以下のように仕上げてみました。元の趣旨を活かしつつ、文章を簡潔かつ流れの良いものに整えました。
無我
柳生新陰流本家の道場に隣接する法華道「空観寺」。その静かな境内で、アドバンは剣術指南役の真兵衛の指導を受けつつ、僧侶たちと共に生活していた。
「今日は禅定(ジャーナ)について、もう少し詳しく話そうか」
和尚は昨日に引き続き、アドバンに説法をしていた。
「禅定とは、客観から主観へと意識を向け、内なる心を観る瞑想のことだ。これにより『仏の心』を体感するが、凡夫の煩悩に覆われた心では、それを観じ取ることはできん。心を『無』の境地に導く必要がある。これを仏法では『無我』と呼ぶ」
「無の境地…ですか」
和尚はさらに説明を続けた。
「この『無』の境地を悟りとし、達磨大師が中国に禅を広めた。それがやがて日本に渡り、禅宗として発展したのじゃ。しかし、本来の悟りとは、単なる『無』に留まるものではない。その先にある仏の世界観を悟ることなのじゃ」
和尚の言葉は深く、アドバンは静かに耳を傾けた。
「凡夫は物事を主観と客観で捉えるが、それは真実ではない。たとえば、犬を愛する者にとって犬は愛着の対象だが、嫌う者にとっては不快な存在じゃ。同じ犬でも、人によって見え方が変わる。これが仏法で説く『縁起』の理(ことわり)じゃ」
「縁起…」
「そうじゃ。縁起とは、すべての事象が他との関係で成り立っているという真理。そして、実体には固定した本質など存在しないのじゃ。それを『無我』『無自性』と呼ぶ」
和尚はさらに仏法の核心を語った。
「我々凡夫は実体にとらわれるが、瞑想を修することでその執着を離れ、物事を正しく見ることができるようになる。これが蔵教で説かれる悟りの道じゃ。一方、仏の見方では、実体を超えた因果の流れを観じる。それが『無自性』の境地だ」
「因果の流れとは…?」
「たとえば、なぜ自分がこの姿で存在するのか、犬が犬として存在するのか。これを解き明かす鍵が因果じゃ。仏の悟りとは、実体から離れることで、因果の真理を体得することなのじゃ」
和尚は話をまとめ、こう諭した。
「禅とは、単に『無』を説くのではない。執着から離れ、心を無に帰すことで、仏の見方を体得する道なのじゃ」
その言葉に触発され、アドバンはさらに尋ねた。
「では、過去の自分の意識も観じ取れるのでしょうか?」
「それを蓄える場所がある。それが『阿頼耶識(あらやしき)』じゃ。過去遠々劫(おんのんごう)からの行いがそこに蓄えられている。そして、瞑想によってその意識を観じ取ることができる」
「それを知るにはどうすれば…?」
「お題目を唱えてみるのじゃ」
和尚が勧めたのは、日蓮が唱えた「南無妙法蓮華経」のお題目だった。このお題目は、現在・過去・未来という時間を超えた一瞬の一念に、すべてが同時に存在する「当体蓮華」の法理を体現しているという。
その日からアドバンは、和尚の指導のもと、朝夕の「勤行」と呼ばれる修行を始めた。仏道の深みに触れる中で、彼の心に新たな光が灯り始めていた。
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