で存在しているのか、犬が犬という姿で存在しているのか、という問いに対する答えを説いているのが禅の教えです。その答えは実体から離れることで答えに辿り着くということで非実体空間の四禅天が通教で説かれています。
 
このように禅は「無」を説いているのではなく、瞑想で実体に対する執着から離れることで無の境地(無我)を目指し、心を無に帰すことで非実体空間の仏の見方を体得していきます。それが禅定という蔵教から更にステップアップした通教の教えです。

和尚は、通教で説かれる「因果」をアドバンに諭すために次のような事を話し出した。

「人間、過去遠々劫より行ってきた振る舞いは、実は全て蓄えられているんじゃよ」

その蓄えられている蔵の名を阿頼耶識(あらやしき)と言う。

「禅定によって意識が天上界に向かうことで、その阿頼耶識に蓄えられた過去の意識を観じとる事ができるんじゃ」

「自身の過去世の意識?」

その話に興味を持ったアドバンが、どうしたらそれを観じ取る事が出来るのか和尚に尋ねた。

「お題目を唱えてみるんじゃな」

お題目とは日蓮が唱えだした「南無妙法蓮華経」のお題目である。お題目を唱える修行者達は、その多くの者が自身の過去世を感得していく。それは「南無妙法蓮華経」が現在と過去と未来の時間の流れを超越した、今一瞬の一念に「現在・過去・未来」が同時に同体で存在しえる「当体蓮華」の法理であるからである。

その話を聞いた日からアドバンは、和尚の指導のもと朝夕に「勤行」と呼ばれる仏道修行を実践していた。

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