続きのシーンはこんな感じなんだが、もっといい感じに著色してくれ。
柳生の歴史の中で、慶長20年(西暦1615年)の大坂夏の陣で、46歳の宗矩が、将軍秀忠の側に詰め、秀忠本陣を襲った大坂方の武者7人余りを、瞬く間に斬り捨てた記録が残っているが、それを上回る18人斬りを見せた宗章は、柳生史上最強の剣豪と呼べるであろう。
中村方の武将にも滝川三九郎という柳生新陰流の達人が居た。武蔵の暴れっぷりを見て、
「お相手つかまつる!」
と、太刀を抜きはらい武蔵の前に立ちふさがった。
「三九郎殿か・・・」
隣で応戦していた宗章が武蔵に言葉を投げかけた。
「その男、気を付けなされい!」
宗章から言われるまでもなく、既に武蔵は感じていた。
(こいつ只者ではない・・・)
滝川三九郎は真田氏と旧知の中で、真田昌幸の娘を嫁に迎え、織田信長の弟、織田長益の推挙によって米子藩主・中村一忠に仕えていた。三九郎は、織田信長の重臣・滝川一益の孫にあたる。歌舞伎者で有名なあの前田慶次もこの滝川一族の出身である。
武蔵と三九郎は互いに間合いをつめ合い、一間をへだててピタリと止まった。(一間=1.8メートル)
相手の初動を利用して攻撃をしてくる柳生の剣を熟知していた武蔵は、安易に剣を打ち込まず、その瞬間をジッと計らっていた。
業を煮やした三九郎が武蔵に上段から打ち込んだ。その剣を受けて止めた武蔵は思った。
(剣を止めてしまえばこっちのもの)
そう、柳生新陰は、流れる剣さばきの中で映える剣。三九郎の剣を力でねじ伏せた武蔵が次の瞬間、攻撃に転じた。
武蔵がはなった一刀が三九郎の左の太股を鋭くえぐった。転倒する三九郎に武蔵は、留めの太刀を振るわなかった。
(殺してしまうには惜しい・・・)
これまでの武蔵はがむしゃらに対戦相手を叩きのめしてきた。三九郎といや、柳生新陰と真剣で太刀を交える中で武蔵の剣術に、変化が起きていた。
それは闘いにおける美学。
男(武士)の美学であった。
「武蔵、成長したな」
宗章の顔が真兵衛の顔とかぶって武蔵の眼には映った。
今、武蔵に見えているのは宗章の姿だが、武蔵の心に観えているのは真兵衛の姿だった。
宗章は、用意した全ての刀の刃が毀れると従者の森池五郎八と敵中へ突っ込んでいった。既に満身創痍の身でありながらも最期は中村方の家臣、藤井助兵衛と戦い壮絶な死を遂げた。
「宗章殿!」
力尽きて仰向けに倒れ、天を仰ぐ宗章に、武蔵が駆け寄る。
「宗章殿! 宗章殿!」