薩英戦争におけるイギリスの認識と薩摩藩への評価
薩英戦争(1863年)は、イギリスにとって単なる「生麦事件への報復」を超えた結果をもたらし、特に薩摩藩への評価に大きな影響を与えました。この戦争を通じて、イギリスは薩摩藩の軍事力、組織力、そして柔軟な外交姿勢を認識し、「侮れない相手」であると見なすようになりました。
1. 薩摩藩に対するイギリスの認識
薩英戦争を経て、イギリスは薩摩藩を以下のように評価するに至りました。
(1) 軍事力と戦闘能力の高さ
薩摩藩は、西洋の技術に基づく大砲や武器に乏しかったにもかかわらず、イギリス海軍に対して予想以上に粘り強い抵抗を見せました。
- 薩摩藩は沿岸に設置した砲台を用い、英艦隊に対し激しい砲撃を行い、一部の艦船に損害を与えました。
- 当時のイギリス海軍は世界最強と言われており、地方の一藩に過ぎない薩摩がこれほどの抵抗を見せたことは驚きでした。
- また、薩摩藩士が危険を顧みず敵艦に砲撃を加えた行動は、イギリス側に「薩摩人の武士としての士気の高さ」を印象づけました。
(2) 薩摩の組織力と国際的視野
薩摩藩は戦争後の対応でもその「柔軟さ」と「交渉力」を示しました。
- 戦争で敗北したにもかかわらず、迅速にイギリスと和平交渉を行い、損害の賠償に応じると同時に、イギリスとの貿易関係を構築することに成功しました。
- 戦争を通じて敵対したイギリスから、逆に軍艦や武器を購入し、その技術を吸収するという合理的かつ現実的な態度を示しました。
これらの要素から、イギリスは「薩摩藩は徳川幕府とは異なり、柔軟で革新的な政治判断ができる組織」として認識しました。
(3) 倒幕運動への潜在的な影響力
イギリスは、この戦争を通じて「薩摩藩が日本国内で重要な政治的役割を担う可能性がある」と考えるようになりました。イギリスの外交官や商人たちは、薩摩藩が持つ軍事力と国際的視野を、将来的な徳川幕府への対抗勢力として注目しました。
2. 薩英戦争の詳しい戦況内容
(1) 開戦の背景
- 生麦事件(1862年8月):薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件が発端。
- イギリスは事件の謝罪と賠償金の支払いを求めましたが、薩摩藩はこれを拒否。これにより、イギリスは軍事行動を決定しました。
(2) 戦闘の概要
- 1863年8月15日:イギリス艦隊7隻(フリゲート艦や砲艦)が鹿児島湾に侵入。イギリス艦隊の目的は、賠償金と謝罪の強要、さらには薩摩藩の威圧でした。
- イギリスは鹿児島の市街地に対して砲撃を開始し、薩摩藩の砲台も応戦。これにより激しい砲撃戦が展開されました。
(3) 薩摩藩の抵抗
- 沿岸砲台の活躍:薩摩藩は鹿児島湾沿岸に配置した砲台からイギリス艦隊に砲撃を加え、一部の艦船に損害を与えました。
- 奮戦する薩摩藩士:薩摩藩士たちは砲台での応戦や砲弾の補充など、戦局が厳しい中でも奮戦を続けました。
(4) 戦闘の結果
- 鹿児島市街地の一部が焼失し、多くの民間人が被害を受けました。
- 薩摩側の死者は約20名とされていますが、イギリス艦隊も数名の死傷者を出しました。
- 戦闘自体はイギリス側の戦術的勝利とされますが、薩摩藩の激しい抵抗によりイギリスは撤退。
(5) 和平交渉
戦闘後、薩摩藩はイギリスとの和平交渉を開始し、賠償金の支払いを約束する一方、イギリスから最新の軍事技術や武器の導入を図ることで、戦争を外交的に転換しました。この結果、両者の関係は一転して友好的なものとなり、薩摩藩はイギリスから軍艦を購入するなど技術導入を進めました。
3. 薩英戦争の影響
薩英戦争の経験は、薩摩藩にとって大きな転機となりました。
(1) 技術革新の加速
戦争を機に、薩摩藩は西洋の軍事技術を積極的に導入するようになりました。イギリスから購入した軍艦や大砲を利用して軍備を近代化し、これが後の倒幕運動において大きな力となります。
(2) 薩摩の国際的地位の向上
薩摩藩は、イギリスとの交渉を通じて国際的な視野を広げ、単なる地方藩から一歩進んだ「国際的な視野を持つ政治勢力」として評価されるようになりました。
(3) 倒幕運動への布石
イギリスはこの戦争後、薩摩藩を倒幕勢力の一角として注視し、幕府に対する関与を控える一方で、薩摩や長州を間接的に支援する動きを見せました。この結果、薩摩藩は倒幕運動の中心として台頭しました。
薩英戦争は、薩摩藩がその軍事力、外交力、柔軟な対応力を国際社会に示した出来事でした。同時に、イギリスにとっても「日本」という国を再評価するきっかけとなり、薩摩藩を日本近代化の牽引役として認識する重要な契機となりました。