空・仮・中
「空」は、空・仮・中の三観という仏の観かたを、凡夫が心で観じ取ることに他ならない。それを理解するためには、まず自分の「我」に覆われた心を取り払わなければならない。そして、無の心、すなわち「無我の境地」に至らなければならない。その先に、ようやく「空」を観じ取ることができるとされている。
アドバンは最近、この「仏の観かた」について考え込んでいた。無我の先にある「空」をどのように捉えるべきか、心の中で模索し続けていた。そんなある日、思いもよらぬ事件が起きた。
アドバンがその事件を知ったのは、朝食後の休憩時間に流れたテレビのニュースだった。
「昨夜11時頃、北九州の繁華街で宝石店に窃盗に入った男が逮捕されました」
「男の名前は、山根龍二(27歳)で…」
アドバンは、その名前を耳にした瞬間、胸騒ぎがした。龍二――それは、かつて深い縁のあった名前だった。テレビの画面に映し出された男の顔。アドバンは、思わず息を呑んだ。
「龍二…」
彼が「犯罪者」として世間に認識されてしまったその瞬間、アドバンの頭の中には、何とも言えぬ重たい感情が押し寄せた。彼は、その知らせをぼんやりと見つめながら、心の中で問いかけた。
「龍二、いったいどうして…?」
その事件の詳細を知ったのは、しばらく後のことだ。龍二が取り調べを受けている部屋に、雄一朗が飛び込んできた。
「龍二!お前、何やってんだ!」
雄一朗の慌てふためいた顔を見て、龍二は思わずその胸にすがりつき、子供のように泣き出した。
「雄さん!俺…!」
「こいつは俺が取り調べる」と言い放つと、雄一朗は一歩前に出て、取り調べを引き受けた。龍二はその後、雄一朗にすべてを打ち明けることになった。
龍二の生い立ち、そしてここまでの道のり――その全てが雄一朗の耳に入った。彼の故郷は佐賀で、母親一人に育てられたという。父親は家業を継ぐことに嫌気がさし、龍二が生まれてすぐに家を出て、都会に憧れて去っていった。
残された龍二の母親は、ひたすらに農業の仕事をこなしながら、一人で龍二を育て上げた。しかし龍二は、田舎の生活に嫌気がさし、都会に憧れ、やがて今の生活へと至った。
ある日、龍二の母親から久しぶりに連絡があった。その内容は、母親が病気であるというもので、検査の結果、癌が見つかったと告げられた。しかし幸いにも早期発見で、手術をすれば助かるという。
「手術って、お金かかるんじゃないか?」
龍二は心配そうに尋ねたが、母親は安心させるように答えた。
「うん、百万円くらいはかかるだろうね。でも、保険に入っているから大丈夫。お前が心配することじゃないよ。」
龍二はその言葉に一瞬安堵したが、母親の顔には年齢が色濃く浮かび上がっているのを感じた。そして、母親が作る懐かしい料理を味わいながら、ふと「母ちゃん、また年老いたなぁ…」と感じた。
翌日、龍二は母親が農作業に出かけている間、タバコを買いに出かけた。そして実家の前に差し掛かったとき、思わず立ち止まってしまった。なぜなら、近所の女性たちが二人して母親の話をしていたからだ。
「山根さん、癌だってね。保険にも入ってないって聞いたわよ。」
その言葉を聞いた龍二は、母親にそれを尋ねることができなかった。母親が自分に心配をかけまいと、あえて何も言わなかったことを、龍二は痛いほど理解していた。
(母ちゃん、ごめん…)
情けない気持ちに駆られた龍二は、いつしか金目のものを求めて、街の宝石店に押し入っていた。
この章では、アドバンが「空・仮・中」の仏教的な教えを深く考え、龍二との過去と再び向き合う様子が描かれています。龍二の行動に込められた彼の背景や苦悩が明かされ、その中でアドバンは人間の心の動きや「認識作用」について考えを巡らせます。また、「仏の観かた」を追い求めるアドバンの内面的な成長も、事件を通じて少しずつ形作られていく過程が示されています。