問うていわく。もしは三種の解脱を明かして三種の般若に類通せば、なんぞまた三種の解脱を用って三種の涅槃に類通するを得んや。般若はこれ因の名、涅槃はこれ果の称、これすなわち因と果と混乱の過ちならん。
問者の言い分は、仏の智慧である般若は覚りに至る為の「因」にあたります。その因位にある般若と果位にある涅槃が類通すると混同して乱立するではないかと突っ込んでいる訳ですね。因と果がそのまま=で類通するのはおかしな事だと。
それに対して智顗は次のように答えています。
答えていわく。別義に、経論にはときにこの説を作すものあり。円通了義の経なる般若と涅槃とは、並びに因果に通ず。ゆえに智度論(大智度論)にいわく、「もしは如法の観佛と般若と涅槃とは、これ三則一相、それ実に異なりあることなし」と。また涅槃の三徳は不縦不横、あに般若は果に至らずというを得んや。
又、次のようにも答えております。
三種涅槃に類通せば、一つに、法身。二つに、般若。三つに、解脱なり。真性の解脱は即ち法身。実慧の解脱は即ち摩訶般若。方便の解脱は即ち解脱なり。ゆえに涅槃経にいわく、「諸佛菩薩は、調伏するところの衆生の処に随うを、名づけて解脱となす」と。もしは煩悩を断じて生死を離るるを解脱となさば、二乗となんぞ異ならん。いま明かさく、大乗には、解脱して五道に生じてその身を示現す。自ずらすでに無縛なれば能く他縛を解す。この三徳は不縦不横にして三目のごとくなるを秘密蔵と名づけ、大涅槃を成ず。三種の解脱と、三道、三識、三佛性、三般若、三種菩提、三大乗、三佛、三涅槃、三宝も、またかくのごとし。みな不縦不横にして世の伊字のごとくなるを秘密蔵と名づけ、大解脱と名づく。すなわちこれ、大涅槃の百句の解脱、法華には一切の解脱を明かせるなり。
ここで智顗は、三諦の円融を説いているのがチャッピーに読み取れるかな?