引き続きいい感じで仕上がていってくれ。
「馬鹿やろう。なんで俺に真っ先に相談しなかった?」
「相談したかったよ
だけどついこの前、雄さんに迷惑かけて申し訳なくて・・・」
人は見方によって「悪人」と認識されたり「善人」と認識されたりする。その善人・悪人の善悪の基準はおおむね世間の常識による所が大きい。世間の常識は仏法では一つの「縁」として考える。「世間の常識」が「縁」となって龍二は悪人として認識される。しかし、「龍二の話し」が「縁」となれば母親想いの良い息子として龍二は認識される。どちらが真実の龍二の姿かと言えば、どちらも龍二である。ただ縁によってその姿の顕れ方が異なって顕れる。これが凡夫(人間)の空・仮・中である。
<凡夫の見方“仮”>
仮---世間の常識 (客観) 罪を犯した犯罪者
空---龍二の話し (主観) 母親想いの良い息子
中---縁によって顕れる姿(縁起) 真理
この「凡夫の見方」を仏法では「仮」と言って、縁によって姿が変わる仮の姿と説く。「空」はその「仮」に対して凡夫の見方では無く、仏の見方を「空」と説く。
「凡夫の見方」は主観と客観からなる。それに対して肉体から解脱した肉体が伴わない意識の「仏の観かた」は、見るという認識器官である「眼」も存在しないので意識が感じ取る「観る」という認識に変わる。
「仏の観かた」は、人間の「主観と客観」とは異なり「仮観・空観・中観」の三観からなる。
「仏の観かた」の仮観とは、心によって実体は生じるという真理である。(仮諦の一念三千)
「仏の観かた」の空観とは、心が変われば実体の見え方も変わって見えてくるという真理である。(空諦の一念三千)
「仏の観かた」の中観とは、実体の方に真理は無く、心の側に真理はある、という真理である。(中諦の一念三千)
ここでいう一念三千とは、一念は「今一瞬の心」を指し、その一瞬の心から三千種の差別の色相(実体)が生じることを言う。
「差別の色相」とは「異なる実体」という意味である。また仮諦・空諦・中諦の「諦」は、真実とか真理を意味する。
人間(凡夫)が肉体を基とした感覚器官で実体を「見る」見方(客観)は真実ではない。なぜなら見る人によって主観は異なるので見る人が変われば同じ対象であっても見え方は異なって見えてくる。これが縁する人によって対象の認識は変わって映るという「縁起」の真理である。
<凡夫の見方> 瞑想
客観---俗諦(世間法)
主観---真諦(仏法)
中観---縁起(真理)
それに対して「仏の観かた」は、
<仏の観かた> 禅定
仮観---仮諦の一念三千
空観---空諦の一念三千
中観---中諦の一念三千
と成る。
取り調べが終わった翌日、雄一郎が龍二に一冊の本を差し出した。
「この本を佐賀のおふくろさんに送ってあげな」
龍二が手に取った本は、近藤誠著書の「もうがんでは死なない」とい本だった。
利益主義にそまった現代医学の歪んだ実体がその本には綴られている。早期発見で癌は助かるといって、手術を進めてくる医者。しかし、癌は、本物の癌と放っておいても問題のない「癌もどき」とがあると近藤氏は言う。早期発見で助かったという患者さんは、本来切らなくてもすんだ癌だったから助かったのであって、本物の癌であれば、早期発見で切り取っても助からないので、手術をする意味は無いというのだ。では、医者は何で手術を奨めてくるのか。興味がある方は氏の書籍を読んでみると良いと思います。他にも「医者に殺されない47の心得」など、なるほどと納得させられる書籍を多数出版されています。
雄一郎は言った。
「龍二、賢くないと大事な人は守れないぞ」
それは、頭が良いとか悪いとかの話ではなく、生きる事に賢くあれという雄一郎の人生の助言であった。