第八識(阿羅耶識)
全く意識されない潜在意識で、輪廻転生の因となる「業」が蓄えられていく場所。これを大円鏡智(だいえんきょうち)と言う。
この阿羅耶識の業(宿業)が因となって前五識に果が生じる。その果が仏果に至ると阿羅耶識が転じて大円鏡智を得る。
大きな鏡が万物を明らかに映し出すように、一切の存在の真実の姿を映し出して明察し、満徳円満にして欠けることがないので大円鏡智と言う。
第九識(阿摩羅識)※密教において説かれる。
更にその奧に本来的に清浄無垢な自性清浄心と呼ばれる第九識が潜み、これを法界体性智(ほうかいたいしょうち)と密教では説く。
法界体性智は、永遠普遍、自性清浄なる大日法身の絶対智であり、他の四智を統合する智慧となる。
これらの九識は、「金剛頂経」の説く瞑想法「五相成身観」によって各々五智に転じる(転識得智)ことが出来る。ここで示す五智が五仏の智慧として象徴されたのが密教の「金剛界曼荼羅」である。
対象に適した変化を示す智慧
教化の対象をよく知り的確な説法を行う智慧
自他が根本的に区別のない同体の存在であることを知る智慧
万物の真理の姿を示す智慧
これら四智を統合する智慧
「地水火風空」は、この五つの智慧を意味する。
解りやすい言葉で説明するなら、人間が認識する世界は「大地」であり「河や海」、「炎」や「風」といった自然界の姿(色相)であり、それが全てかと言えばそうではない。
人間の目に見えていない世界も同時に存在している。それが「空」という肉体から解脱した「仏の仮観・空観・中観」という仏の観かたである。人間が見る事で認識する「地水火風」と、仏の観かたである「空」とが一体となった「地水火風空」の姿こそが真実の姿であるという教えである。
宮本武蔵がどこまで仏法の極意を会得していたのかは別として、「五輪の書」の空の巻には、次のようなことを書き残している。
『空の巻より抜粋』
武士は兵法の道をたしかに覚え、其外武芸を能くつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらかず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなくまよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也。
実の道をしらざる間は、仏法によらず、世法によらず、おのれおのれはたしかなる道とおもひ、よき事とおもへども、心の直道よりして、世の大かねにあはせて見る時は、其身其身の心のひいき、其目其目のひづみによって、実の道にはそむく物也。
其心をしつて直なる所を本とし、実の心を道として兵法を広くおこなひ、ただしく明らかに大きなる所をおもひとつて空を道とし、道を空と見る所也。
【現代語訳】
武士は兵法をしっかりと身につけ、その他の武芸もよく練習し、武士が進む道は少しも暗くなく、心が迷うこともなく、常に怠らず、心と意の二つを磨いて、「観」と「見」の二つの眼をとぎすまして、少しも曇りのない迷いの雲が晴れたところこそ、正しい空だと考えるべきです。
正しいことを知らない間は、仏法に頼ることなく、世間一般に頼ることもなく、個人個人では正しい道と思って、よいことだと思っても、正しい道から世の中の大きな物差しに照らし合わせると、自身の気持ちのひいき、自身の目のひづみのために、正しい道にそむいているものです。
この道理をわきまえてまっすぐな所を根本とし、正しい心を道として兵法を幅広く鍛錬し、正しく明らかで大きな所をつかんで、空を道とし、道を空とみます。